第5夜 凍える待合室
目を覚ますと体が痛かった。肩、腰、あちこちが痛い。千恵は起きあがって自分が床の上で眠っていたことに気付いた。寝ぼけた頭で暗い部屋の中を見渡す。狭い部屋の中、飯台はどかされて流し台のすぐそばに布団が敷かれている。彼女に背を向けて眠っているあの人は徹だ。
事態を把握した彼女の頭は瞬時に覚醒した。反射的に窓の方を向きカーテンが閉まっているのを見ると、できるだけ音を立てないように気をつけながら窓のところへ行き外をのぞく。空はまだ暗かったが、東の方が明るくなってきていた。
部屋の中を振り返る。流し台のすぐ下ぐらいに徹がいて、その反対側の壁際に布団のかたまりがあった。一瞬そこに空雄が寝ているのだと思ったがそこはたった今まで彼女自身が眠っていた場所だ。五月にしては布団が分厚すぎるが、彼女にはその方がありがたかった。実際、今はそれほど寒さを感じない。
空雄はどこへ行ったのか。部屋の中にはいない。彼女は忍び足で部屋を縦断し、寝床の足下近くにきちんと畳んでおかれていた制服に手早く着替えた。玄関の扉を開けて通路に空雄の姿を探すがそこにもいない。早朝の冷たい空気が部屋の中に流れ込んできて、彼女の体が震えた。もう一度部屋の中を見て徹の様子をうかがう。徹は全く身動きをしていなかった。彼女はほっとして、部屋の外に出て静かに扉を閉める。そして階段の方へ向かった。
千恵の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、徹は身を起こした。
彼はぐるりと室内を見回して、彼女のカバンがまだ玄関のところに置きっぱなしになっているのに気付く。軽く息を吐いて、彼はもう一度布団をかぶった。
階段には電気が点いていない。朝早いからだろう、蛍光灯自体はあるのだ。もしかするとただ切れているだけかもしれないが。たんたん、と軽い足音を響かせながら彼女は階段を一段ずつ登っていく。
屋上に続くドアを開けると、冷たい風がぶわりと彼女を襲った。巻き上がる髪やスカートを慌てて手で押さえ彼女は外に出る。出入り口を過ぎてしまえばそれほど風は強くない。だが彼女は寒さを感じ始めた自分の体を強く抱きしめた。寒い。凍り付きそうだ。
フェンスの向こうに人が立っている。羽織っているシャツが風に煽られはためいていた。ひらめく布の間に見えるその人、空雄の腕は――フェンスをつかんでいない。千恵の体はカタカタと震え出した。声が出せない。目を逸らすこともできない。彼の体がふらりと揺らいだ気がして、彼女は声にならない悲鳴を上げた。
彼が振り向く。千恵がそこにいるということは気付いていたようだが、その表情を見たとたん息を呑んだ。そして彼自身にしか聞こえない小さな声でしまった、と呟く。両手をフェンスに伸ばしてしっかりと自分の体を屋上につなぎとめ、彼は笑った。
「おはよう、千恵ちゃん。ずいぶんと早起きだね」
千恵は無言だ。彼女の目線がある一点から全く動かないことに気付き、それを辿りながら彼はしゃべり続ける。
「起こしちゃったら可哀想だなって思って、下に布団敷けなかったんだ。その代わり掛け布団の方は多めにしたんだけど。硬い床で寝たから、あちこち痛いでしょ」
彼女の目線は狭い足場に立つ彼の足下に向いていた。フェンスの方を向いた彼の足があと一歩でも下がれば、そこは空中である。彼は目線をちらりと落としてそのことを確認した。
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。俺は別に死にたくてここに立ったわけじゃないし足を滑らせて落ちたりもしない。ほら、ちゃんとフェンス掴んでるだろ?」
彼女の右足が、屋上のコンクリートを削るようにゆっくりと動いた。右足の次は左足。左足の次は右足と足を替えるたびに少しずつ動きは速くなっていく。彼女がフェンスに貼り付く時には普通に歩く速さになっていた。強ばった今にも泣き出しそうな顔に見上げられて、彼は思わず苦笑いを浮かべる。
「ごめんごめん、おどかすつもりじゃなかったんだよ。まさか千恵ちゃんがこんな時間に起きてくるとは思わなくて、さ」
千恵はうつむいた。両手をそっと持ち上げて、フェンスの金網からのぞく空雄の指に触れる。ひやりと冷たい彼女の手の感触に、彼は少しだけ目を細めた。
「……落ちないで」
彼女が蚊の鳴くような声をこぼす。空雄はしばらく黙り込み、おもむろにフェンスから手を離した。絶望的な表情でばっと顔を上げた彼女ににっこりと笑いかけて、彼は低いフェンスのある方へ歩き始めた。風はまだ止まない。シャツの裾が揺れるのを見て、彼女は彼がバランスを崩すのではないかと気が気ではなかった。だがそんな心配は杞憂で、彼は危なげなく足場の上を渡ってフェンスを乗り越え、屋上の内側に降り立った。
「ほら、もう大丈夫。ごめんね?」
彼女はへなへなとコンクリートの上に座り込み、尻をついた。しばらくそのまま呆けていたが、近付いてくる空雄が苦笑しているのに気付くと顔を背ける。フェンスの向こう、向かいの建物の黒ずんだ壁を意味もなく見つめた。
空雄はふうっ、と息を吐きながら両手を頭上にまっすぐ伸ばして伸びをする。そして千恵の隣に腰を下ろし、彼女とは反対の方向を向いてフェンスに背中を預ける。頭の後ろで組んだ両手がフェンスに勢いよくぶつかり、フェンスが衝撃でしなる。千恵はびくっと肩を震えさせた。
「うーん、やっぱりちょっと怖いな! 別に高所恐怖症とかじゃないんだけど。手すりも何もなしでこの高さじゃ、足もすくむね」
あまりにも呑気な言葉を吐いて笑っている彼を、千恵が複雑な顔で見やる。すると彼の笑みがぱっとイタズラっぽいものに変わった。
「千恵ちゃん、今、何考えてるんだコイツって思ったでしょ」
「……別に」
「あはは。実は前から、ちょっとだけ行ってみたかったんだよね、このフェンスの向こう。伊織ちゃんに見られたら徹にバレそうだし、徹に見られたら烈火のごとく怒りそうだし。徹って無口な方だけど怒るとうるさいんだよなあ。反論する間もないっていうか。俺の場合普段はしゃべる方なのに、本当に腹が立ってるときは言葉が出てこないから、すっごい不思議なんだよなー」
空雄は空を見上げながらべらべらと独り言を続けた。彼に聞かれないようにこっそりため息をつきながら、彼女は改めて周囲を見渡す。夜明け前で薄暗かった風景はもうだいぶ明るくなっていた。空に夜の領域はもうほとんど残っていない。ひょっとしたらビルや雲などで見えないだけで、もう日は昇っているのかもしれない。
「千恵ちゃん、聞いてる?」
声に反応して彼の方を向けば、彼の顔はすぐ近くにあった。反射的にうつむいて首を横に振る。頭の上からくっくっ、と彼の押し殺した楽しそうな笑い声が降ってきた。
「ごめんって」
彼女は頬が少し熱くなるのを感じた。恥ずかしい、なんて思うのはとても久し振りのような気がした。空雄の手が彼女の頭をぺし、と軽く叩く。
「ちょっと顔を上げてくれないかな。一つ、お願いしたいことがあるんだ」
少し改まった声に、仕方なく上目遣いで彼の顔を見上げる。空雄がまたにっと笑った。
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