3.二つの想い

「おい! おい! 可憐!」

 三つ角を曲がった先で諒に捕まった可憐さんは、私が駆けつけた時には道路の端にしゃがみこんで、こちらに背中を向けていた。


「諒ちゃんは来ないで!」

 すぐ近くに立つ諒のことは拒絶しておいて、

「琴美ちゃん……!」

 私を呼ぶから、私と諒は無言で顔を見合わせて、入れ替わろうと移動する。


 すれ違う際、小さな小さな声で「頼んだぞ」と諒に囁かれた。

 やっぱりチクリと胸は痛んだけれど、私はしっかりと頷いて、可憐さんの隣に彼女と同じようにしゃがみこんだ。


「どうしたの……? 大丈夫?」

 言い終わらないうちに、ワッと泣き出した可憐さんに抱きつかれる。

 ふわりと香るいい匂い。

 華奢な背中を宥めるようにトントンと叩いて、嗚咽まじりの声に耳を傾ける。


「もう……ダメかもしんない……本当に、ダメかも……!」

 自信なさげな掠れた声が、半年前の自分の気持ちと重なってしまって、私まで涙が浮かんできそうだった。

 何か言って慰めてあげたくて。

 でも詳しい事情もわからないのに、「大丈夫だよ」なんて無責任なことはとても言えなくて。

 私はただ、彼女の背中を撫で続けた。

 激しい嗚咽が次第に小さくなって、可憐さんが落ちついて事情を説明してくれるようになるまで、ずっとずっと撫で続けた。

 

 

「最初に気がついたのは香水の香り。彼の車に乗った時、私とは違う香水が香ったから、あれっ? って思ったの……でもなんて聞いたらいいのかわからないし……どんな答えが帰ってくるのかも恐いし……聞けないまま……疑ったままだから、態度もなんだかぎこちなくなっちゃって……それで、なんだかおかしくなっちゃったのかもね……」

 結局さっきの公園まで戻って、もう一度ベンチに並んで座って、私は可憐さんから話を聞いた。


 もうそこにあるはずないのに、チラチラと道路のほうばかり見ている可憐さんが、どんなに彼氏の車を気にしているのかよくわかる。

 話し声が聞こえないくらい遠い所で、私たちが動きだすのを待っている諒が、いくらそっぽを向いてたって、本当はこちらに集中していることも。


 もどかしいような、やりきれないような気持ちを感じながら、私は私に言える最大限の言葉を口にする。

「とにかく……まだ何も本当のことはわからないんだから、まずは確かめてみるしかないんじゃない? ……彼氏さんとちゃんと話をしてみて、それから……」

 本当はこんなセリフ、渉の言葉に耳も貸さなかった私が、言えるようなものではない。

 そんなことは百も承知で、それでもあえて自分に鞭打って懸命に語っているのに、私の話が半分もいかないうちに、可憐さんはきっぱりと頭を左右に振った。


「嫌よ」

「はい?」

 思わず聞き返さずにはいられない。


 いぶかしげに首を捻った私の顔を、可憐さんは栗色の巻き髪を揺らしてガバッとふり返った。

「もういいわ! こんな思いするくらいなら、私のほうから終りにする! 疑ったり、不安になったり……こんなのまるで私らしくないもの……私がふり回すならともかく、相手にふり回されるなんて冗談じゃないわ!」

 まだ瞳は涙に濡れているのに、私を見つめる視線は凛としていて力強かった。


 可憐さんは、まるで余計なものを全部払い落とすかのように、肩に乗った髪を背中のほうへ流して、すっくと立ち上がる。

「こんな恋はもういらない!」

 夕陽を背に受けて、潔く顎を上げて、敢然と言い放った姿はまさに女王様のようだった。


「か、可憐さん……?」

 よくよく聞いてみれば、彼女が今宣言した言葉は、半年前の私の思いとほとんど変わらない。

 なのにこの違いは何なのだろう。

 誰の目から見たって、精一杯無理しているようにしか見えなかっただろうあの時の自分と、本当にこの恋を終わらせてしまっても、すぐに新しい相手が現れそうで、全然未練なんて残さずに済みそうな可憐さん。

 どこに違いがあるかと言ったら、本当に残念ではあるが、女としての魅力の大きさの違いそのものだ。


(やっぱり美人は得だ……)

