第三章
月に嵐 弐
その日は雨だった。今日はさすがにお月さんも休養日だろう。お客さんも少なそうだな。仕込み終わった小鉢を冷蔵庫にしまいながら、オレは開いた半月窓の向こうをぼんやり見遣っていた。
美月さんは、今日は少しだけ憂鬱そうだ。今夜はあまりいいことがないって、予感しているかのように。
そうなんだよな。美月さんといる時間が長くなったせいかしらん、オレは半月でのバイトを始めてから妙に勘が冴えるようになった。戸口に誰かが立つと、誰がどんな状態で来てるのかだいたい察知できるンだ。えへん。って、自分でも結構怖いんだけどな。
そして、美月さん……いや、美月さんだけでなく、オレたちが揃って苦手にしているお客さんが来る予感が、もう現実になろうとしていた。重たく足を引きずるような音が、扉の前でしばらく右往左往してる。
あ、これはぐっちぃだな。オレは美月さんに目配せする。今日も舞台でトチったんだろう。いつものことだけど、今日は念入りに愚痴りそうな気配がする。
いよいよって感じで。扉をゆっくり開けて、ぐっちぃが入ってきた。やっぱりか。あれ? でも、雰囲気がいつもと違う。オレの勘はハズレたかな?
あ! 分かった。珍しー。いつもは半月でしか飲まないぐっちぃが、もう酔ってる。出来上がってるんだ。こんなのは初めてだな。何があったんだろう?
ぐっちぃは美月さんに目を向けず、黙ったまま真直ぐ一番奥のバーカウンターの席に行った。いつもならもう愚痴が流れ始めてるはずなのに、今日はカウンターに両肘をついて、黙って俯いてる。あさみちゃんがその様子に戸惑ってる。いつもは尾を振るイヌみたいに、誰にでも『かまって光線』発射しまくるのに。それをどうかわそうか、みんなで示し合わせてるのに。
突然、ぐっちぃが懐からカードの箱を出した。ぴっ。封を切って、箱を開ける。箱の中からカードを一枚取り出したぐっちぃは、それを頭上に掲げてから、ぽいっと宙に放り投げた。ひらひら舞って床に落ちるカード。
もう一枚、もう一枚と。同じように。ひらひらひらひらカードが舞い散る。ぐっちぃは、その動作を律儀に五十二回繰り返した。空になった両手を開いたまま、ぐっちぃがカードが敷き詰められた床に目を落とす。それから、ぽつりとこぼした。
「これで、終わり、か」
突然屈んだぐっちぃは、床から一枚のカードを拾って半分に引き裂いた。じじっ、という鋭い音が響いた。
「あさみちゃん。ワイングラス一つ貸して」
ぐっちぃの低い、くぐもった声が流れる。あさみちゃんが、訳も分からずワイングラスを一個渡した。それを受け取ったぐっちぃは、グラスの中にさっき二つに裂いたカードを入れて、コースターで蓋をした。ぱちんと小さく指を鳴らす音がして、そのグラスがあさみちゃんの方に押し出された。
「開けて」
あさみちゃんがコースターをどかすと、そこには……カードはなく、ワインが入っていた。みんな、無言。てか、声が出ねえ。
そうなンだ。ぐっちぃは半月で、一度もマジックを見せてくれたことがなかったんだ。ぐっちぃの愚痴からしか、そのマジックを想像できねー。だから、ぐっちぃのマジックは間抜けで、見るに堪えねーもんだと思ってたんだ。
とんでもねえよ。鮮やかどころの話じゃねえわ。すげえ……。
ぐっちぃは顔を上げると、懐からワインボトルを出した。それはもう空だった。さっきワイングラスに入ったのが残りだったんだろ。
「美月さん、わりぃ。店の酒以外のものを持ち込んじまったな。勘弁してくれ」
そう言うと、ワイングラスのワインを一気にあおった。
「ふーっ」
ぐっちぃは今度は椅子から降り、さっき床に放り出したカードを全部拾い集めて、束ねた。さっき一枚破ってるから、五十一枚しかない。破れたカードはいつの間にかカウンターの上に置いてあった。
「あさみちゃん、この破れたカードは?」
「え?」
いきなり振られて、あさみちゃんがびっくりしてる。
「え、と。はーとの ろく」
「うん」
ぐっちいは拾って束ねたカードを横置きして、その上に空になったワインボトルを乗せた。そして、ボトルの口に破れたカードを重ねて蓋のように被せ、人差し指でそれを押さえた。
「ひの、ふの、み」
ぐっちぃの人差指のタップが終わると同時に、全てのカードが瓶の中に縦に入っていた。ハートの六はちゃんとまともなカードで、一枚だけ確認できるようにこっちを向いてる。
すっっっっっっっっっっっげええええええええっっ!
オレも、美月さんも、あさみちゃんも。みんな仰天してた。オレたちは、ぐっちぃについて何も知らんかったんだ。こんなすげーマジシャンだってことは。
だけど、ぐっちぃの表情は暗い。どこまでも暗い。ひどく酔ってること自体が、ぐっちぃの異常を知らせてる。
「どうしたの?」
美月さんが口火を切った。美月さんにしては珍しく、本当に心配顔だ。
ここにいる間にだいたい掴んだんだけど、美月さんの心配りはちゃんと何手か先まで読んで繰り出される。相手の反応もすでに組み込んであるんだ。でも今夜のぐっちぃは、さしもの美月さんでも読めないらしい。
「俺な」
俯いたままで、ぐっちぃが声を絞った。
「マジック止めるよ」
今までのぐっちぃなら、美月さんのおだてで浮上したンだろう。でも、この日はどうにもならなかった。これは舞台で失敗したっつー、いつものレベルじゃない。人を殺しちまったってくらいのインパクトだ。
もう一度、美月さんが同じことを聞いた。
「どうしたの?」
「師匠に切られたのさ。お前にゃ、この仕事は向いてないって」
……。声の掛けようがない。
ぐっちぃが、師事してたセンセイにどれだけ心酔してたか。みんなよーく分かってる。センセイはすごく我慢強い人だ。ぐっちぃのヘマもちゃんとフォローしてきた。だから、ぐっちぃは全幅の信頼をセンセイに置いてきた。そして諦めずにチャレンジし続けてきた。
そのセンセイに、切られた。止めろと言われた。向いてないと言われた。究極の裏切りだ。
もう。半月で愚痴って解消できるレベルではなくなった。そういうことだ。だから。ぐっちぃはオレらに餞別を渡しにきたんだろう。ぐっちぃの最後のマジックを見せに。
まず。美月さんが奥の間に姿を消した。どんな時でも、決して客を見捨てなかった美月さんが。オレも居ずらい。あさみちゃんも俯いてる。
どうしよう。でも、オレに出来ることはなんもねーんだよ。オレ自身が……とんでもねえはんぱもんだから……。悪い、あさみちゃん。今日だけは、ぐっちぃを慰めてやってくれ。オレにはキツい。ちょっと席外すわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます