間章
宵の月 壱
オレが半月でバイトをするようになって、二か月が過ぎた。
最初の頃は、飲み屋としちゃあすっげえ寒くて重い雰囲気にどうしても馴染めなくて、辞めようかと思うこともあった。だけど、半月が飲み屋だと思わなきゃいいと割り切れば。そこはすごく居心地が良かった。オレだって、しゃべるのは得意じゃないんだしさ。
あさみちゃんの無口も、最初は気になったけど。でも、あさみちゃんはしゃべらないんじゃなくって、うまくしゃべれねーんだって分かったンで、オレの中ではすっきりケリがついた。すっげえオトナっぽい感じだったから、てっきり年上だと思ったら、実はオレより年下だってことも分かったし。でも、オレがガキっぽく見えるのとは逆だよなあ。いいなあ。
文三さんは、どうも苦手だ。オレやあさみちゃんを見ようともしねー。まるっきり無視。ひとっ言も口を利かねー。無愛想そのもンだ。それが徹底してっから、下手に気ぃ遣われるよりゃ楽なのかもしれねーけどさ。
ンで、店、だ。お客さんは、そんなに多かない。でも、いつでも閑古鳥ってーわけでもない。美月さんの創る独特の世界。会話じゃなくって、店と人の創る空気を味わう。その魔力に気ぃついたお客さんは、何度も通い詰めるンだ。
例えば。
御堂さんは、いっつも美月さんと短い会話を交わす。月の言葉で。そしてすっかり満足して帰る。
迫田さんは、美月さんとはほとんど会話しねー。でも、他のお客さんの会話に出て来る月を、密かに自分に呼んで楽しんでるみたいだ。
ケンジもちょくちょく来る。アイツはいつもあさみちゃんしか見ねー。まるでかぐや姫を見るかのように。
そうして。そこにはいつも月があった。美月さんの創る世界。誰にも媚びない。誰も拒まない。太陽のように明るいわけじゃないけれど、ココロの隅っこを照らす仄かな灯り。
ココロの隅っこ、ココロの影。それは、見せつけられるものじゃなくって、知らないうちに気付かされるものなんだ。
美月さんの創る世界。オレはその世界に入りてーと思った。でも、オレはどうがんばったって美月さんにはなれねー。だから、オレは手を動かしてみることにした。ただ食いたいもんを作ることだけに使ってきた手を。
今まではどんな料理を作っても、それは自分や家族の食欲を満たすためだけだった。でもオレは半月で、初めて捧げものとして料理を作った。美月さんの創る、月の世界の一部として。
そして、その料理を美月さんやあさみちゃん、お客さんに旨いと言ってもらえたことで、オレはささやかな喜びを覚えるようになった。
◇ ◇ ◇
美月さんの創る世界。それを大事にしたいと思うオレの願いとは裏腹に。この店は、やっぱ現実の中にあった。オレは。いや、オレだけじゃなくて、美月さんも、あさみちゃんも。半月を他の飲み屋と同列に扱う困った常連さんを拒むことはできんかった。それが、さわちゃんとぐっちぃだ。
さわちゃんはサイアクだ。まーず、シラフで店に来たことがねー。酔って、騒いで、しつっこく絡む。典型的なメイワクタイプの客だ。しかも、オトコにフられた時にしか来ねー。ろくったら絡み方をしねー。
あさみちゃんはコトバが出ねーから、それを盾に取れる。でも、オレは逃げらんない。背中を向けてるしかないけど、必ずくそみそに罵倒される。もう、気分悪いったらありゃしねー。美月さんは、あっちの世界に行っちまってるしよ。
しかも、さわちゃんが来てる時に限って、知らねークソ女からのイタ電が頻繁に来るンだ。バンドの用事と区別できんから、出ないわけにゃいかねー。本当にムカツク。
そして、ぐっちぃ。ぐっちぃは悪いヤツじゃねー。半月でしか飲まねーみたいだし、酒量も控えめだ。でも素面のクセして酔っぱらいみたいなマネすんのが、どうにもガマンなんねー。
何だよ、あの愚痴のド洪水。しかもその愚痴がおんなじところを、何度も行ったり来たりするンで、すんごいイライラする。反省、意気消沈、投げやり、浮上、決意、でも反省って、ぐるぐるぐるぐる。自分の尻尾を追っかけ回す犬みてーな情けねー姿を見てると、根性バットでケツをぶん殴りたくなる。しかもよ。自分で、愚痴じゃ何も解決しねーなんて言うもんだから、余計ハラ立つ。
あーもういいから、さっさと帰って、クソして寝ろやっ! 何度そう怒鳴りそうになったか。あんなんで、よくマジシャンみてーな夢売る商売やってられるなーって思っちまう。
◇ ◇ ◇
さあ、仕込みも終わった。俺が突き出し用の和え物を冷蔵庫にしまったら、美月さんが柔らかい笑顔を見せた。
「さあ。開けましょうか」
カウンターを出た美月さんが扉の内鍵を開け、小窓を開いて半月にしてから戸口に立った。そして、じっと月を見上げてる。今日は上弦の月。まさに半月、だ。きっと、いつもより忙しくなるだろう。
あさみちゃんは、慣れた手つきでグラスを磨いてる。オレと美月さんの方を見て、微笑んでる。
美月さんが店に戻って、カウンターの中に入った。いつものポジション。カウンターに両手をついて、薄目を開けて虚空を見上げる。
かたん。扉がゆっくりと開いた。ひょいと首をかしげた美月さんのたおやかな声が、店内を静かに満たす。
「いらっしゃいませー」
今晩最初のお客さんが……来た。
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