第29話:おにのかみ
29、
桂川を沿うようにして遥か南方――京から大きく外れた場所にある一軒の小屋に、樹神は飛び込む。隙間も目立つ古びた小屋で、今では人が住むには少なからずみすぼらしさが目立つ家であった。
小屋へ入った樹神は、ここまで駆けてきたことで荒れた呼吸を整えつつ、小屋の奥へ奥へと歩く。頬を伝う汗を拭ってから、彼女は片腕を逆手で押さえる。道満との対決によって出来た傷を庇うと、そこから上ってくるジンジンとした痛みを知覚し、表情を
顔に浮かんだ
そうやって、小屋の奥へ向かう最中だった。
小屋の入口から、小屋の中に影が差す。
伸びた影と気配に気づいて、樹神は足を止めて振り返った。目を向けた先では、額に汗を浮かべ、焦燥の色を濃くした青年が一人、待ち受けている。
「樹神殿……」
樹神の姿を捉え、その青年・晴明は彼女の名を口にする。樹神のことを探し続けた彼にとっては、ようやくの再会であったが、その声と顔に喜びはない。代わりに浮かんでいたのは、苦さや哀切といった感情であった。
何故そんな顔をしているのか、それを改めて考える必要はあるまい。やっと見つけた相手が、血濡れた包丁を片手に仲間を追い詰めようとし、別人の如き顔をしていたのだから、当然である。
「追って、こられたのですね」
そう言って薄ら笑う顔も、いつもの樹神のものではなかった。喜びも嘲りもない平坦な笑み、樹神を知っている者ならば大きな違和感を覚えざるを得ない表情である。
そんな顔を見せる彼女へ、晴明は歩み寄ろうとした。が、その途中で躊躇うように足を止める。微妙な、遠くも近くもない一定の距離を置き、晴明が樹神との間合いを測っていると、樹神は傷を負った腕を押さえたまま、背後の壁へともたれかかった。
薄らと固い笑みを浮かべた彼女と対峙し、晴明はややまごつく。だがやがて、意を決した様子で口を開いた。
「どうして、あんなことを?」
口をついて出たのは、疑問の言葉だった。
その問いかけに、樹神は表情を変えない。
「あんなこと、とは?」
訊ね返されて、そこで晴明は気づく。これでは、何を問うているのか分からない。否、分かってはいるだろうが、曖昧に誤魔化されかねない。それを理解し、晴明は踏み込む。
「杏殿を、追いかけて追い詰めたことです」
「……私が、人を
さらりと口にする樹神に、晴明は思わず目を見開く。自分たちが、樹神が人を襲っていた嫌疑を晴らそうと動いていることを何故知っているのか、というところであったが、それに対する答えのように、彼女は微笑む。
「私を、人攫いの犯罪人として探していたのでしょう? 多くの人を攫い、殺した嫌疑人として」
「違う」
すべてを見透かしている様に喋る樹神に、晴明は首を振った。思考は困惑しているが、しかしその部分ははっきりと否定できる。
「俺たちはむしろ、その嫌疑を晴らそうと……。貴女がそんなことをするはずない、と」
「私を、疑っていたのではないのですね」
晴明の回答に、樹神は驚くことなく淡く笑った。その笑みは、どこか自嘲気味であり、相変わらず彼女らしくない。
それに対して晴明が黙っていると、樹神が続ける。
「検非違使は、どう私を見たのですか? 事件の犯人だと、或いは、人ではないと見たのですか?」
「……人ではない?」
彼女の言葉に、晴明は不審げな顔をする。それは、言葉の意味は理解出来ているが、あえてわざわざ理解したくないと言う理性が働いているための表情だった。
「分かっているのでしょう? 見つかった死骸は、自然と白骨化したものではないことくらい。何かに食い散らされたような跡が残っていることにも。貴方たちのような方々が、それを見誤ることはないでしょう」
訊ねられ、樹神は黙り込む。
分かっている。
樹神が何を指しており、何を言わんとしているかは。
それは、これまで考えるのをあえて避けていた考えだ。心のどこかで、否定したくて目を背けていた、合理的な考えの一つであった。
それに、こともあろうに樹神本人が踏み込んでくる。
「あれは明らかに、人の手による手が施されたものではない。何か人外の、化生の手が加わったものではないか、と」
「それは……」
彼女が何を言おうとしているかは分かる。それには、思わず口を挟みたくなる衝動を覚える。聞きたかったようで聞きたくない――そういう思いが晴明にはあった。
「別に、我々は貴女を糾弾している訳では――」
「分かっています。ですが、真実を知りたいはずです」
そう言って、樹神は先ほどまでとは別の微笑みを浮かべる。それは、先ほどまでと比べれば、ほんの少しだけ彼女らしい笑みであった。
