45 自分勝手


 あろうことか、東雲さんの無駄に大きな声でそれまで帰ろうとしていた他のクラスメイトたちまでもが何事かとこちらを振り返ってきている。

 あぁ、駄目だ。

 こんなところにいたらまた変に誤解させて、迷惑をかけてしまう。


 僕は今になって、今この場にいることを初めて後悔した。

 出来るなら一瞬にしてこの場から立ち去りたい。

 きっとクラスメイトたちは司波さんたちに気を取られているはずで、まだ僕に意識は向けられていないはずだ。


 だけどそれも時間の問題。

 いつ僕にまでこのたくさんの視線が向けられるか分からない。

 そうならないためにも一刻も早くこの場から離れるべきなのだ。


 でも今この状況で変に動く方が皆の意識を集めてしまうのではないだろうか。

 そう考えると足が竦んでしまって、僕は立ち尽くす。

 緊張で変な汗は流れ、上手く息も出来ない。


「…………」


 そんな状況で司波さんは僕に向けていた視線を再びそのまま下に落とす。

 やっぱり僕なんかがここにいるから目も逸らしたくなるのだ。


 こうなったら最早クラスメイトに気付かれようが気付かれまいが関係ない。

 少しでも早く司波さんの目の前からいなくなること、それが今僕に出来る最善手なのだろう。


「どうするの、凛?」


 一つの決意が僕の中で固まった時、再び東雲さんの大きめの声が聞こえてくる。

 この状況ではどちらにせよ司波さんはあの隣にいる男子クラスメイトに送ってもらう他方法がないのだからそう急かさなくても良いだろうに、東雲さんは意地悪だ。


 司波さんは男子に送ってもらうのは嫌かもしれないがストーカーされている可能性がある以上いないよりはマシだろうし、それにあの男子の方も少なくとも僕なんかよりは全然マシだろう。


「…………」


 司波さんが答えを出すのを不思議と周りのクラスメイトが見守っている。

 帰るなら、今。

 皆の意識が司波さんに集まっている今なら注目されるのも最小限に抑えられるかもしれない。


 そう思った僕はすぐに振り返ろうとして――――出来なかった。

 何かが僕の胸辺りに当たっていて、それが引っかかって動けないのだ。

 何が、なんて思う暇もなく僕は下を向いてしまった。


「……司波、さん」


 見間違えたりしない。

 そこには間違いなく司波さんがいた。


「…………」


 司波さんは頭だけを僕の胸にのせて、何も言わない。

 さっきまで司波さんが立っていたはずの場所はいつの間にか誰もいなくなっていて、周りにはクラスメイトたちが呆けた顔を浮かべてこちらを見てきている。

 でも一番間の抜けた顔を浮かべているのは、きっと僕だ。


 どうして、なんで。

 そんな疑問で僕の頭は埋め尽くされて目の前の状況が理解できない。


 どうして司波さんがこんなに僕の近くにいるのか。

 なんで僕がこんなに司波さんの近くにいるのか。

 僕のその問いに答えてくれる人なんているはずもなければ、自分で分かるはずもなかった。


 ただひたすらに心臓が脈打つ。

 いつもの何倍の速さで、いや、何十倍、何百倍、もしかしたらそれ以上の速さで僕の胸を内側から叩いている。

 まるで司波さんにこの鼓動の音を届けたいと僕が無意識に願っているかのように、止まることなく叩かれ続けられている。


 突然こんなことになって司波さんは今何を思っているんだろうか。

 僕の鼓動と、司波さんの鼓動のリズムはどれくらいの差があるのだろうか。

 それは司波さんだけが知っている。

 僕の鼓動を聞いているだろう司波さんだけがその答えを知れるのだ。


「…………」


 そう考えると響く鼓動の音が恥ずかしい。

 本当は司波さんと一緒にいたいという僕の気持ちがあっさりと見抜かれているかもしれないと思うと今すぐに司波さんを引き離したくなる。

 でもそんなことさえも出来ないくらいに、今の僕はこの現状を受け入れたがっていたのだ。


「ちょっと、いい……?」


 司波さんの肩が僕の声に反応して一瞬だけ震えるが、その頭は頷くように少しだけ僕の胸に押し付けられる。

 そして僕は押しかかる重力か引力か分からない何かに任せるようにして、司波さんの頭に自分の近づけた。


 司波さんの柔らかい髪は僕を優しく撫でて、シャンプーの香りは僕を温かく包み込む。

 何だこれ、こんなの知ったらもう戻れなくなる。

 というかもう時すでに遅し、ってやつか。


 全く司波さんはずるいし、僕は馬鹿だ。

 クラスメイトがいる中でこんなことをしたら迷惑どころの話じゃないはずなのに、それで良いとさえ思えてしまう。

 自分勝手で浅ましい僕なんてとっくの昔に捨てられたと思っていたのに、どうやらそんなことはなかったらしい。


 こんな僕の本性を知ったら目の前の司波さんはどこか遠くへ離れて行ってしまうんだろうか。

 それは、嫌だな。

 出来ることならこれからもずっと司波さんの隣にいたいって思う。

 隣にいられるような自分でありたいって思う。

 ただ、ひとまず。


「……司波さん、今日は僕が送っていい?」


 その質問の後で、僕の胸に預けられた頭が一度だけ沈んだ。

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