2-9 キリスト教の救世主ムハンマド(1)

 同じ天使集団の説いた宗教なのに、どうしてユダヤ教徒やキリスト教徒は、イスラム教を批判するのだろうか。


 ひとつには、クルアーンに聖書と食い違う点があることだ。全能のアラーが間違えるはずがない。しかし、クルアーンがアラーの言葉ではなく、ガブリエルの創作だとしたらどうだろう。

 何千年も生きていて、旧約聖書の雑な改竄をした存在にとって、サマリア人とアッシリア人を混同することくらい大した問題ではない。ペルシャの宰相ハマンが、エジプトのファラオに仕えているのも同じことだ。


 ガブリエルのムハンマドへの啓示では、アラーの言葉で暗記しなければいけないクルアーンの部分と、ガブリエル本人の雑談というような区分けがあったと思われる。

 アラーではなく、ガブリエルの言葉として語られた内容から、ムハンマドは「ザカリヤは大工でした(アブー・フライラによる預言者の言葉)」という誤った認識をした。

 ガブリエルが、イエスの養父ヨセフの職業が大工だということを、イエスの父は大工と省略して表現し、イエスの実の父がザカリヤだと聞いていたムハンマドが、ザカリヤの職業が大工だと認識しても何の不思議もない。


 ムハンマドは次のような三段論法をとった。

1 イエスの父はザカリヤである。

2 イエスの父の職業は大工である。

3 (1と2から)ザカリヤの職業は大工である。


 聖書にはザカリヤは祭司と記されており、3を公表することは啓典の民からイスラムは誤った教えと見なされる。にもかかわらず、ムハンマドは信者に3を語った。

 当時のアラビア半島にもキリスト教徒はいたが、1を信条として持っていた場合でも、あくまで意見なので、ムハンマドには養父ヨセフについても語ったうえで、本当の父はザカリヤだと自分は考えていると説明したはずである。しかし、当事者であるガブリエルにとっては、ザカリヤが父親なのは当たり前のことなので、ヨセフのことを引き合いに出さず、いきなり1をムハンマドに教えた。


 クルアーンには、ザカリヤの職業とイエスの養父ヨセフについての記述がない。ガブリエルは自分がムハンマドにこれまで何を話し、何を話していないか正確には把握しておらず、2をヨセフのつもりでムハンマドに話し、ムハンマドは3を導き出したのだ。

 当時、アラビア半島にいたキリスト教徒が、ムハンマドに1を語ったならば、ヨセフについて必ず教えるはずである。従って、ヨセフのことを知らないムハンマドが、クルアーンを偽造したとする説は成り立たない。

 「ザカリヤは大工」という一見滑稽で、イスラムの愚かさを象徴するような伝承は、ムハンマドが本物のガブリエルから話を聞いていた証拠のひとつになる。


 イスラムへの批判のもうひとつの原因は、それがあまりにアラビア的ということだ。預言者はアラビア人でアラビア語で啓示を下したのだから当然といえるが、それでも、結婚や遺産相続の決まり、女性がスカーフをしたり、礼拝の方角がメッカなのは、キリスト教徒にとって抵抗がある。


 礼拝の方角(キブラ)は最初はメッカではなく、エルサレムだった。それが、ムハンマドがメディナに移住した十六ヶ月後にメッカに変わる。アラーにとって東も西も同じという理由による。メッカの位置からは、エルサレムもカアバ神殿もほぼ同一方向だが、メディナからでは明かに方角が違う。これでユダヤ人と敵対することになる。


 敵はユダヤ教徒だけではない。多神教徒との戦いも激しさを増し、終末思想色の強かったクルアーンの内容も、戦利品は使徒のものだ、などと戦闘的になってくる。


 メッカ期では、しきりに啓典の民であるユダヤ教徒とキリスト教徒にアラーに従うことを呼びかけ、多神教徒には災いあれと呪う程度だったが、メディナ期ではユダヤ、キリスト教徒には関わるな、多神教徒は見つけ次第殺せと、敵愾心をエスカレートさせている。


 クルアーン第47章は、ヒジュラの直後の啓示と言われている。戦場では不信心者の首を切れ。アラーのために戦死したものは虚しくはならないなどと、当時の状況がかいま見える。

 そして、「信仰する者は、どうしてスーラ(章)が現されないのか、と言う」といった記述から、ムハンマドに啓示が下りて来ず、それが信者の間で問題になっていたことがわかる。メディナ期悔悟章でも、スーラが下るたびに信者は信仰が深まり、喜ぶとある。