その顔を見て、晴明は喉を鳴らす。息を呑みつつ、彼は樹神が何を告白しようか理解して、それを受け入れる心の準備を整える。
すでに言っているにも等しい彼女の前振りであったが、あえてそれが口にされるまでは認めたくはなかった。それを見抜けなかった自分の不明を認めること以上に、彼女がそういう存在だとは受け入れがたかったからである。
「少し、昔話をしましょうか――」
晴明の表情を見て、樹神は少し遠回りするように言葉を紡ぎ出した。視線を伏せた彼女は、結論を先送りにされて唇を引き結ぶ晴明に、語りだす。
「今となっては昔のことですが、
樹神が尋ねると、晴明は黙ったまま曖昧に頷く。
鬼子とは、生まれた瞬間から奇妙な特徴を持って生まれた子供たちの総称だ。曰く、生まれながらに言葉を喋った、曰く生まれた時から髪や歯を生やしてその足で立った等、普通の赤子では考えられないような生態を示した子供たちのこと言う。
そう言う子供たちのことを、古くは総じて『鬼子』と呼んで、忌み嫌い、畏れられたのである。
その存在を相手が理解しているのを確信すると、樹神は続ける。
「生まれながら歯を生やし、乳を飲む必要もないほどの大きさで生まれたその子供は、当然親からさえ怖れられ、しばらくしてから捨てられました。人里離れた場所に捨てられたその子供は、普通ならばそこでやがて息絶えていたことでしょう」
滔々と語る樹神に、晴明は耳を傾ける。
話が、誰のものであるかは想像に難くない。
「ですが、その子供は厄介にも生き延びてしまいました。その子供は生まれながら知恵もまわりました。人里離れた山中から別の里へ下りて生き延びることに成功したその子供は、やがて人を食べることを覚えました。子供は、生まれながら鬼の性を強く備えていたのです。やがて、村の人々は自分たちが受け入れた子供が鬼だと気付くと、これを殺そうとしました。しかし、子供は賢い上に強力な力を有していました。人を喰うことで強い神通力を得た鬼は、逆に村の人々を殺してしまったのです」
粛々と、壮絶というべき話が語られていく。他人のようにそれを語る樹神の顔は平坦で、そこが少し、彼女をよく知る者にとっては少しだけ不穏であった。
「それから、鬼は転々と各地を回りました。各地を回り、人を襲い、喰らいました。鬼は残虐でした。そして無垢でした。生きるために人を喰らうしか道はないと思い、また、そうすることが特におかしいことだと疑うことを知らなかった。だから、何人もの、何十人もの、何百人もの人を喰らい続けたのです。でも、そんなことが続いたある日、その鬼は一人の心優しき法師と出会いました。法師とはいっても、その人は尼でしたが……」
少し、切なそうに目を揺らしながら樹神は話を展開する。これまでの流れで最も感情が移入する部分なのか、彼女はそこを意識的に平坦に語っている様子であった。
「その法師は、一目で鬼を鬼と見破りました。しかし、その鬼が無垢であると、自分の行いを罪であると知らないことを見抜いて、説教します。初めは、鬼はその法師を
そう語って、樹神は少し明るく笑う。が、すぐにそれを消す。
「それから、その法師は……いえ、この話はやめましょう。ともかく鬼は、道を正すことを望みました。どうにかして、外れた道から正しき道へ進めぬものかと。そんな時、今度はある陰陽師に出会いました。彼は、鬼の話を聞いてやって来た腕の立つ陰陽師で、また法師に負けず劣らずの優しき御仁でした。彼は鬼を退治しようとしましたが、鬼が生まれ変わりたい、人として生きたいと強く望んでいることを知ると、初めは渋ったものの、やがて手を貸してくれると言って下さいました。そして鬼に、ある術を施しました。それは、鬼の悪性を封じ、妖を人として生かす術でした」
樹神は、目を閉じる。その時の事を思い出すように、彼女は追想する。
「それ以降、鬼は人として生きていくことが出来るようになりました。陰陽師は、鬼をただの鬼ではなく、それよりも遥かに上等な存在である『鬼神』であると言っておりました。そこで、陰陽師は鬼に名を与えました。鬼の神、きのかみ、樹の神――『樹神』と」
己が名前の由来をそう語り、樹神はいつしか胸に手を当てていた。
そして目を開き、彼女は晴明を見る。そしてその顔に何とも切なげで、場違いながら、彼女の神秘性を際立たせる美しい笑みを浮かべて、告げた。
「それが私なのです。それが、かつて鬼として猛威を奮った存在、樹神の正体なのです」
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