第5夜 凍える待合室 --3

 空雄に駅まで送ってもらい家に帰ると、病院の方にいる看護士やパートのおばさんたちに気付かれぬようこっそり自分の部屋に戻った。制服から下着まで全て脱ぎ洗濯された清潔なものに袖を通していく。冬用の温かいパジャマを着込みベッドに潜り込んだ。すっぽりとかぶった毛布の下からベッドの横の棚を見やる。猫の絵が描かれた青いデジタル時計が十時十三分を指していた。もう高校の授業は始まってしまっている。千恵はベッドの中から精一杯手を伸ばし、カバンの持ち手を引っ張って近くに引き寄せ携帯電話を取り出した。コンセントに挿したままの充電器に接続し、久しぶりに電源を入れる。

 起動した携帯電話はしばらくの間震え続けた。それがおさまるまで、千恵は毛布の中にくるまり目を閉じる。体温で少しずつ温まってきた布団の中は心地よい。そのままだと寝てしまいそうだったので、千恵は嫌々ながら携帯に手を伸ばす。かなりメールがたまっていた。内容は見ずに受信先を一つ一つ確認していく。送り主は全て高校のクラスメイトだ。父親からは何もない。千恵は表情を変えずにメールを全消しし、高校に電話をかけて欠席の連絡をした。言い訳を何も考えていなかったのだが、ひとりでにかすれて弱々しくなった声のおかげで体調不良と納得してもらえたようだった。電話を切ると、また電源を落としベッドの外へと追放した。一応カーペットの上に落ちるように狙ったのだが、床に直撃した携帯はガツッと結構ひどい音を立てた。彼女は何も聞かなかったことにして毛布の中に深く潜り眠りについた。

 千恵は次の日も学校に行かなかった。保険医に家庭の状況を話してしまったことを思い出したのだ。顔を合わせればいろいろと聞かれることになるだろうと思うとどうしても行く気になれなかった。では家に閉じこもっていればいいかというとそういうわけでもない。父も母も家にいないと言って学校を飛び出した生徒が何日も欠席しているとなれば、学校側としては状況を確かめざるを得ない。まず家の電話にかけるが、もちろん誰も出ない。学校は「すざき医院」としての電話番号の方は把握していないはずだ。次に両親の携帯電話にかけるだろう。母親は出ない。母親はいなくなるときに携帯電話を置いていったので、今は両親の寝室に電池が切れた状態で転がっている。父親はもしかしたら出るかもしれない。だが千恵が学校に行っているかどうかは知らないし、自分のことは自分でするように言ってありますから、とでも適当にごまかしてしまうだろう。千恵がちゃんと学校に連絡を入れていればしばらくは何もないだろうが、あまり続くと担任あたりが家に様子を見に来る可能性がある。そうすると、おそらく病院で働いている看護士やパートのおばさんたちにこの家の状況が知られてしまう。

 つまり、どうあがいても、家庭崩壊は世間に露見するのだった。千恵はそのことについて、毛布の下で一日考えていたが結論は変わらなかった。


 夕方になってから彼女は外出し、空雄たちのアパートへ向かった。階段をのぼり三階の廊下に出ると、彼らの部屋のドアの前で伊織が三角座りをしている。驚いて足を止めた彼女の気配に反応して伊織が顔を上げる。千恵を見る伊織の視線には何の感情もこもっていないように見えた。普通の子供だったら泣いていてもおかしくない。せめて寂しそうな顔ぐらいはしているはずだろうに、と千恵は思う。だが表情はなくても、確かに伊織は千恵のことを見た。

