第4夜 しょっぱいケーキと少女の魔法 --2
廊下から保健室に引きずり込まれた千恵は、諦めた表情でおとなしく椅子に腰掛けていた。保健医はベッドのある小部屋の方でがさがさと音を立てていたが、やがて戻ってくると千恵に冬用の膝掛け毛布を差し出した。
「はい、これかけてなさい」
うつむいていた彼女は少し顔を上げて毛布を受け取り、膝ではなく体を覆うようにしてくるまる。保健医が眉をひそめた。ぴぴぴぴ、と小さく電子音が鳴る。千恵は毛布の中でもぞもぞと動き、脇に挟んでいた体温計を抜いた。
「見せて」
保健医は千恵が見たか見ないかのうちに彼女からそれを受け取る。体温計には「35.2℃」という文字が浮かんでいた。とても熱があるとはいえる体温ではない。むしろ少々低すぎるぐらいだ。
保健医は文字盤をしばらく見てから千恵を見下ろす。夏が近付いてきてもまだセーターを着ていて、それでもこれだけ寒そうにしている彼女を、この保健医もまた、扱いかねているのだった。授業をさぼりたいから仮病を使っているというわけではない。それならば頭痛がするとかお腹が痛いとか他にいろいろあるではないか。風邪をひいて悪寒がするというわけでもない。いま計ったとおり熱はないし、咳もくしゃみもしないのだ。どこか辛いところはないのかと尋ねても、返事すらしない。
「須崎さん、病院には行ったの? もし何かあったら大変よ。一度診てもらいなさいよ」
しゃがみこんで、うつむく千恵の顔を下からのぞくようにすると、彼女は無表情でますます下を向き保健医と目を合わせないようにする。保健医は内心でため息をつきながら、それを表に出さないように優しく話しかけた。
「それとも、体の具合が悪いんじゃないのかな。なにか辛いことがあったんだよね? ね? 須崎さん」
千恵には、保健医がまるでハムスターの檻をのぞきこむ子供に思えた。絶対口を開いてなるものかとばかりに、両手を固く握りしめ歯をかみしめる。保健医は彼女の顔をじっと見上げていたが、揺るがない拒絶の態度に根負けして立ち上がった。反対側の窓辺にある自分のデスクのところへ行くと、教師用の回転椅子にどすんと腰を下ろす。反動で動いた椅子がキリキリと音を立てる。
「まあ、言いたくないなら無理して言わなくてもいいのよ。言うのも苦しいって思ってるのかもしれないけど。でもね、誰にも言わずに抱え込むより、誰かに聞いてもらった方がすっきりするってことも、あるのよ?」
今すぐここを飛び出してどこかへ逃げたい、と千恵は思った。力の入った指が痛い。保健医からの視線が気持ち悪い。だがこれ以上の奇行をするつもりなのかと思うと、衝動に身を任せるのにためらいがあった。今でも充分周りから浮いていて、問題児と見られているだろうに、また学校を飛び出したりしたら今度は保護者に連絡が行くかもしれない。そうなったら本当に面倒だ。終わりだ。
それとも既に連絡がされているのだろうか。千恵の背筋がすうっと冷える。何度注意されても冬服にセーターで登校してくる。しかもそれを脱がせたら倒れた。倒れたあと、誰にも挨拶せずそのまま消えてしまった。ここまでくれば保護者に連絡ぐらいするのではないだろうか。千恵が気付いていないだけではないだろうか。
「……先生」
「うん?」
気付けば千恵は口を開いていた。保健医が椅子の上で身を乗り出す。
「親、は」
その後はなんと続ければいいか分からなくなった。親には連絡したんですか。親は何か言ってきましたか。どう聞いても、教師たちは家に連絡するだろう。千恵が必死に頭の中で言葉を探していると、保健医はなにか納得したというように大きくうなずいた。
「ああ、大丈夫よ。須崎さんがここでしゃべったことは、おうちの人には絶対に言わないから」
「……うそつき」
「ん? ごめんごめん、よく聞こえなかったんだけど」
「なんでもありません」
耳に手を当てて聞くポーズをとりながら保健医が呑気に笑う。千恵は首を横に振った。保健医が椅子から立ち上がり、ふくらはぎに押された回転椅子がからりと言いながら後ろに滑る。保健医はふたたび千恵のすぐそばまで近寄ってきた。
「まあ、なんにせよ、元気出さなきゃ。一人で苦しんでるって思っちゃ駄目だからね? みんな心配してるよ。友達も、先生たちも、おうちの人も、それに……弟さんも」
千恵の肩が小刻みに震え始めた。やっと泣いてくれたか、とほっとした保健医は彼女の隣に座り背中を撫でてやる。だがすぐに、泣いているのではなく笑っているのだと気付き体が凍り付いた。彼女は声を抑えていたのだが、次第にこらえきれなくなり笑みを含んだ吐息が漏れる。
「須崎さん……?」
千恵は顔を上げた。保健医は何か奇妙なものを見る目つきで彼女を見ている。彼女は精一杯憎たらしく見えるような笑いを作って保健医を見つめ返した。
「先生は、何も分かってない」
彼女がそう告げると、保健医の顔にひやりとしたものが浮かんだ。千恵は冷静にそれを見つめながら、ああ大人はやっぱり嘘つきだ、と心の中で呟く。
「先生は何も分かってないし、分かるわけない。だから、もう私を、放っておいてください」
千恵は毛布から手を離し立ち上がった。そして今度は真面目で明るく元気な女子高生らしい笑いを作る。
「勝木先生に伝えていただけませんか。うちに電話したって無駄ですよって。母はどこか外国へ行っちゃいましたし、父は自営業だから仕事中は家にいますけど、夜は毎日よそで寝泊まりしてます。仕事場と家の電話は別なので、いつ電話したって誰も出ません」
保健医の表情がまた変わった。驚きと疑いの入り交じった表情だ。保健医も立ち上がり、床に落ちた毛布をまたいできびすを返そうとする千恵の腕を掴む。
「待って、須崎さん、それ本当なの? お母さんが外国にとか」
「知りませんよ。私が知ってるのは、母が銀行に預けてた自分のお金全部と、パスポートだけ持っていなくなったってことだけです」
「じゃああなた、自分で料理も洗濯もやってるの?」
「……」
「ええと、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、助けてもらえる人はいないのかな?」
「……」
「このこと、担任の勝木先生には言ってないのよね?」
おろおろしている保健医の言葉を聞きながら、千恵は作り笑いを消した。ついかっとなって口走ってしまったことを後悔していた。どちらにしろそのうち学校側にはばれていただろうが、わざわざその時を自分で早める必要はなかったのだ。ついさっきまでは、家の状況が学校に知れるのを恐れていたというのに。頭がおかしくなっているんだ、と彼女は思った。このままここにいればもっとおかしくなる。誰もが彼女を、大切な家族をなくして悲しい寂しい思いをしているのだと思っている。そうではないのに。
「先生、手が痛いので、離してください」
「え? あ、ごめんね」
千恵が低い声でそう言うと、保健医は思いの外あっさりと手を離した。その瞬間千恵は床を蹴り、保健室の戸をがらりと引き開けて廊下へ走り出る。
「えっ、須崎さん!?」
驚いた保健医が慌てて追いかけてきたが、今度は捕まらなかった。
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