 移住した途端に啓示が途絶えては信者の手前、格好がつかない。メッカにいた頃は天使がやってきて、たくさん啓示を授かりました。ところが、メディナという場所はアラーはあまりお好きじゃないみたいで、天使はやって来ませんなどと、いくら正直者でも異教徒との戦いに追われている身では、正直に言うわけにはいかない。


 どうして、困難な状況で啓示が下りないのか。同じアラビア半島のメディナに移った程度で、全能のアラーがムハンマドを見失うわけはない。ムハンマドはアラーに見放されたのか。

 このまま啓示が来なければ、人心はムハンマドを離れ、まだ弱小勢力だったイスラム共同体は崩壊し、ムハンマドと弟子たちは多神教徒によって皆殺しに遭う。悔悟章117節でも、苦難の期間に一部の信者が離心したことが記されている。


 ムハンマドはやむをえず、自ら啓示を創作した。もし、それが問題ならアラーはすぐに、彼のもとにおいでになり、叱りとばしてくださるはずである。

「芥子粒ほどの重さでも、岩の中や、天の上、地下であっても、アラーはそれを探し出される(31章ルクマーン)」はずだから、メッカからメディナに来ようとも、アラーはムハンマドの行動を逐一ご存じのはずである。


 最初にメッカで啓示を受けた頃と違い、ムハンマドはこれまで何度も啓示を受け、文字に残さず頭の中で絶えず反芻していたので、啓示のこつがつかめて創作が可能になっていた。

 といっても作者が異なれば、どうしても違いは出てしまう。ガブリエルからの啓示は、文盲のムハンマドが暗記する必要から、初期は文がごく短く、慣れてくると分量が増えた。メディナ期では、自分で作り出せばいいので、文章は長文になり、内容は法政的で政治的である。


 宗教的にはメッカ期からの追加要素があまり見られず、アラーを畏れよと執拗に繰り返されている。結婚や離婚、金の貸し借り、貞操、女性の服装など、ムハンマドの若い頃からの関心事である、金銭や風紀に関する規律が細かく指導される。

 ガブリエルから口止めされていた、イエスに関する秘密も公にしてしまった。ガブリエル本人が種を蒔いた、三位一体も堂々と批判する。


 戦列章では、ムハンマドを連想させる預言者アハマドの登場を、イエスが予言したとされる。部族連合章40節では、ムハンマドは諸預言者の封印、すなわち最後の預言者とされた。これもメディナ期の啓示なので、ムハンマドが最後の預言者というのは、ムハンマド自身がそう決めたということのようだ。


 雌牛章142節では、「どうして彼らは守っていたキブラ(礼拝の方向)を変えたのか」との愚か者の問いかけに、西も東もアラーのものだという答えになっていない返答がされる。

 キブラの理由が変わったのも、ムハンマドにとって、エルサレムよりもメッカのカアバ宮殿のほうが重要だったからだ。


 巡礼章では、人々にカアバ宮殿に巡礼するよう呼びかけよ、とますますアラビア色が強くなってしまう。大巡礼(ハッジ)は体力的経済的に余裕のあるイスラム教徒が、一生に一度は行う必要がある行事だが、一年のうち数日間と日程が決まっていて、毎年二百万ほどの巡礼者が訪れることでメッカは大混雑し、サウジアラビア政府は人数制限を行い、数年待ちが普通になっている。


 七十億を越える人類が全員ムスリムになったと仮定すると、毎年一億人が巡礼に訪れることになり、実現は不可能だ。人口の少なかった昔でも、遠方からメッカに訪れることは命がけだったはずだ。遠路は駱駝で来るよう呼びかけているが、メッカ巡礼は、アラビア半島で生涯をすごしたムハンマドの発想だろう。


 クルアーンで戦闘の重要性が強調されたせいもあって、イスラム共同体は勝利をおさめ、アラビア半島は彼らのものになる。戦争で夫を失った未亡人の保護の観点から、一夫多妻制が認められる。


 西ローマ帝国に大きなダメージを与えた気候変動による作物不足を、ペルシアとの交易で乗り切った東ローマ帝国。だが、東方教会は新勢力イスラムに圧倒されていく。

 そしてついに、イスラムはエルサレムを我がものとする。キリスト教徒は、これに対し立ち上がり、十字軍を結成し、イスラム教徒と戦うことになる。ガブリエルの作った宗教同士の戦いだ。エルサレムを陥落させた十字軍はユダヤ教徒、イスラム教徒、東方教会のキリスト教徒を虐殺した。


