誰もが知る物語の誰も知らぬ物語
田間世一
序章:月歌始まり
ここは
広い国土を、皇帝が各都に派遣する
皇帝の目が届きにくいことを良いことに、中心から離れた地域から徐々に独立した統治を行う都守が現れるようになる。これに危機感を覚えた十七代目の皇帝は、双子の息子たちを同時に即位させ、兄に北半分の、弟に南半分の都守をそれぞれに支配させることにした。弟は兄を深く尊敬し、慕ってもいたので、兄を正当な皇帝とし、自らを亜帝ないしは南帝と呼んだ。
弟は
南にいる者たちは皇帝を北帝と呼ぶようになり、領土争いが起こった。
長きに渡り激しく争う中、このまま歴史ある楔が南北で分裂してしまうことを恐れた一部の皇族・貴族のとりなしにより、皇帝は北都の中で最も肥沃な土地を南都に分け与え、南帝は皇帝の正統性を認め、年に二回参内することを約束し、ひとまずの終焉を見た。その後も皇帝は南都としたはずの土地から南帝を通さず直接徴税し、また、南帝はそれまでのように自ら参内することなく代理の者に行かせ、共に約束を反故にしながらも、それでも両都間の関係はそれなりに良好に落ち着いていた。
だが、今度は北が動いた。
第三十二代の
南帝は代理の参内を拒否し、徹底抗戦に出、大小の戦を繰り返す、今の楔の状況となっている。皇帝は滄桑帝から
龍欺帝に、滄桑帝(今は滄桑院)から始まった混乱を鎮めることを期待する者はいない。滄桑院が保身のため幼き龍欺帝を表に出し、自分は裏へと回ったことは誰でも知っていたし、即位時こそ幼帝であった龍欺帝が、成人後も父親の滄桑院の影響下から抜け出ていないことも、大いに楔の人間を失望させている。
南では穆敷帝(今は穆敷院)が病で倒れ、一命を取り留めたものの政治を執ることは難しい状態になった。だが、第一皇太子の
「少し混乱したかな。何も今全てを覚えてしまう必要はないよ。大雑把に外枠を話したに過ぎない。これから少しずつ覚えていこう」
静かに聞き入る子どもたちにいかにも文士といった風情の男が言う。南帝直営の孤児院・
養栄園には主に戦乱で親を亡くした子どもたちが集められている。歴史の講釈を受けるのは十二歳以上の子どもたちだが、ここに一人、まだ十歳にも満たない少年が紛れ込んでいる。名は
「先生、北帝が化け物だっていうのは、本当?」
生徒の一人が聞いた。皇帝を『北帝』と呼べるのはここが南都だからであるし、ここが南帝直営とはいえ、あくまで私の空間であるからだ。公の場や、北都で北帝などという呼称を使えば、それだけで反逆罪に問われる。だが子どもたちは無邪気に皇帝を北帝と呼んだり北の化け物と呼んだりする。
「お前達はどうして龍欺帝を化け物だと思う?」
師は生徒らに聞き返す。一斉にやんやと騒ぎ出す子どもたち。龍欺帝は母親の存在が知られていない。父親が分からないのはありうる話だが、母親が分からないとはどういうことだろう。そのために、人でないものから産まれたのだと噂されるようになった。また、異例尽くしの即位式も、その噂を広めさせるきっかけとなった。
「汰虎、お前はどう思う? お前も龍欺帝は人でないものだと思うかい?」
噂話で盛り上がり騒ぐ子どもたちの中で、一人静かに思案していた汰虎に師は尋ねた。汰虎が顔を上げ、師をしっかりと見つめて口を開いた。
「北が荒れているのも、南が荒らされているのも、北帝が私利をむさぼり民を思う心を持たないせいです。それは化け物と呼んで良いと思います」
年の割にはっきりと物を言う汰虎を、師はとても可愛く思っている。年上の者たちが騒ぐばかりでいる中で、これだけの回答が出来れば上出来だろう。師はゆっくりと頷いた。
「お前たちの中に、
師からの問いかけに生徒らは一斉に否定した。不定期ではあるが、玲綜帝も朱明子もこの施設に時折訪れ、子どもたちと接し、見込みがあれば官吏として登用することもあった。
「それが大きな違いなのだよ。
師の言葉に生徒らはじっと耳を傾けていたが、一人が釈然としない様子で師に問うた。
「姿を見せないのはやっぱり化け物だからではないの? 即位式を見に行った大人たちは言ってるよ、あれは紛れもなく化け物だって」
龍欺帝の即位式は異例だった。一般の見学を許したこともまず異例だったが、何よりも、夜、月の光のみを頼りに行ったというのが異質だった。色素の薄い龍欺帝の髪は月明かりを受けて銀色に輝き、肌がぼうっと浮かんで見えた。
師は生徒から投げかけられた質問には答えず、時間だと言い、生徒らを解散させた。
化け物なんてものがこの世に存在するものだろうか。師はしかし、はっきりと子どもらに否定してやることも出来なかった。あれは十年前のこと、師も機会を得、北都で行われる龍欺帝の即位式を見に行った。神々しいと言おうと思えば言えるのかもしれない。だがあれはやはり、禍々しいと言った方がしっくりしていた。
一度部屋を出て行こうとしていた
「化け物を殺したいと思う者もやはり化け物なのでしょうか」
師は短く息を吐いた。
「汰虎、どんなに化け物じみた人間も、やはり人間なのだよ」
師の言葉に汰虎がうなずく。言っていることは分かっているのだろう。ただ、それを感情と結び付けられない。
「あれのせいでたくさんの人間が死んでいます。同じ人間でも殺されても仕方のない人間もいるんだと思います」
意思の強い瞳だ。お前が誰も殺さないで済むことを願うよ。師は口には出さなかった。
人が人の死を願う世界は悲しい。こんな幼い子どもが親の報復のために誰かの死を望む世界は悲しい。
一週間後、汰虎は朱明子の命により養栄園から離れることが決まった。養栄園の人間にもほとんど知らされなかったが、汰虎は北都へ、北帝のいる宮殿へ、潜入することになった。主な任務は北帝付近の情報を集めることだったが、朱明子は隙があれば殺しても構わないと命じていた。
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