仕事と親と自分と夢と(掌編4本)

田間世一

空と公園とおじちゃん

 にぎやかな街並みから少し外れたところにある公園。ブランコとすべり台に申し訳程度の砂場、鉄棒とベンチ。そこに少年とも少女とも判別のつかない子どもが1人、くりくりとした大きな目を空に向けていた。一心に雲ひとつない空を見上げている。何の変哲もないはずの風景の中で、そこだけが浮き上がって見えた。

 男は止めていた足を、その子どもへと近付けることにした。体調が優れず会社を早退してきた帰途で、この風景に気を取られとめていた足を、妙な緊張を感じながら進めた。


 男はいつもなら、多少の体調不良くらいなら気にせずにいた。頭痛がしようが腹を下していようが、世の中には薬があるのだから、いくらでも乗り越えていける。そう信じて今いる会社で、大学卒業後就職してから8年間をひた走ってきた。それなりに大手の会社なので、同期で入った者も、それなりにいたが、結局今も残っているのは数える程度でしかない。3年も待たずに辞めていった者がほとんどだった。

 その男が、では、自分の会社が好きなのかと言えば、少し違う。退職したらまた就職活動をしなければならない。そしてまた、新しく入った会社で新しい仕事を覚え、新しい人間関係を築かなければならない。それが億劫だった。ただそれだけの理由で転職もせず8年間を働いてきた。

 8年間、早退も遅刻もなし。フレックスタイムは残業し過ぎた時にのみ使い、有給休暇も取らなければ会社として都合が悪いため、仕事の少ない時に1日だけ使い、2日以上連続で取ることようなことはなかった。

 だからと言って男が、仕事好きかと言うと、それもまた違う。それは男自身自覚していることだった。ただ、目の前にやるべき事があり、それを全うすることが自分に課せられている任務であるからやっているに過ぎない。そして、これは男は自覚していないことだが、全てにおいて、手抜きや、ほどほどに済ますということを知らないが故に、周りに強要されたわけでもないのに、自分を追い込むことが多かった。


 ぼんやり眺めているのではなく、目的を持って空を見上げる瞳に、男はふらふらと引き寄せられるようにして、子どものそばまでやってきた。子どもは男の存在に気付く様子もなく空を見つめ続けている。まっすぐまっすぐ空の全てを吸い込もうとしているようにも感じられた。

 少し怖気付いて、男は一歩下がった。そこで初めて気付いた、子どもはピンク色の、いかにも女の子向けなキャラクターの描かれた靴を履いていた。女の子なのか、と男は思い、そして、傍から見たら今のこの光景がどう見えるかということに思い至った。

 まるで幼女狙いの変質者のようではないか? まだ小学校へは上がっていなさそうな少女。年齢的には親子と言っても違和感はない。しかし、平日の日中、スーツ姿の会社員が、なぜ子どもと2人きりで公園にいる。自分の置かれている状況にはたと気付いて男は、慌てて周りを見やった。その姿を自分で想像して、ますます不審だと、小さく笑った。笑ってそして、それこそ奇妙だと、また周りを警戒する。


 一人芝居を繰り広げる男の服を、小さな力が引っ張った。少女が、不思議なものを見るように、男の顔を、まじまじと見つめていた。

「やあ」

 男はぎこちなく笑みを浮かべ、軽く手を上げて少女にあいさつしてみた。少女が首をかしげる。

「こんにちはでしょ」

 何を言われているのか男は一瞬悩んだ。自分のあいさつの仕方が間違っていると指摘していることに気付き、上げていた手を下ろす。こんにちは、ぺこんと頭を下げた。少女は、ハイよく出来ましたとでも言わんばかりの満足顔で、こんにちはと言い、男にならってペコリと頭を下げた。

 一体自分は何をしているのだろう。

「おじちゃん、かいしゃは?」

 少しばかり責めるような口調で少女に聞かれる。男は会社を早退してきたことに後ろめたさがあったため、即答出来なかった。

「ずるやすみはだめなのよ」

 たどたどしさの残る発音のくせに、妙にこなれた感がある。日頃自分が母親から言われているのだろうかと、男は苦笑し、気付いた。小学校にも入っていなさそうな小さな子どもが1人、公園で何をしているのだろう。親は? 幼稚園や保育園の先生は? 祖父母でも近所のおばさんでも無職で家にいる兄弟でも何でも良い。誰か大人が一緒にいなくてはいけないのではないか? 子ども向けに防犯を呼びかける番組が放送されるようなご時世に、何でこんな小さな子どもが1人で公園にいるんだ?