『HEAVEN』に参加するようになって、美千瑠ちゃんや可憐さんと知りあって、確信を得た思いを今日もまた再確認する。


「そうと決まれば、もう悩む必要もないわ。今日から私はフリーよ!」

 数多い彼女の信奉者たちが聞けば、泣いて喜びそうなことを声高らかに宣言して、可憐さんは猛然と前を向いて歩き始めた。


「ちょ、ちょっと! ねえ、可憐さん?」

 やっぱりことの真偽ぐらいは確かめたほうがいいんじゃないかとか。

 別れるなら別れるで、ちゃんと彼氏さんにも了解をとらなくちゃとか。

 やっぱりがらにもないことを必死で叫ぶ私の声を無視して、可憐さんは早足で歩き続ける。

 そうしながら、どこからか取り出した携帯で、すでに誰かと連絡を取ろうとし始めた。


「可憐さん!」

 慌てて追い縋ろうとした私を制止するように、ふいに目の前に鞄がさし出される。

「悪い。ちょっと可憐と話があるから、先に行く……じゃあな」

 言うが早いか鞄を私の手に押し付けて、可憐さんを追って行ってしまう、自転車に乗った後ろ姿。


(……諒!)

 話ってなんだろうとか。

 私は邪魔なんだろうかとか。

 そんなこと、可憐さんを好きな諒にしてみたら当たり前なのに、その時の私には、ことの状況も、自分の感情さえもとっさに上手く理解することができなかった。

 ひとことも発することさえできずに、呆然と二人を見送るだけだった。

 

 

「良かったわね。絶対無理だと思ってたのに、最大のチャンスが到来して……!」

 寝不足の為に回らない頭を酷使して、必死の思いで捻り出したセリフを口の中でぶつぶつと呟いてみて、私はひとり首を傾げる。


(うん? これじゃちょっと嫌味ね……)

 それならばと、新たなセリフを考える。


「おめでとう。やっと彼女ができそうじゃない! それも大好きな可憐さん!」

(これもなんか嫌な感じ……すぐに目を剥いて怒る顔が目に浮かぶ……)

 そう思って、実際にその様子を思い浮かべてしまって、思わずクスリと笑みが零れた。

 そんな自分にとてつもない虚しさを感じ、私はガタンと机に突っ伏した。

(なにやってんのよ私!)


 早朝の学校。

 二年一組の教室では、いつもどおりみんなが予習に励んでいるというのに、一番前の席でひきつった笑顔の練習をしたり、思い出し笑いをしている私は、きっとかなり浮いているはずだ。

 ――いつも以上に。


 隣の席の諒はまだ登校してこない。

 それが嬉しいんだか悲しんだかさえ、もう全然わからない。


 昨日の放課後は、恋心の自覚やら二度目の失恋やら、自分のことだけでも実にいろんなことがあった。

 それに加えて可憐さんと彼氏さんの問題。

 さっさと可憐さんを追いかけて行ってしまった諒。

 あれからどうなったのか気になって気になって、昨日はとうとう一睡もできなかった。


 今までの私だったら、諒が登校してきた早々捕まえて、どうだったのかと根掘り葉掘り聞くところだ。

 上手くいったにしろ、ダメだったにしろ、徹底的にからかって、最終的には口喧嘩に突入するはず。

 

 でも表面上は憎まれ口でも、それは確かに仲間として、一緒に喜んだり悲しんだりの私たちなりのコミュニケーションだったのだ。

 でも今はもうとてもそんなことできそうにない。

 これまでと変わらないようなセリフを頭を使って必死に準備して、私の動揺を諒に悟られないようにするしかない。

 すっかり聞き慣れた足音が廊下を歩いてくることにさえ、もう体がこの場から逃げだそうとしている。


「……おはよ」

 ガラッと扉を開けた諒が教室に入って来た途端、私は反射的に、大きく椅子の音をたてて立ち上がっていた。

「佳世ちゃん!」

 とってつけたように名前を呼んだら、ニッコリと笑ってくれた親友が座っているほうへ向かって、逃げるように歩きだす。


「おい」

 背後から諒が声をかけてくるけれどふり向かない。

 心臓が爆発しそうなほどドキドキと鳴っているけれど、ううん、それだからこそ、絶対にふり向かない。

 

