第七話 チョコレート

 薄青色のバッグを取り上げて中を探ってみると、そこには綺麗にラッピングしたチョコレートがきちんと入っていた。

「うっわ、皮肉。あいつへの気持ちを自覚した途端、出てくるなんて!」

 早紀は安堵したのと、おかしいのとで、腹を抱えて笑った。

「ばかだなー、もう渡せないのに……」

 青い包装紙でラッピングしたチョコレートだ。多少、箱が潰れてしまっているが、黄色いリボンで十字になるよう飾ってある。中身は手づくりだけど、それを悟られないように、ラッピングだけはお店の有料サービスにお願いした。

 受けとってもらえない。

 そうとわかっているのに、手の中の小さな箱はあたたかい。

 早紀は愛しげに見つめていたチョコレートをケイスケに差しだした。


「チョコ、あなたにあげるわ」


 早紀は自然と浮かんでくる微笑を、心底驚いた様子のケイスケに向けた。

 白い光のなかでまん丸になった目がおかしくて、早紀はくすくすと笑う。

「いいの。あげる。っていうか、もらって。中身は無事だと思うから」

『けど……』

「いいのよ、もう」

 早紀は首を振った。

「乱暴な奴だった。気に食わないことがあると、私を殴ったり蹴ったり……友達とか、付き合うのやめなよって何度も言ってくれたのにね……私ってばそれでも好きだったのよ、奴のこと」

 ケイスケは透明な眼差しで、笑う早紀を見つめていた。

「やっと認められた。もう関係は終わってしまってるけれど、でももういいの」

 早紀は独り言のように続けた。

「……好きだった。なのに私は自分を哀れんで、その気持ちに嘘をつき続けていた。でももうちゃんと、その気持ちを認めてあげることができたから」

 すぅっと呼吸をして、早紀は笑顔で大きく伸びをした。

「あーすっきりした! なんだかなー、すっごい自由になった気分だわ! 本当ありがとう、ケイスケ。もう自分の探しものしていいよ。ね、今度は私も手伝うよ」

 そして早紀は、ケイスケを振りかえった。


 ケイスケは、無言でその場に立っていた。


 ケイスケの眼差しがじっと早紀を見つめている。

 どうしたのだろう、早紀は急に怖くなって後ずさった。

「……なに、探してるんだっけ……?」

 今まで近くに感じていた幽霊が、急にとてつもなく遠い存在に感じた。

「あ、チョコの妖精なんだっけ。じゃあ、それ探してたのかな!」

 早紀は無理に笑って、ケイスケが両手で受け取ったチョコレートを指差した。


 なぜか、その青い包装紙が気になった。

 なんで赤にしなかったんだっけ。

 自分は恥ずかしくなるぐらい赤づくしなのに。


『探しものはもう見つかりました』

 ケイスケが呟いた。

 首をかしげると、ケイスケは──地面を指差した。

「……なに?」

 そこを見るのが怖くて、早紀はケイスケの顔を見たまま聞いた。

 ケイスケはふと表情を和らげ、首をかしげた。

『チョコ、本当にもらっていいんですか?』

 話題が変わったことにほっとしながら、早紀はむやみに笑ってうなずいた。

「いいのいいの! どうせあいつは受けとらないし、私ももうあげる気ないし。捨てるのもかわいそうだから、もらってあげて」

 早紀はなにかに急き立てられるように話しつづけた。

「……だってあいつ、さっきも私のこと殴ったのよー? チョコ投げ捨てて、そのうえ私を殴ったの。ぐーでよ? ぐー。殴られて殴られて、蹴られて、髪の毛もわしづかまれてさー」

 早紀は話しつづける。

 その不自然さに気づかずに。

「しかもチョコ探そうとして雑木林に入った私を追ってきてさ、しつこいぐらい殴られて……服とかぼろぼろになってストッキングだって破れちゃって、それでも殴られて蹴られて、殺されて──」

