第18話 イリーナ

 その部屋には、不思議な香りが漂っていた。


 お香の煙が大きな客間の片隅で遠慮がちにゆらゆらと揺れている。しかし、それだけではない。妖精族の村イルフィンの村長、イリーナの存在感が視覚から嗅覚を心地よく刺激する。それほどまでの美貌だった。

 妖精族特有の切れ長な目にも関わらず、その目とその視線は柔らかい。額には翡翠の石をあしらったティアラを被り、それと同じ色である絹で編まれたローブで全身を覆っている。


「さあ、道中お疲れでしょう。まずは椅子にお座り下さいな」

 イリーナはそう言うと、身振りで室内に入るよう促す。ライアスは軽く謝辞を延べて部屋に入り、ラドとハクもそれに続く。そして、壁に沿って並んでいる葉でできた椅子に腰掛けた。


「あ、ふわふわ……」

 ラドがその椅子の上に乗ると、それはしっかりとした弾力でラドの四肢を押し返す。どうやら大きな葉の内側は、綿のようなものが詰まっているらしい。


「ふふっ。そうでしょう。その椅子は、この村の細工士の特注品ですから」

 そう微笑んだイリーナは向かいの席に座り、二人と一頭と向かい合った。

「では自己紹介をしましょう。私はイリーナ、この村イルフィンの村長をしています。今年で四百二十歳になります」


「なっ……!」

 ライアスはその言葉に度肝を抜かれてしまった。どう見ても目の前の妖精族の女性は、人族で例えるとまだ二十歳過ぎくらいの容貌だったからである。

 ちなみにラドとハクは、母が数百年生きたことを知っているため特段驚きはしなかった。


 ライアスは慌てて深呼吸し、何事も無かったようなていを見せる。イリーナにはそれが面白く、ころころと笑ってしまう。

「で、では。……私はライアス。元はルムガンド王国で歩兵部隊の隊長をしていた。今はこいつらの保護者のような者だ」


「僕はラド、竜族。こっちはハク、僕の弟です」

「……ハク。ラドと同じで……竜族」

 それぞれの自己紹介を微笑みながら聞くイリーナ。ハクが自身のことを竜族と言った時も、その笑みは微動だにしなかった。


「ライアス、ラド、ハクですね。……では早速ですが、門番より私の知恵を借りたいと聞いています。一体何についてお聞きしたいのでしょう」

 柔らかな目つきの中に鋭さを加え、イリーナはライアスに向かって問いかけた。


「どこか、種族を問わず人々が共存している村や町があれば教えていただきたい」

 ライアスが簡潔に述べる。イリーナはその言葉の真意を確かめようと、表情と姿勢を保ったままライアスの目を覗く。



 女帝竜よりハクとラドを託されてから、ライアスは今後の身の振り方を考えていた。


 その結論はというと。人族から、更に限定的に言えばルムガンド王国から簡単には見つからない場所での拠点を探すことだった。

 多くの人族は、導師に対し反感の念を抱いている。それは、そう教育されたからであるのと同時に、導師が引き起こした大戦により人族が追いやられた史実に基づく過去によるものである。


 逃げ帰った数百名の兵士達から、今頃ハクの存在はルムガンド王国内に広まっているであろう。そうなれば、ほぼ間違いなく捜索隊が編成される。万が一それにハクが発見されたら人族の部隊を相手にすることになる。ライアス一人では到底太刀打ちなど出来ない。

 そのため人族に見つからず、生活の拠点にできるような場所を探す必要があるのだった。


 更に言えば、人族のハクと竜族のラドが一緒に暮らせる場所というのも重要である。となれば、必然的に種族の垣根を越えた村や町、ということも必須事項となるのだった。



「……ここから西に森を抜けて南へ進んだ所に、山に囲まれた渓谷があります。そこに種族を問わず子どもを受け入れる孤児院があると聞いたことがあります」

 ライアス、ラド、ハクの順に視線をゆっくり移しながらイリーナは自分の知りうることを伝える。

「ただ残念ながら、数十年前に噂で聞いたことですので……。すみません、今もそれが存在しているかの確証はありません」


 イリーナはやや俯き気味になり、表情の色を落とした。しかしライアスは首を横に振り、イリーナに感謝の言葉を伝える。

「いや、その情報だけでもありがたい。感謝します」

 そして再び、その場に和やかな雰囲気が戻った。


「お役に立てたなら良かったです。ところで……ハク。もし、妖精族の服でよければ着てみますか? その毛皮一枚では体が冷えるでしょう」

 突然自分に話が振られたことに驚きながらも、ハクは一拍遅れて頷いた。


 イリーナはそれに笑みで応えると、客間の奥に控える従者を呼び、子ども用の服を用意させた。村で見かけた子ども達が着ていたローブと同じものだ。

「……ありがとう」

 ハクはそれを受け取ると、その場で毛皮を脱いで着替え始めた。


「お、おい!」

 ハクのいきなりの無作法振りに驚いたライアス。止めようとするが、時既に遅し。山で育ったハクにとって、集団行動でのマナーなど皆無なのである。


「あらあら、まあまあ」

 ころころと笑うイリーナを不信に思いながらも、ハクは見よう見まねで慣れない服を少しずつ身に纏っていく。

 毛皮以外の服を自分で着たことが無く四苦八苦するハク。見兼ねた従者の手伝いのおかげで、なんとか着替えを終えることができた。


「さて、折角他の種族の方がいらしたのですから、今夜はご馳走にしましょう! この村に妖精族以外の客人が来るのは百五十年振りですから。ハク、ラド。あなた達は夕食の支度ができるまで、そこにいる村の子ども達と遊んでいらっしゃいな」

 そう言うとイリーナは指をパチンと鳴らした。そよ風が吹き、屋敷の入り口の暖簾が揺れる。


 すると、複数の驚いた声と床に倒れる音が響いた。ハク達の噂を聞きつけ、屋敷を覗き込んでいた妖精族の子ども達である。

「あなた達、話は聞いていましたね。ハクとラドです。仲良く遊んでらっしゃい」

 一言も子ども達を咎めず、イリーナは微笑みかけた。


 ぞろぞろと現れた子ども達はハクとラドの手を引っ張って屋敷の外へと連れ去っていく。

「うわー! 竜族だ! かっけー!」

「耳がまるーい! ねぇねぇ、触ってもいい?」


 そして嵐のように近づいた声は遠ざかり、あっという間にハクとラドはその喧噪の中に紛れていった。

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