第5夜 凍える待合室 --5
アパートに着いたのは、まだ昼をすぎて少ししか経っていない時間だった。人々がみな仕事や勉強に戻る時間。彼女は人気のないアパートの廊下をのろのろ歩いて、彼らの部屋のドアの前に腰を下ろした。体育座りをして背中をドアにもたれさせるものの、セーター越しにもひんやりとした冷気が伝わってきたので慌てて離れることになった。立てた膝の上に顔を伏せようとして、ふいに横に放り出しておいた財布が気になり手に取る。近くのスーパーや洋服店、文具店などの使いもしないカードでぱんぱんになった財布は、制服のポケットに入れるには少々分厚すぎる。結局、太腿とおなかで挟むようにしてスカートの上に置くことにした。そんなことをしなくても、別に盗っていく人間なんてここには誰もいないと分かってはいたのだが。
伊織はなかなか帰ってこない。昨日来たときには鍵を回そうと頑張っていたから、おそらく同じくらいの時間に帰ってくるのだろう。だが千恵は昨日自分がいったい何時頃にここへ来たのかよく思い出せなかった。ただじっと顔を伏せながら、ひょっとすると実は帰ってきているのかもしれないと彼女は思った。伊織ならば気配を消すことができてもおかしくないような気がする。静かに階段を上ってきて、ドアの前をこうして千恵が陣取っていたためこっそり戻っていってしまったのかもしれない。もしくは、階段のところで隠れてこちらの様子をうかがっているのかもしれない。
ふ、と彼女は笑みを漏らした。顔を上げて一応伊織がいないかどうか探し、財布を手にして立ち上がる。階段を下りていく。伊織の姿はない。千恵は時間を確認しようと腕を見て、腕時計を忘れてきたことに気付いた。携帯電話もないため時間が分からない。空はまだ夕焼けには遠いが、日は傾き始めていた。踊り場からまた階段に足を一歩踏み出したとき、かすかに足音らしきものが耳に届く。
「あ」
目の前、階段の下に伊織が現れた。走ってきたらしく少し息が乱れており、両手はランドセルの肩ひもを握っている。彼女は千恵をまっすぐ見上げた。千恵も黙って彼女を見下ろす。
「おかえり」
その言葉はすらりと千恵の口からこぼれた。伊織が目を少し大きくして二、三度まばたきをする。言った千恵本人も驚いていた。彼女は特に何も言うつもりはなかったのだ。伊織の口がもごもごと動く。全く声は聞こえなかったし、もしかしたら声には出していなかったのかもしれないが、それは「ただいま」と答えたように千恵には見えた。
部屋に入り、伊織が定位置についてしまうと、彼女は暇になった。学校の宿題はもう終わってしまったのだ。いや、終わってしまったというよりは、新しく出されているであろう宿題の内容が分からないのである。それを教えてくれそうなクラスメイトからのメールは全部無視している。結局することも見つからず、いそいそと色鉛筆を取り出した伊織を横目に見て彼女は飯台の上に突っ伏した。
目を覚ますと、部屋は薄暗くなっていた。千恵は寝ぼけ眼でぐるりと部屋の中を見回し、時計を確認する。五時三十二分だ。そろそろ言うべきだろう。
「伊織ちゃん」
窓の下の伊織に声をかけるが、彼女は全く反応を示さない。外を向いて、ざらざらと音を立てながら色鉛筆を画用紙にこすりつけている。千恵は立ち上がり蛍光灯の紐を引っ張った。こんな暗い中で絵なんて描いていたらきっと目が悪くなるだろう。明るい白い光がぱぱっと点滅し二人きりの部屋の中を照らす。伊織の手が一瞬だけ止まったような気がした。
「今日は、六時に帰らなくちゃいけないって」
伊織は手を止めない。千恵は一歩前に出た。千恵の黒い影が伸びて伊織の肩に落ちる。なんだか子供をいじめているみたいな気分に彼女はなった。
「徹さんから聞いてない?」
ご機嫌とりをするような自分の声が気持ち悪く、できるだけ感情を込めないように淡々と続ける。伊織はやはり色鉛筆を離さなかったが、小さな声で返事らしいものをした。
「いや」
「……うん」
そうだよね、という言葉を千恵は飲み込んだ。帰りたくないのは彼女も一緒なのだ。自分の行動を棚に上げて少女を諭すなんて真似はできない。千恵は伊織の隣に腰を下ろした。伊織は握っていた黒い色鉛筆を床に置き、次に青の色鉛筆を手に取る。拒絶している気配は感じられなかったので、千恵は何気なく伊織の絵を見た。
今日の絵は全体的に暗い。一見するとほとんど黒だけで描かれているようだが、赤や黄色がところどころに混ざっている。だがただ色を塗りつぶしているというわけではなく、黒い線が何かの輪郭を形作っていた。建物だろうか。学校? いや違う。
ふわりと風が吹いた。顔を上げると玄関のドアが開いていて、作業着姿の徹が靴を脱ごうとしている。
「あ……おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
彼は荷物を玄関に下ろし風呂場へ入る。ばしゃばしゃと水音が聞こえてきた。ところどころに少し泥がついているようだったからそれを落としているのだろう。千恵はもう一度伊織を見た。彼女は徹に目もくれなかったのだ。最初にここへ来た日なんて、まだ姿も見えないうちから走って迎えに行ったというのに。伊織は建物の周り、既にほとんど真っ黒に塗られた空に青色をせっせと重ねていた。
「早く、帰ってこれたんですね」
「なんとかな。伊織」
タオルで顔を拭きながら、徹は彼に背中を向けて小さくなっている伊織に声をかけた。その声は静かながらも迫力があって、ちゃんと言うことを聞かなくてはいけないと子供に思わせる声だった。千恵は伊織の反応をうかがいながら、まるでお父さんだと思った。そしてその言葉の苦さにぎっと歯を噛みしめる。
「今日はもう時間だ。送っていくから準備しろ」
「やだ」
反応は千恵に対するものと一緒だった。彼女はかたくなに口を引き結んだ伊織の顔を横から見ながら、意外な展開に困惑していた。まだ会ってからそれほど時間の経っていない自分に対しては反抗しても、徹に言われれば大人しく帰る準備をするだろうと思っていたのだ。彼女は次に徹の反応を見る。彼は特に表情を動かさず、黙って伊織の背中を見つめていた。怒っているようにも困っているようにもましてや憐れんでいるようにも見えない。気まずい沈黙が流れた。そして意外にも、それに最初に耐えきれなくなったのは伊織だった。
「ソラが、帰ってくるまで、帰らない……」
その言葉を聞いた瞬間、千恵はやっと彼女の絵が何なのか悟った。気付いてみれば当然で、むしろなぜこの状況でそれが最初に浮かんでこなかったのかと思う。黒く塗りつぶされたこの建物は、病院だ。
「そうか。じゃああと何週間かは帰れないな」
徹は少し笑みを含んだ声でそう言って、伊織の隣にしゃがみこむ。うつむいた彼女の頭を力強い手が優しく撫でる。
「分かったよ。明日は絶対にあいつに会いに行こう。約束する。でも今日は駄目だ」
伊織が徹を見上げた。どんな顔をしていたのかは千恵には見えなかったが、徹は「ひでえ顔だな」と苦笑してこぼした。
それから伊織が色鉛筆を片付ける間、徹は今日彼女が描いた絵を一つ一つ見ていた。千恵は彼の反応を注意深く見ていたが、病院の絵を見ても彼の表情や雰囲気に変化はなかった。画用紙も色鉛筆も全部窓の下に積み上げてしまうと、伊織はうつむいて徹の手をそっと握った。
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