第27話 結6 新しい扉
24日の昼すぎ、結は予定した時間より、1時間も早く支度を終えていた。洋服やバッグ等、出かけるための準備は前日までに完璧にしていたしこともあり、出かける用意も予定より早く出来てしまった。
高谷が来ると言っていた2時まで、結は時間を持て余していた。とりあえず、特製のココアを入れ、お気に入りのソファーに座り、ゆっくりと飲みながら部屋全体を見回していた。もう少しでこの施設を出られるかもしれない……。結はそう考えながら、ここでの1年を、色々と思い出していた。毎日カフェで働きながら、色々な住人を見てきたし、社会復帰用の講座で、電車の乗り方から、社会マナー、保険の入り方まで、外で生きていく為の多くの知識を身につけた。外の世界に飛び出すことは、実際、とてつもなく不安だが、高谷という心強い味方が居ると思うと、殆どの恐怖心は消えた。
今日の外出もバネにして、なるだけ早くここを出られる様にと、気合が入る。
「ピーンポーン」
玄関の呼び鈴が鳴った。
「入るよ」
そう言って、開けておいた玄関ドアから高谷が入って来た。
「おはよう。ちょっと早く来たかと思ったけど、準備万端だね」
優雅にココアを飲む結を見て高谷が言う。
「緊張して、あんまり眠れなかった」
結がココアをすすりながら言うと、高谷は笑った。
「はは、そうか。まあ、外の世界も、こことそんなには変わらないよ。ただちょっと気温は寒いけどね」
そういうと、紺色のPコートをダイニングテーブルの椅子にかけた。
「だからこれ、今日用のコート。君、コートって持ってないだろう?」
一年中空調管理されたこの塔の中は、季節である程度気温は変わるものの、冬にコートが必要になるほどの寒さになる訳でもなく、結は外に出る用のコートを持っていなかった。
「そっかあ、ありがとう」
結は飲み終えたココアをダイニングテーブルに置き、そのコートを羽織ってみた。サイズもぴったりで、今日のコーディネート、白いニットに、デニムのパンツ、といった格好にもあっていた。
「あと、これも……」
そう言って高谷は持っていた紙袋から、綺麗な緑色と落ち着いた黄色のチェックのマフラーを取り出し、結の首にかけた。
「これはクリスマスプレゼントって事で」
今まで、高谷に色々と外の世界から買ってきてもらう事は多かったが、結はこんなに嬉しと思った事は無かった。結は巻いてもらったマフラーに顔を埋め、少しの間、幸せを噛み締めていた。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
高谷はそう言うと、玄関へ向った。
エレベーターで一階までおり、事務局の「受付」と呼ばれる小窓まで来た。事務局とのやり取りはいつもこの小窓で行っていた。小窓の隣には、医師やこの施設の人間が棟内部への出入りに利用する、常に鍵のかけられたドアがあった。棟の外に出るにはこのドアの向うの事務局を通り抜け、正面玄関へと向うしか方法はない。
「高谷です。32915の松下結の外出申請日です」
高谷はその受付で、書類らしきものを担当に手渡した。すると窓から顔を覗かせた男は結の顔をしっかりと確認し、「どうぞ」と言った。高谷はズボンのポケットから数本小さな鍵のついたキーケースを取り出し、事務局入り口のドアを開けた。この施設のドアは、ところどころ、この様な昔ながらの金属を差し込むタイプの鍵になっている。
「結ちゃんもついてきて」
そういうと高谷はドアをゆっくりと開いた。ドアの向こうは、整理された机が100近く並んでいた。
たまに棟内で見かける、白衣を着た医師達数人がその机にむかい、何か作業をしている。今まで棟内と繋がるあの小さな小窓からは確認できなかった、いろいろな物を見ることができた。左奥には、会議室と書かれたドアがあり、真正面にはガラス張りの自動ドアがあった。それ先はもう、外の世界になっている。
2人はゆっくり静かに歩きながら、その正面玄関へと進んでいく。結の鼓動は、一歩一歩進む度に、緊張の入り混じった興奮で、ドクドクと激しく脈打った。
「では外に出るよ」
高谷はそう言ったかと思うと、持っていたカードキーを扉の横のセンサーにかざし、最後の扉を開いた。
外の冷たい風が勢い良く吹き込み、結の髪をたなびかせた。まず高谷が数歩踏み出し、扉の外へ出る。結は開いた扉の前で動けずにいた。高谷は振り返り、付いて来ていない結に気付くと立ち止まり、結に向って手を伸ばした。
「大丈夫だから、おいで」
結は一つ深呼吸をすると小走りで扉を出た。手を伸ばして高谷の手を掴む。棟を出る事への恐怖心から高鳴っていた鼓動が、高谷と手を繋いでいる事への胸の高鳴りへとすり返られた。高谷は歩みをゆっくりと進めながら結の顔は見ずに言う。
「まず、車に乗ったら今日行く場所の説明をするよ」
2人は棟の玄関前に広がる、広い駐車場を高谷の車の方まで歩いていった。この駐車場は棟の中にある書店の窓から見える場所であったので、結にも見覚えがあった。
「あれ、あの黒い車。たいした車じゃあなくて申し訳ないけど……」
そう言う高谷が向ったのは、古いタイプのいわゆるセダン型の綺麗に磨かれた黒い車だった。
「車に乗るのも初めて……」
結が呟く。
「そうだね。でも大丈夫。俺、運転うまいし」
緊張を緩和させようとしているのか、高谷がいたづらっぽく結に笑いかける。高谷らしくないその作り笑顔に、結は少し緊張の糸がほぐれた。
「はい、どうぞ」
高谷は助手席のドアを開けると、エスコートする様に結を助手席に促した。結はその助手席に丁寧に腰掛ける。社内はうっすらと芳香剤の香りがしたが、ほぼ無臭で、かなり綺麗に掃除されており、全く高谷の生活観を感じる事が出来なかった。しかしその生活観のなさが、高谷の几帳面な性格を映し出しており、結は、高谷のプライベートな空間に初めて触れた気がして嬉しかった。
「それで、今日行くところはですね……」
運転席側に乗った高谷が、バックの中から何か取り出しながら言う。バックから出てきたのは一冊の雑誌だった。先日、結が読んでいたものと同じ、観光ガイドの様なものだった。表紙にはクリスマス特集と書いてある。
「これの……、あ、そう、ここ、ほら」
そういうと高谷はその雑誌の一ページを結に見せた。高谷が指差す、そのページの左下には、装飾された大きなもみの木と、その周辺を取り囲むかわいらしい光の動物達の写真が小さく載せられていた。
「ここは結構郊外なんだけど、クリスマスのイルミネーションがすごく綺麗なんだよ。あまり大規模じゃないんだけど、そのおかげか人も少ないし、でも、センスは凄く良いんだ。周りには君の好きなものがありそうな雑貨屋もあるし。ここで大丈夫?」
その場所は結がその雑誌を見て行きたいと思っていた場所とは違う所ではあったが、彼女は即座に答えた。
「もちろんです。宜しくお願いします!」
高谷は笑顔で頷き、腕時計を見た。
「よかった。じゃあ…、。えっと、今2時半で、そこに到着するのは4時頃、1時間半くらいそこにいたら、6時前にはそこを出て、七時過ぎには戻ってくる予定です」
突然の業務的口調だった。おそらく、外出時には住人に一日の予定を最初に知らせるといったルールがあるのだろう、と結は思った。しかしそれは、これがデートでは無い事を結に再認識させ、、浮足立った彼女の気分を少し落ちつかせた。そして車は静かに動き出した。
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