月への誘い 沢木実李
おしゃれなバーのカウンター。でも、わたしは一人。ついてなーい。そう思いながら残っていたギムレットを一気にあおる。
何度目かなんて一々覚えちゃいない。このバーで待ち合わせだったから、気合い入れてドレスアップしてきたのにさ。また、だ。そう思いながら、携帯の着信履歴をぼんやり見る。
さっきのデンワ。
「わりぃ。オマエにはもうつき合いきれねー。じゃな」
いっつも同じことの繰り返し。わたしの目の前できちんと別れを切り出すオトコなんか、一人もいない。どいつもこいつも、わたしに飽きたらデンワでぽい。それは、わたしのサイアクのジンクス。
虚しい。そろそろマジに考えろって、親にもトモダチにも言われる。あんたの男運が悪いのは、男を見る目が壊れてるからだって。確かにそうかも知れない。でも、なんでだろ。わたしが惹かれるのは、どうしようもなくハンパなやつばっかりなんだ。
どうしてって言われても分かんない。どいつもこいつもみんなキャパが全然足んないから、わたしが入れ込んで、アツくなって、爆発して、フられる。ずーっと、そのエンドレスリピート。あーあ。どうしよ。なにも考えたくない。ばっかばかしいわ。
ぷいっと顔を逸らして、バーの小窓から通りを見下ろす。この路地にはあんまり飲食店がないから、通りは薄暗い。コンビニの前だけがやけに明るい。
あれ? あんなところに店があったっけ? 路地を挟んで向かい側に、扉から小さな光が漏れてる店が見えた。
ふん。ここに居てもしょうがないから、店替えよっと。
◇ ◇ ◇
路地に出たら、寒風が独り身に容赦なく突き刺さった。
「さむっ」
えーと、この店だったよね。看板も何もないじゃん。フツーの民家ってわけじゃないよね。
暗さに目が慣れたら、扉になんか書いてあるのが読めた。墨で、半月って書いてある。へー。しっぶーい。飲み屋、よね。小料理屋とか料亭じゃないよね。ちょっと不安。
扉に開いてる窓から中が見える。あ、こっから確かめればいいか。ふーん、半月だから窓もそういう風になってんだ。かっちょいいじゃん。
あ。カウンターんとこに、ママさんが立ってる。え? それだけ? ママさん、ヒマそう。なんか殺風景な店よね。中になーんもないわ。
どうしよっかな。あんまりおもしろいところじゃなさそう。でも、ハナシのネタくらいにはなるかも。へへ。チャレンジ、チャレンジ。おっじゃましまーす。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませー」
わたしが店に入ったら、ママさんが柔らかい笑顔を浮かべてゆっくりこっちを向いた。で、あれっていう表情になった。
「お一人?」
「そうです」
「お連れ様は?」
「いません」
「あら、珍しい」
ママさんは馬鹿にしたわけじゃなくて、本当に驚いてるみたいだ。思わず、口から吐き出してしまった。
「さっきまでは、連れがいたはずだったんですけど」
ママさんは、少し眉を引いてぽそっと言った。
「ごめんなさいね。無神経なこと言って」
わたしは。ママさんの話し方にものすごい違和感を感じてた。直感。なんだろ、異星人と話してるみたいだ。フツウの会話をするきっかけがつかめない。すっごく息苦しくなる。
わたしの緊張を和らげるように、ママさんがゆったりと注文を聞いた。
「何か飲まれます?」
そう。さっきのバーで結構飲んだはずなんだけど、酔いが醒めてきちゃった。なんか飲もうって思ったのに、お尻の下がむずむずする。どうしても落ち着かない。
「えっと。なにかカクテルできます?」
「難しいのじゃなければ」
「じゃ、カンパリソーダを」
「はい。ちょっと待っててね」
ママさんは一番奥のバーカウンターに歩いていって、慣れない手つきでカクテルを作った。
「ごめんね。私下手くそで」
いや、カンパリソーダに上手いも下手もないと思う。ママさんはカクテルグラスとナッツの入った小皿を、トレイに入れて持ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ううー、思わず丁寧語になっちゃうよ。