 強い意志を秘めて歩き去る私に、諒はもうそれ以上声はかけなかった。

 まるでお互いの間に見えない壁でもできたかのように、そのまま一日、私たちは一言も口をきかなかった。

 

 

「でも、授業が全部終わったからって、それで終りじゃないのよー!」

 心の叫びを実際に口に出して叫びながら、私は頭を抱える。


 放課後の中庭。

 嫌だと悲鳴を上げる自分の心を騙し騙し、『HEAVEN』に向かおうと特別棟の前まではやって来たが、ここが限界だった。

 とうとう動かなくなった足を諦めて、芝生の上に座りこみ、膝を抱える。


(もう嫌だこんなの! ……可憐さんじゃないけど、全部投げ出してしまいたい!)

 ほんの昨日までは毎日があんなに楽しくて。『HEAVEN』の次の催しである交流会の準備にもあんなにはりきっていて。

 なのに自分の諒に対する想いを自覚してしまった途端、その全てが後回しになってしまった。


(どうせダメだってわかってるんなら……こんな想い気がつかなきゃ良かった!)

 どんなに悔やんだってどうしようもない。

 そもそも誰かを好きになること自体、自分でそうしようと思ってなるものではないのだ。

 自分で思いどおりにできるものなら、私はもっと違う人を好きになっていたはず。

 そしてもっと楽しい恋をしていたはず。


(諒が悪いのよ! 性格悪くって意地悪ばっかり言うくせに、必ず助けてくれるから! いて欲しいなって思う時に、傍にいてくれるから! だから……だから!)

 抱えた両膝に額をくっ付けて、これでもかと言わんばかりに八つ当たりしていたら、背後から声をかけられた。


「琴美、どうしたの? 小テストの結果でも悪かったの?」

 これが諒だったら「そんなはずないでしょ!」と怒り狂ってふり返る所だし、渉だったら「大丈夫だよ」と無理して笑ってみせることろだ。


 でもこの声の主はきっと、私が落ちこんでいるところに現れて、決まって気持ちをひき上げてくれる人物だ。

 きっと彼だとわかっているから、今さら強がる必要もごまかす必要もない。


 とは言え、私が今落ち込む理由が、成績ぐらいだろうと思われていることはちょっと心外だった。

「テストは満点だったわよ……あとは最近トップをひた走っている誰かさんが、うっかりミスしてくれれば、それでOKよ……貴人」


「ハハハハッ。ゴメン。それは気が利かなかった……!」

 予想どおり聞こえてきた大笑いに、顔を上げてふり返って見れば、やっぱり貴人が私の後ろに立っていた。


「次回は気をつけるから、今回は機嫌を直して、俺と一緒に『HEAVEN』に来てくれるかな?」

 さし出された手に、どうしようかなんて迷う間もなく、私は貴人の手を握り返していた。

 

 もういったい何度、この手に引かれて私は立ち上がったんだろう。

 絶妙のタイミングで現われてくれる如才なさにも、思わずこちらまで笑顔になってしまう満面の笑顔にも本当に感謝している。

 ――大好きだ。


 何気なく考えて、私はハッとなった。

(えっ? ちょっと待って……私って貴人のことも好き……なの……?)

 思考と同時に一気に体も固まってしまって、貴人の手を取って立ち上がりかけた体勢のまま動けなくなる。


「琴美?」

 訝しげに首を捻った貴人がこれ以上近づいて来ないように、なんとか体を起こして立ち上がるには立ち上がったけれど、サッと引いてしまった手が、いつもよりふり払うようだったなんて、貴人は気がついただろうか。

 ちょっと面白がっている時に彼がする癖で、眉を片方上げて私の顔を見たあと、前に立って歩き始めた貴人が、何を考えているのかなんて私にはわからない。


 でもたった今、ふと気がついてしまった自分の気持ちに、私は驚天動地の思いだった。

(私って! 私って……! 諒のことが好きなくせに、貴人のことも好きなの……!?)

 まるで自分がとてつもなく悪い女になったような気分で、私はふらふらと特別棟の階段を上がり、呆然と『HEAVEN』の扉を開けた。

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