 タラちゃんが1人で三輪車に乗ってあちこち放浪していられるのはサザエさんだからであって、現実にはそんなことあっちゃいけないはずなんだ。なんて、子どもが生まれた途端、突然父親に変貌していた中学生時代からの連れの姿を男は思い出した。

 先ほどとは違う理由で、男は慌てて周りを見やった。それらしき大人がいない。

「ここには1人で来たの?」

 どのくらい話が通じるのか、小さな子どもとはほとんど接してこなかった男は戸惑いながら少女に向かって問いかけてみた。

「そうよ、ひとりできたのよ」

 何か誇らしげに答えてくる。回答はまともだったが、中身がいただけない。男はますます焦る。

「お母さんは? ママは?」

「ママはおしごとでしょ」

 男の質問に少女が言い聞かせるように答える。いや知らないし。男はキョロキョロと見渡す。誰かに助けて欲しくなった。

「先生は?」

「あっち」

 すっと指差された方を見る。「あっち」方向に保育園なり託児所なりはあっただろうか。この辺は自分の家に近いところではあったが、男は子どもの頃から住んでいる家の周囲に、どんな施設があるのか、どんな店があるのかを、自分があまり把握していないことに気付き驚いた。

「あっち?」

 少女の指差した方向を指差してみて確認する。ひとまず「あっち」方向に歩いてみようかと考えたのだ。だが、男が混乱の中からどうにか見つけ出した道標は、いともたやすく崩れ去る。

「ちがう、あっちでしょ」

 またも言い聞かせるような口調。そしてさっきとは微妙に方向が違う指先。あっちって、どっちだよ、どこが正解なんだよ。男はしゃがみ込み、頭を抱えた。身元の分からない子どもの扱いへの戸惑いと、答えの見えないやりとりに、そういえば自分は頭痛がひどくて帰ってきたのだと思い出してしまった。少しの間忘れられていた痛みがよみがえる。もう、頭を働かせるも何もなくなった。ひざをつき、両手で頭を抱え込み、痛みを押さえ込むのに必死になった。


 しばらくして、少女の泣き声に気付いた。ズキズキという男が実際に響いてくるような感じのあいまあいまに、こりゃもう立派な騒音公害だと思うような泣き声が耳に飛び込んでくる。

 少しずつ、痛みが引いてくるにつれて、少女が泣きながら叫んでいる言葉が聞き取れるようになってきた。

「おじちゃんがしんじゃったよー」

「縁起でもないこと言うなぁ!」

 頭を押さえていた両手を上に上げ、少女に向かって声を荒げる。少女の泣き声が大きくなる。また頭が痛くなって押さえようとして、振り上げた両手に気付く。これじゃまるで幼女虐待。ゆるりと、力なく手を地面につけた。

「つかれた」

 泣き止まない少女、治まらない頭痛、途中やりで残してきた仕事。

「めんどくさい」

 明日会社へ行ったら、仕事仲間たちから大丈夫かとか、珍しいなとか、いろいろ声をかけられるに違いない。それに溜まっている仕事。同居している親は両親共に現役で会社員。今家に帰っても誰もいないだろう。それは良い。定時で帰っただけでもいちいち驚かれるのに、早退したなんて言ったら、どうしたんだとか、あれこれ聞かれるだろう。心の底から、今日だけは母親には残業で遅く帰ってきて欲しいと願った。早退したことは親には知られないままでいたい。何よりも気になるのは、やはり、仕事。

 今日は早く帰って、親に煩わされることなく、さっさと床について明日に影響が出ないようにしたい。なのになんで今自分はここで子どもに泣かれているのか。


 男は気付く。泣かれていない。

 ぱっと顔を上げると、少女がしゃがみ込んで男の顔を覗き込んでいた。

「おじちゃん、えーんえーんしちゃったね」

 えーんえーん……泣いたってことか。男は今更になって、自分がおじちゃん呼ばわりされていることに気付き、あっさり「おじちゃん」な自分を受け入れていたことに笑いがこみ上げてきた。そうだ、8年だ、社会人になって8年、もうすぐ20代ともおさらばする。少女から見れば立派な「おじちゃん」だ。