「鍵がかかってるの?」

 近付いて隣にかがみこむ。伊織は何も言わずに、握りこんでいた小さな手を千恵に向けて開いて見せた。跡がついて少し赤くなった掌の上には鍵が乗っていた。濃いピンク色のリボンが結んである。千恵も黙ってそれを受け取った。鍵穴に刺し込む前に一応ドアが開かないかどうか確認して、鍵を刺す。右に回そうとするが動かなかった。それで左に回そうとするが、やっぱり動かない。千恵は思わず横に立っている伊織を見下ろした。伊織も黙って見上げてくる。なんだか心が通じ合ったような気がした。鍵を一旦抜き、上下を逆にして入れてみるが、入らない。向きは間違っていなかったらしい。もう一度刺し直して、左右どちらかに何とかして回せないかとあれこれ力を入れていると、そのうちにカチャリと手ごたえを感じた。ドアノブを握る。ドアが開いた。伊織がたっと床を蹴り部屋の中へ入っていく。千恵はドアノブから鍵を抜こうとして、また苦戦した。どうにか回収して伊織の後に続くと、彼女は脱いだ靴をきちんと揃え、既に定位置に座り込んで色鉛筆と画用紙を広げ始めていた。

 その光景を見ながら、ああ、来てよかったと思う。千恵も靴を揃えて上がり、飯台の横にカバンを置いて筆記用具と学校の宿題を取り出した。

 それから一切二人の間に会話はなかった。目線も合わず、たとえ一方的にもお互いが視界に入る事もない。それでいて同じ空間にいるのだという実感はあった。伊織から拒絶の空気を感じないのだ。千恵の心も驚くほど安らかだった。伊織は絶対に何も聞いてこないという確信があったからかもしれない。他人に近付かれることを恐れながらも、一人でいることが寂しかったのだろうか。

 夜の八時頃になると徹が帰宅した。彼は部屋の中に千恵がいるのを見ても特に何の反応も示さず、伊織にもう帰る時間だと告げるだけだった。伊織が画用紙を片付ける横で千恵もノートや教科書をカバンに戻し、施設に向かう二人と一緒に部屋を出た。施設までついていくのはやめておこうと思い駅の方向へ歩き出したのだが、徹に引きとめられた。

「話がある」

 そう言われてしまっては帰れない。仕方なく二人の後についていくと、施設まではそれほど遠くなかった。数分もたたないうちに背の低い白い建物が現れる。想像していたよりは綺麗な建物だ。ぐるりと塀に囲まれており、重たい格子のような門扉から庭が見える。花壇には花が並び子供用のシャベルがぽつんと落ちていた。徹は門のすぐ横に取りつけられているチャイムを押して、低い声で二言三言やり取りをする。すると門扉のところでカシャンと軽い音がした。徹の手が門を押すと、門は意外にもするりと軽く開く。彼は中に入ろうとはせずに黙って伊織の背を少し押す。伊織は一度だけちらりと徹の顔を見上げて、素直に中に入っていった。それからはもう振り返らない。彼女の背中が建物のドアの向こうに消えると、徹はさっさときびすを返した。

「悪いな、つきあわせて。もう遅い時間だから歩きながら話そう。大した話じゃない」

 千恵が小走りで追い付いて横に並ぶと、徹は少し歩くスピードを落とした。

「まず、今日は来てくれてありがとう。助かった」

「……いえ」

 彼の簡潔な言葉は、そっけないようでいて冷たさを感じさせない。千恵はちらりと彼の横顔を見上げ、空雄とはタイプが違いすぎる、と思った。

「明後日は来てもらえるか?」

「はい」

「なら、頼みたいことがある。明後日は六時になったらあいつを帰してやってほしい」

「え」

 千恵はぽかんと口を開けた。どこにですか、と聞こうとして分かりきった質問であることに気付き、結局また口をつぐむ。徹は前を見据えたまま続けた。

「明後日は早く抜けるつもりだが、それでも手術開始には間に合わない。あいつを送ってくれれば、病院に直行できる。ここへの道が分からなくなっても、外に出さえすれば伊織が分かっているから」

「手術……って、何時からなんですか」

「六時だ。いつも伊織は八時すぎまで施設に帰らないが、それは俺とソラがあそこの出身だからできるんであって、普通はもっと早く帰らないといけない。だから俺が連れて行けないときは、六時頃には帰さないとまずいんだ」

「そう、なんですか」

 千恵はうなずいて足を止めた。少し遅れて立ちどまった徹が振り向く。彼女はうつむいて両手を握りしめ、蚊の鳴くような声で呟いた。

「……あの……明日は、来ちゃ駄目ですか」

 徹はそこで初めて、かすかに笑みを浮かべた。

「いや、助かる」

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