覚えている様で眠っている

エリカ

第1話 私たち そして私

 私達4人は、それぞれ別々の閉鎖された4つタワーの中で暮らしていた。

 そして私達全員が、ここに来る前の記憶を失っている。


 ここにいる住人全員は、自らの耐え難い過去を捨て、新しい人生を手に入れるため、過去の記憶を消す手術を受けた者達だ。


 ここ臨海地区の元タワーマンションには、2000人以上の住人がいる。大金を払い、脳の手術を行い、外の世界に出て生活を送れるレベルになるまで、この塔の中だけでリハビリ生活を送る事になっている。


 許可なしに外に出る事は許されない。

 また、別の塔へ行く事も出来ない。


 自分がどのくらいの期間でここから出られるのか。それは、誰にもわからない。

 私が、過去どの様な人間だったのか。隣人が過去どの様な人間だったのか。体や心は大人だが、まるで生まれたての赤ちゃんの様な存在の私たちは、本当にいつかこの場所を出ていくことが出来るのか。そして、過去はそんなにも簡単に捨ててしまえるものなのか。


 私達、叶(かなえ)、ことね、理香(りか)、結(ゆい)、の4人には、高谷という共通の担当医がいた。

 私たちは多くの疑問を抱えながら、高谷医師と共に、どうにか自分なりの人生を築こうと必死だった。 

 しかし、強く踏ん張って立ち上がろうとする私達の足元には、大きな秘密が埋められていた。


―――――――――― 1 私 ―――――――――――――――


白く大きな箱に閉じ込められている。


 その感覚が夢だったのか、現実にそう思っていたのか、わからないまま私は目を覚ました。

 目を開けると、飛び込んできたのは、優しく白い光だった。

ぼやけた視界は、徐々に焦点が合い始め、それが真っ白な天井で、自分は仰向けに寝ているのだと認識する。と同時に、強烈な吐き気が襲ってきた。

 今の状況を理解できぬまま、慌てて顔を右に傾け嘔吐する。白い壁しか見えていないはずなのに、自分がぐるぐると回転しているような感覚に襲われる。また吐いてしまいそうだと顔を横にしたが、その後すぐ眠ってしまったのか、また意識がとび、次に目を開けた時には、先程まではなかった人影を感じた。


「気分はどうですか?」


 人影がこちらに向かって話しかける。まだ目覚めたばかりのぼやけた視界では確認することは出来なかったが、独特な低い声から男性であることは認識できた。聞いているだけで喉が乾きそうな、乾燥し、かさかさとしたハスキー声だ。私は何か返答しようと試みた。しかし、何と返答するべきか、自分の気分は今どういう状態なのか、正確に答えようとすればするほど、言葉が出てこなかった。


「無理に答えなくても大丈夫ですよ。 もう少し気分が落ち着いたらにしましょう。 もう少し眠った方が良いかな?」


 その言葉にもまた、返答する事は出来なかった。しかし、段々と光に慣れ始めた目で、男性の表情を読み取ることはできた。

 彼の方は、はなから返事を期待した質問では無いのか、こちらににこりと笑いかけると、私の右腕へとつながれた、点滴の様な、小さな何かを操作した。

 そしてそのまま、白衣を翻し、そそくさと部屋を出て行ってしまった。

 白い箱の様な、見るからに清潔そうな場所に再び取り残された私は、白衣の残像を見つめていた。そしてまたそのまま眠りにおちた。


 次は扉が閉まる様な物音で目が覚めた。


 ああ、また彼が来ていたのか、と思った。そう思った後で、今自分が彼だと思った人間は誰だったのかを見失った。


 視界にはもう見慣れた気さえする真っ白い天井が現れ、彼とは先程出ていった白衣の男性の事だろうと納得する。彼はきっと医者かなにかだろう。年齢は三十代中盤ぐらい、浅黒い肌に大きく少し垂れ下がった目は、大病院の敏腕外科医というより、町の小児科開業医といった、優しく暖かい雰囲気を醸し出していた。


 彼が医者だということは、おそらく私は今病院にいるということになるだろう。ベッドに横たわっているということは、私は患者側だ。


 事故か何かにあったのだろうか。


 まるで思い出すことが出来ない。


 体は無事だろうかと急に不安が押し寄せた。体中に意識をめぐらせて、何か違和感のある箇所があるのではないかと探ってみたが、頭が若干重く感じられる程度で、特におかしな様子の箇所は感じられなかった。おそらく外傷の様なものはないはずだ。目で確認しなければと思い、体を起こそうと手を付き、体を左側へと傾けた。かなり長時間横になっていたのか、体中の筋肉に鈍い痛みを感じた。


 慎重に両足をベッドの横へ降し、ベッドに腰掛ける様な体勢になると、白い箱だと思っていた部屋の左壁には、窓を覆う形で白いカーテンが掛けられている。


体を確認したいと起き上がったことも忘れ、まずは外をみて、ここがどういった場所なのか確認しなければ、と私は窓のもとへ歩み寄ろうとした。立ち上がったとき少しふらついたが、半ば倒れこむような形で窓際に近付く。

 勢い良くカーテンを開けると、あまりの驚きで「ひゃっ」と、情けない声が漏れた。

 窓の向こうに、自分と同じようなポーズをとった女性が居たのだ。鼻がつくような至近距離だった。驚いて後ろに反り返った体を、訛った体で支えるのは無理だった。バランスを崩してお尻から倒れそうになる。

 反射的に支えようと、思いっきり床に付いた左腕に、指先から頭まで電気が走った様な痛みがきた。折れてしまったかもしれない……。しかし今はそれよりも窓の向こうを確かめたいという気持ちが勝ってしまう。


 左手首を右手で押さえながら、どうにか立ち上がり、再びゆっくりと窓の外を見た。そこにはまた自分と同じ姿勢の女性がいた。一瞬ドキッとしたが、今度は転倒するほどではなかった。


 状況の把握ができたからだ。窓の奥にいると思ったのは、ガラスに映った自分だと分かった。

外は真っ暗闇で、明るい室内からは、殆ど何も見えない。その窓に自分の姿であろう、二十代で長い黒髪の女がいかにも患者といった室内着を着てこちらを凝視している。それは自分であるに違いなかった。しかしその自分の姿に何か違和感を感じる。


 私はこの様な容姿だっただろうか。


 女性である事に違和感は無いが、こんなに長い髪だっただろうか。そもそもここに何故いるのか。ここに来る前は何をしていたのか。精一杯思い出そうとしてみた。


 脳が火にかけられたやかんの様に熱い。


 何かで塞き止められたように記憶が表に出てこない。そういえば私は何と言う名前だったのか、まずはそこからだと考えたが、いくら考えても同じ事の繰り返しだ。一向に思い出せない。しかしこの感覚自体は、前にも経験した事がある様な気がした。ああ、久々の知人に会って、中々名前が出ない時だ。呑気にもそんな感覚は素早く思い出せる。


 しかし、誰とそんな話をしたのかは全く思い出されなかった。


 その時、部屋のドアから誰かが入ってくるのがガラスに映った。振り返ると、先ほどの医者がこちらを見て少し驚いた表情を浮かべた。


「もう起きていたんですね。大丈夫? 気分はどう?」


次は即座に応答ができた。


「左の手首が痛いです……」


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