第4夜 しょっぱいケーキと少女の魔法 --5
風呂からあがってきた徹は、帰ってきたときと同じ服のままだった。彼は目を細めながら濡れた髪をタオルでがしがしと拭き、ちょうど食べ終わった伊織を見下ろす。伊織はきちんと両手を合わせてぺこりと頭を下げた。二人分の皿とフォークを持って立ち上がり、流し台の洗い桶につけてから手を洗う。
彼女はまっすぐに窓の下の定位置に行き色鉛筆を握った。空雄は台所に立って洗い物を始める。徹はぼんやりと伊織を見ていた。千恵は鼻歌まじりに手を動かしている空雄の横顔を見ながら、ここは本当に静かだと思った。聞こえるのは水道水がシンクを叩く音、伊織の色鉛筆が紙とこすれる音ぐらいだ。子供の頃から、晩ごはんを食べるときにはテレビがついていたし、食べ終わってからもリビングには誰かが残っていてテレビは喋り続けていた。家族で会話をしなくてもテレビが代わりに賑やかさを演出してくれた。今の人間は文明の利器がなければ家庭内の円満も保つことができないのだ。本当は保っている気分になっているだけなのかもしれない。テレビだけが騒ぎ続ける空間はどこか空虚だ。
「俺、風呂入るから、時間になったらよろしくね」
「ああ」
洗い物を終えた空雄がこちらへやってくる。千恵は彼から目を逸らして、一心に絵を描き続けている伊織の方に視線を移した。彼の足音が近付いてくる。衣装ケースを開閉する音がして、今度は遠ざかっていく。浴室の戸が閉まる音を聞いてから彼女はゆっくりと振り返った。もちろん彼の姿はもうない。浴室の中が薄明るく、耳を澄ませば水音が遠く聞こえる。だがその水音はシャワーの音なのか雨音なのか聞き分けることはできない。まだ雨は降っているのだろうか。
「お前さ」
徹が口を開いた。彼は飯台に肘をついて、相変わらず伊織を見つめている。
「あいつに何か言われたか?」
「え?」
唐突な質問に思わず聞き返してしまったが、徹は繰り返そうともせず説明しようともしなかった。千恵はしばらくもじもじしてから小さな声で尋ねる。
「あの、何かっていうのは」
「分からないなら聞いてないんだろう。あのバカは肝心な事ほどなかなか言わないからな」
「はあ……」
よく分からないままに彼女はうなずいた。会話が成立しないわけではないのだけれど、彼の考えていることが伝わってこない。何を考えているのか分からないという点では伊織と一緒だ。もしかしたらこの二人はものすごく波長が合ったりするんじゃないだろうか、と彼女はぼんやり思う。今は全く見向きもしないけれど、この間は帰ってきた徹を走って迎えに行ったのを見た。もちろん伊織は空雄にも懐いているようだけれど、空雄が相手のときと徹が相手のときはどこか違う気がするのだ。空雄はおしゃべりで、伊織が黙りこくっていてもおかまいなしに話しかけて彼女にかまう。徹はあまりしゃべらなくて、口数は少ないけれども伊織としっかり通じ合っているように見える。空雄が伊織と通じ合っていないというわけではないのだけれども。
そんなことを考えていると、伊織が画用紙を一枚くるくると丸めだした。小さな画用紙はすぐに筒状になり、彼女はそれをどこからか取り出したしわだらけの緑色のリボンで結ぶ。それはお菓子か何かのラッピングに使われていたのか、よれよれで表面は安っぽく光っている。不格好ながら卒業証書のような形になった画用紙は徹の手に渡された。伊織は画用紙を手放すともうそれに興味はなくなったと見えて、また画用紙と色鉛筆が散乱する彼女のテリトリーに戻っていく。
徹はリボンを解いて飯台の上に画用紙を広げた。彼はふっ、と笑みを含んだ吐息を漏らす。千恵が驚いて彼の顔を見ると、そこには微笑みが浮かんでいた。
「これはお前のだな」
彼はそう言って画用紙を千恵の方に向ける。一瞬何が描いてあるのか分からなかったが、よくよく見ればそれはケーキだった。彼女が持ってきたケーキは白かったはずだが、黄色やピンクでカラフルに塗られている。端に散らされていた金箔はオレンジでちゃんと再現されていた。背景は黄緑色がメインで、緑、ピンク、赤、水色などさまざまな色がところどころに混ざっている。ケーキの下の黒っぽい棒はスプーンだろうか。彼女ぐらいの年の子供はもう少し分かりやすい絵を描くものではないだろうか、と思いつつも千恵はその絵から目が離せないでいた。カラフルで心が躍るような絵だ。文字が書いてあるわけではない。そうではないのだが、千恵はその絵に「ありがとう」と書かれているような気がしてきた。
「伊織、そろそろ行くぞ」
徹が声をかけると、伊織は素直に色鉛筆を置いてふたを閉めた。周りの画用紙をがさがさとかき集めて、窓の下にかためておく。それからやるべきことを探して部屋の中をぐるりと見渡したが、狭くて物のない部屋にはもう片づけるものはなかった。
二人が立ち上がり玄関まで行くと、ちょうど空雄が浴室から出てきた。伊織がくるりと方向転換し彼の足に飛びつく。
「わっ。ああ、もう時間か。見送りには間に合ったね」
「ソラ」
彼女の頭を撫でながらにこにこ笑う空雄を徹が呆れた顔で見やる。空雄は分かっているというようにうなずいて、伊織の手をそっとはずした。
「明日も会えるんだからさ、もう帰りな。先生にここへ遊びに来ちゃいけませんって言われるのは困るだろ?」
伊織はうつむいた。徹が戻ってきて彼女の手を取ると、おとなしく彼の後についていく。狭い玄関でまず彼女が靴を履き、次に徹が履くのを待って、ドアを開ける前にもう一度空雄の方を見た。
「また明日ね。待ってるよ」
彼がにこやかに手を振るのを見て、彼女はちょっと下を向きながらも小さくひらりと手を振り返す。徹がドアを開け、二人の姿は夜の闇の中へ入っていった。
「ふうー、やれやれ。毎回この瞬間はものすごく悪いことしてる気分になるんだよねえ」
空雄は大げさに肩をすくめて見せると、頭からタオルをかぶって千恵の隣に座った。そして彼女が広げていた伊織の絵に気付き、興味深そうにのぞき込んでくる。
「おおっ、ケーキだ。また今日の絵は賑やかだな」
千恵は黙ってうなずいた。確かにこの絵はカラフルで賑やかで楽しい絵だ。伊織はあのケーキがいったいどういうものだったのか全く気付かなかったのだ。もちろん何も言っていないのだから分かるわけがないし、言ってもまだ幼くて理解できないかもしれない。それでも、あの不思議な子供にはケーキに対する千恵の感情が見透かされてしまいそうな気がしたのだ。
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