幽霊

 妻からの手紙に返事を出したのは、次の月命日の深夜だった。


 悪質な悪戯ではないか……と何度も書くことをやめたのだが、手紙を読み返しているうちに本当に妻なのではないか? という錯覚に陥ってしまったからであった。


 返事など来るわけもないことはわかっていた。


 心の底からそう思っているのに、返事を書いてしまったことには理由がある。


 ──似ている。妻の筆跡と。


 なにも変わらない毎日、罪滅ぼしのように生きている毎日。悪戯だとしても妻を名乗る者からの手紙。万が一にもありえない話だが妻の幽霊なのだとして、それが罪滅ぼしになるのであれば……。返信せずにはいられないか──その程度にしか考えていなかった。


 そのため返事の内容は至ってシンプルであった。


『そちらはいかがですか。こちらはなんとかやっています』


 それだけのために便箋と封筒を買いにコンビニへ寄るはめになり、いつものおきまりのルートから外れたことを悔やんだ。


「ふん……これで気がすんだか? 偽物め」


 この悪戯に対しては少しばかり腹もたっていた。妻との関係を馬鹿にしているような……そんな気さえしていたのだ。


 少しだけ郵便受けに呪いをかけると玄関の扉をあけて帰宅する。


 今日も遅くなってしまった。早希はすでに寝ているのかリビングの明かりは消えている。


 廊下の明かりを頼りに電気をつけると、ダイニングテーブルに用意された夕食に目が入った。


 虫がたからぬようご丁寧に蚊帳まで用意してくれている。こういう気配りができるのは有紀に似たようだ。手紙のことばかり考えていたからか、ふとそんなことが脳裏をかすめた。


 蚊帳の中を覗いてみるとまっさらな茶碗、ラップがされたグリーンサラダと申し訳程度の煮物。そして焼かれて時間がたち、かちかちに固まった鮭という和食のラインナップであった。


 電子レンジで煮物と鮭を温め直している間にサラダをつまむ。美味そうな甘い匂いが鼻孔をくすぐるとすぐにレンジのチンという音が聞こえる。


 熱々の煮物と鮭を食卓に並べ、テレビの電源を入れると1から順番にチャンネルを回して消した。


 テレビなんてつまらないものだな。

 そう感じると、ふと福田に言われたことが脳裏をかすめた。


「俺は変わったのか……?」


 確かに……昔はよく笑っていたような気がする。クイズ番組で回答者より先に答えてよく有紀に怒られていたっけ……。


 バラエティ番組で腹を抱えて笑い転げたこともあった。


 でもそれは平穏、幸福のもとに成り立っていたもの。そうでなければ、俺は今笑えているだろう。


 そんな事をぼんやりと考えていてハッとする。


「風呂入って寝よう」


 時刻は深夜一時を回っていた。湯船にはつからず、熱めのシャワーですますことにする。


 日付も変わり、今日が月命日──。


 仏壇にあいつが好きだったチョコレートを供えて眠りについた。



 翌朝、家を出る前に郵便受けを覗いてみる。


「嘘だろ……」


 ──手紙が消えている。


 俺が手紙を入れたのは昨日の23時すぎ。今は朝6時40分。この時間の間に誰かが持って行ったことになる。


 もちろん郵便屋や新聞屋ではないだろう。あいつらは入れることはあっても持ち去ることなどしない。


 頭の中に疑問符が散らばる。今の俺にはこれらのハテナを回収する術は見つからなかった。


 期待と不安。

 もしも本当に妻からの手紙なんだとすれば……そう考えると期待で胸が高鳴った。


 ようやく……ようやく直接謝罪することができる。


 しかし、そうでなければこれは犯罪だろう。


 余所の家の郵便受けから郵便物を持ち去るなど窃盗罪。娘に対するストーカーという存在についても考えなければならない。


 ストーカーではなく、この手紙の差出人の仕業なのだとしたら、俺への恨み……か。


 恨まれるようなことなんて……──そう思考を巡らせるが、有紀が死んでからの5年は至る所に迷惑をかけてきた。


 そういった類の可能性がもっとも高いだろう。


 ──もしかして福田が……?


 あいつには迷惑をかけてきた。一番迷惑をかけてきたことは明白だ。


「何つっ立ってるの? 遅刻するよ! いってきまーす」


「あ、あぁ。いってらっしゃい」


 俺が郵便受けを覗きながら硬直している姿に首を傾げながら、娘は登校していく。


 俺も早く出勤しなければ遅刻してしまうだろう。


 ──今は忘れよう。


 しかし、忘れよう忘れようと思えば思うほど、頭の中は『なぜ?』で満たされていく。


 バスの中でも、電車の中でも……消えた手紙のことばかりを考えていた。


「おい安藤、何ぼけっとしているんだ」


「あぁ……」


 気の抜けた返事をした後に状況を理解する。


「お、おはようございます課長」


 上島は俺を一瞬睨みつけると舌打ちをしてエレベーターへと乗り込んでいった。


「あ、のりま……す」


 言い切る前に満員近くなったエレベーターは扉を重く閉じた。言おうとした言葉に気がついた社員たちは迷惑そうな顔で俺を見ていた。


 もしかしたら、あの人が? もしかしたら、あっちの人が?


 怖い……怖い怖い!

 見るもの全てが俺を恨んでいるかのような……錯覚であってほしい現実が心を支配しようとする。


 そんな恐怖に怯える毎日を過ごし、一ヶ月が過ぎた。


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