 8年は、長いな。

 ふわり、苦笑いから笑みの種類が変わる。次第に、抑え切れなくなって声を出して笑い出す。少女も男につられるようにして笑い始める。


 ブランコとすべり台に申し訳程度の砂場、鉄棒とベンチ。そこに親子ともとれなくもないスーツ姿の男性と、ピンクのキャラクター物の靴を履いた少女。2人で地べたに座り込み、何がおかしいのかゲラゲラ笑い転げている。空は雲ひとつなく、風も穏やか。


「いた! あそこ、公園の真ん中!」

 化粧っけのない、ズボン姿にエプロンをかけた、男よりも少し年上に見える女性が、やはり似たような格好のもう1人の女性へ声をかけながら、男の存在に戸惑うようにして公園に入ってきた。男が少女を見ると、明るい顔で女性を見、何とか先生と叫びながら女性の元へ走り出した。恐らく女性の名前を言ったものと思われたが、男には、わーっと叫んだに近く聞こえ、何先生なんだか全く分からなかった。

 少女が先生2人と感動の再会を果たしているのを眺めながら、男は立ち上がってズボンの砂を払い落とす。先生2人は男への対応を仕方を決めあぐねている様子で、おずおずと笑みを向けた。

「通りがかりで、子どもの扱いが分からないでいたので助かりました」

「ああ、ああ、すみません。十分気をつけていたはずだったんですけど、お散歩の時間にこの子だけはぐれてしまいまして。保護してくださってたんですね、ありがとうございます」

 少しだけ先輩に見える方の先生が表情を明るくし、男に礼を述べおじぎをした。少女は興奮した様子で大人のやりとりに構わず自分の冒険譚を先生2人に話している。

「保護だなんて、ただおたついていただけです」

 居心地が悪くなって男はそそくさと公園を後にしようとしたが、それも不審者のようだと考え直し、忍耐強く先生2人のお礼への相手をする。あまり長く付き合っていたくはないなと思ったところで、話を聞いてもらえていないことに苛立ち始めた少女のおかげで、すぐに解放されることとなった。

 別れ際、やっぱりどうも不審者っぽく感じたので、男は身元の保証をするために名刺を先生たちに手渡した。


 すぐには帰る気になれず、普段、平日には寄れない店にぶらぶらと寄り道した。家に着く頃には頭痛は我慢ならないほどひどくなっていたにも関わらず、男の気持ちは妙に晴れやかだった。西の空が茜に色付く中、長く伸びた影の頭まで視線を運んでいったら、母親の足に行き当たった。母親は驚いた表情で、男を見つめていた。

「頭痛」

 説明するのが面倒で、男は一言だけ言い、門を母親のために開けて待った。門を入っていくとき、母親は男の顔を見て、立ち止まった。男も母親の顔を見る。そういえば、母親の顔をこんなにまともに見るのはどれくらい振りだろうか。

「私、明日、有休取ってんだよね」

 だから何、という話を続けることなく、母親は玄関のドアを開け、家の中へ入っていった。男は門の鍵を閉めながら、明日は体調不良を理由に会社を休もうと思った。公園で会った少女は今日、迎えに来た母親に、おじちゃんがえーんえーんしてた話をするのだろうか。間違っても「しんじゃった」なんて言ってくれるなよと、小さく笑い、ドアを開ける。振り返ると、空は茜色から藍色へと変わり始めていた。

 でも、と、男は思い至る、先生たちがまず、母親に子どもが一時行方不明になっていたことを説明しなくちゃいけないんだろうな、と。既におぼろげになっている2人の顔を思い浮かべながら、男は苦笑した。


 翌々日、男が少しばかり重たい気分で出勤すると、上司に明るい表情で出迎えられた。前の日に、保育園の先生と、少女の母親から、会社にお礼の電話が入っていたらしい。男が少しばかり良い気分になって自分の席へと来ると、きっちり1日半分の仕事が、誰に手をつけられることもなく溜まっていた。

 人に手出しをされたくない性分の男としては、ありがたいような、そうでもないような、複雑な気分ではあったが、来週末辺りを目処に片付けられた良いかと、窓から見える空に向かってうそぶいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る