 早紀は言葉を区切った。

 笑っていた目が、笑ったまま虚空に貼りつけになる。

 ケイスケはただ黙って早紀を見つめていた。

「……え?」

 早紀は震える声で、呟いた。

「殺された?」

 そこで早紀ははじめてまともに自分の姿を見た。

 異常なほどに破れたストッキング。

 気にいっているけれど、ヒールが高すぎる赤い靴──赤かったっけ、この靴。

 高かった、真っ赤な大輪の花を咲かせた、薄い青地のワンピース──こんな色合わせの悪い花の模様なんてあっただろうか。

 手にしたバックは青くって、ケイスケの手にあるチョコも青くって……。

 なのに自分のすべてが赤い。


 ──嘘。

 私、赤は嫌いなはずなのに。


『サキさん』

 ケイスケが囁いた。

『もうバレンタインデーは、一ヶ月も前なんです』

 言っている意味がわからなかった。

『榊洋一はあなたを殺した翌日、警察に自首しました』

 早紀はちっとも面白くないその冗談に、面白くもないのに笑った。

 けれどケイスケは笑っていなかった。早紀の笑いはすぐに消えてなくなる。

「幽霊は……あなたでしょ?」

 ケイスケは首を横に振った。

「妖精さんっていうのはもうなしにしてよね」

『僕は人間です。幽霊はあなたの方なんです』

「だって、白く光ってるのに……」

『幽霊から見れば、人間は生きているものだけが放つ生気で光って見えるのでしょう』

「だって……」

 早紀は言いかけて、唐突に思い出した。


 違う。そうだ。ケイスケは人間だ。


 だって最初に石を投げつけたとき、彼は「痛い」と言ったじゃない。

 石はたしかに彼の体に当たって、跳ねかえったじゃない。

 透けていたのは、自分が触れたときだけ……透けていたのは、私?

 それに、途中で会った悪霊。彼は光っていなかった。けれどケイスケは彼を見て「あれは悪霊だ」と言った。それが本当なら、悪霊と同様、光っていなくておかしいのは、


 私だったんだ。

 着ている服だって……。


「私、赤は嫌いなのよ」



 血まみれだったのに。



「私、殺されたんだ、あの人に」

 早紀は呟いた。

 なぜだかひどく、気分が落ち着いた。

「やだ、え? じゃあこの雑木林って……あーわかった。地縛霊ってやつだ。だから出口が見つからないんだ」

 怒りも悲しみも絶望も、不思議とわいてこない。どうしてだろう、好きな相手に殺されて、自分は死んだのだと知ってしまったのに。

 早紀は殺されたことよりも、ようやく解放されたのだという気持ちのほうが大きくて、ひどく浮かれた気分になった。

「そっかー」

 早紀は大きく息を吐きだして、夜空に浮かぶ赤い月を見上げた。

 それは血のように赤かった。

 もしかしてあの月も、本当は白いのに、自分が「赤」に染まっているせいでそう見えるのだろうか。

 月が、歪む。

「ケイスケ、もしかして霊感少年とかなんだ? 私を助けようとしてくれたの?」

『一ヶ月も、ずっとひとりで探しものをしてたから、気になって……』

 その声がひどく悲しげなのが、早紀は嬉しくてたまらなかった。

「だから一緒にチョコを探してくれたんだ……」

 じゃあ、やっぱりチョコレートの妖精だ。

 そして、とてもとても、優しい青年。

 彼がいなかったら、ケイスケが自分を見つけてくれなかったら、自分はいつまでもさまよいつづけていたのだ。この、果てのない「後悔」という名の雑木林で。

「私、馬鹿よねぇ。あなたみたいに素敵な人、いたのに」

 涙が溢れて、早紀の頬を伝い落ちていった。

「でも、あいつを恨む気にはぜんぜんなれないの……」

 そして、彼女は微笑んだ。

「やっぱりそのチョコ、もらって」

 青いチョコレート。

 早紀の好きな青い色で、自分の本当の気持ちを包んだチョコレート。

 受けとり手のいないバレンタインチョコなんて、あまりにさびしい。

「あ、気になる子がいるんだっけ」

 涙を流しながら笑うと、ケイスケはチョコレートの箱を掴む手にそっと力をこめると、白く輝く手を早紀に向かって差しのべてきた。

『今日はホワイトデーなんです』

 ケイスケは優しい優しい微笑を浮かべた。

 早紀は惹き寄せられるように、その手に自分の手を重ねた。

 途端、手のひらから真っ白な光が溢れだし、早紀は真っ白な光に包みこまれた。


「綺麗ね……」


 早紀は笑った。

 光の中に、ケイスケの姿が溶けてゆく。



 自分が溶けていた。

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