カクテルを含みながら、ちらりちらりとママさんを見る。こうして見ると、話し方だけでなくて、風貌もヘンだ。オンナのわたしが見ても、全く年齢が分かんない。漠然と中年だよねーとは思うんだけど、化粧は薄いし、皺も少ない。じゃあ若いのかっていうと、そうも見えない。
そして。すっごい無口なんだよね。お客さんが目の前にいるのに、そんなに黙ってていいの? ……そんなカンジ。
うーん、この店はハズレかなあ。そう思った。その時、扉がきしむ音がして、もう一人お客さんが入ってきた。けっこうトシのおじさん。わたしをちらっと見たけど、何も言わない。ちょっと離れた席に座った。
「あら、
「こんばんは、美月さん。ジントニックを頼めるかい?」
「はい」
おじさんはカウンターの上に両肘を上げて、手を組んで目を瞑る。ママさんが、細長いグラスを運んできた。わたしと同じ、小皿にナッツ。
おじさんは、ジントニックにちょっと口を付ける。そして目を瞑ったままで、誰に言うともなく呟いた。
「寒いね」
ママさんが、それに唱和するように答えた。
「そうね。月も凍っているわ」
「触ると危ないのかい?」
「心がえぐれている時は、ね」
そ、して。人差し指ですいっと空間をなぞって、言い放った。
「鎌よ。首が、飛ぶ」
瞬間。その場の温度が二十度くらい下がった。思わずコートの襟元を寄せた。おじさんは薄く目を開けると、少しだけ笑った。
「怖い怖い。ふふ」
ママさんは、一転して優しい表情になった。
「でも。寒月は愛でるものよ。触るものじゃないわ」
「そうだな……。ん、ごちそうさん」
おじさんは硬貨を何枚かカウンターに置いて、ゆっくりと店を出ていった。お酒はほとんど飲み残されている。ナッツは手つかず。
ほんの数分の出来事だった。
どうしてだろう。わたしはその時、この場所を埋め尽くそうと思った。そんなことは出来っこないのに。それは、わたしのココロの中に開いている無数の穴を埋める代わりのように。まるでそれがわたしの義務であるかのように。
だから、言った。
「ママさん、ごちそう様。また来ますね」
ママさんは、わたしに冷たい笑顔を向けた。
「あのね。私をママさんと言わないで。私は美月と言います。そう呼んでね」
それはお願いではなく、命令。わたしは逆らえない。
「分かりました」
「また、いらしてね。あ、お名前は?」
「
「じゃあ、さわちゃん、ね」
そう言うと、今度は柔らかい笑顔になった。美月さんは、わたしから料金を受け取らなかった。
「女性のお客様は本当に珍しいのよ。だから、今晩は私のおごり。それと……」
美月さんはカウンターを出ると、ゆっくりとわたしの正面に回り込んだ。そうして、戸口を遮るように立った。とても優しい視線。でも、わたしを諭すように口が動いた。
「月はね、人を狂わせるんじゃない。狂った人が月を見ているの。それを勘違いしちゃ、だめよ」
そうして、今度は扉への道を導くように半身になって、独り言のように呟いた。
「光が当たるから、月は輝く。そして影ができる。あなたは、そのどちらを見るのかしら?」
わたしの返答を待たずに、扉が開いた。わたしは吐き出されたように、店の外に立っていた。喧噪が耳に届いて、現実が戻ってくる。酔いはすっかり醒めてた。
路地から夜空を見上げると、傷のような三日月が空の端っこに引っかかってる。さっきの話がよみがえってきて、コワい。早く、帰ろうっと。
◇ ◇ ◇
それから。わたしはことあるごとに半月に通った。だいたいオトコに振られた後が多かった。
美月さんは、わたしに何か示唆をくれたんだろう。でも、それを正面から見るのが怖かった。自分は欠けたままでいいって、決めつけてた。
バーテンのあさみちゃん、板さんの卓ちゃんが来るようになったら、わたしの荒れ方はもっとひどくなった。そして。わたしは半月で、誰にもかまってもらえなくなった。
だから。わたしは電話で復讐することにした。わたしの知らない別世界の男。そいつをイタ電でめちゃめちゃにしてやろう。わたしがされてきた仕打ちの何万倍にもして、それを返してやろう。
わたしは、半月でそれに没頭した。
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