 ヒジュラ以降、ガブリエルは一体何をしていたのだろう。


 メディナは、メッカの北西五百キロに位置している。決して近い距離ではない。もし以前のように彼の他に天使がいたなら、ムハンマドの向かったメディナに同行させればいいが、ガブリエル一人では、一緒に逃げて下手に見失うより、メッカで待機していたほうが上策と判断したのだろう。

 強大な帝国を倒してきたガブリエルからすれば、アラビア半島の多神教徒などとるに足りない相手で、ムハンマドの保護など必要ないと考えたのだろう。


 ムハンマドのメディナ行きの状況も単なる逃亡ではなく、メディナでの調停を依頼されたことがきっかけだった。ムハンマドは調停を終えて、しばらくしたら戻ってくると、ガブリエルは踏んでいたのだろう。それに、イエスの宣教は一、二年だったが、ムハンマドの場合、最初の啓示から移住まで十二年も経っている。

 そのクライマックスといえる夜の旅では、最重要事項である礼拝と断食について指導した。もうこれといって、新しい啓示を与える必要はなかったと思われる。ガブリエルは、ムハンマドを追ってメディナに向かうことはなく、メッカで待ち続けた。あるいは、二人の天使に自分がメッカでしたことを告げに、ローマに行っていたのかもしれない。


 ムハンマド率いるイスラム共同体がメッカを陥落させたのは、ヒジュラから八年後のことだった。メッカ征服後もメディナに住み続け、二年後に亡くなる。この間にガブリエルがムハンマドに会ったのかどうかはわからないが、ムハンマドからすれば、何を告げられようとこの状況では後戻りできなかっただろう。クルアーンにおいて、ムハンマドを最後の預言者としてしまったので、もう人類に新たな啓示を授けることはできなくなった。


 メッカを征服した後、メディナに戻ったムハンマドは、亡くなる三ヶ月前、十万人の信者とともにメッカに巡礼をした。これは別れの巡礼と呼ばれる。そのとき下されたとされる最後の啓示が、食卓章第三節だと言われている。


「今日、我は汝らのために教えを完成し、汝らへの我の恩恵を完成し、汝らの教えとしてイスラームを認めた」

 これがムハンマドの創作なのか、ガブリエルの最後の言葉だったのかはわからない。もしガブリエルの啓示だとしたら、キリスト教徒のイエスへの個人崇拝を大目に見たように、ムハンマドによる教義の変更を許したのだろう。宣教の勢いにおいては、最後の預言者は大成功していたのだから。その最後の預言者への最後の啓示が、天使としての最後の活動となった。


 メッカ期に、創作と疑うなら自分で作ってみよという表現が何カ所か見られるのは、ムハンマドには文章を作る能力がないと、ガブリエルが侮っていた証拠だ。エゼキエルやダニエルに示したような黙示を使うことがなかったのも、ムハンマドに黙示を解く能力がないと思っていたからだ。

 まさか自分で、クルアーンを真似て啓示を作り出すなどとは、思いもよらなかったはずだ。しかし、後で後悔しても手遅れだった。


 当時のアラビア半島にムハンマドがいようといまいと、イスラム教は誕生した。イエスがいなくても、キリスト教が誕生するのと同じだ。別の人間が預言者になっただけで、預言者が誰であろうと、基本部分は変わらない。しかし、グレゴリウス一世が教皇になってさえいなければ、イスラム教は誕生していなかったかもしれない。


 天使たちはイエスへの個人崇拝を大目に見ながら、ときおり啓示を下して方向を正していったのではないだろうか。皮肉な見方をすれば、大教皇グレゴリウス一世こそイスラム教の生みの親である。


 イスラム教は、キリスト教同様に驚異的な勢いで広まっていった。かつて多くの聖人を出した北アフリカは、イスラム教のものとなり、キリスト教徒は、地中海を自由に航海できなくなった。一方、キリスト教も北欧などヨーロッパの奥地に進出した。


 もし、ムハンマドが自分で啓示を創らなかったら、世界史はどうなっていただろう。

 ガブリエルの軍事協力により、分裂して弱り切った第四の獣ローマ帝国の版図は、イスラムのものとなっただろう。それだけに留まらず、東方にも拡大し、やがてはインド、中国を飲み込み、全世界はイスラムのもとに統一された。


 ガブリエルの下したメッカ期の啓示では、啓典の民ユダヤ教徒やキリスト教徒にも改宗を求めていたが、ムハンマドが創作したメディナ期の啓示内容を知ったガブリエルは、キリスト教の存続を認めた。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せから、多神教徒は見つけ次第殺せに教義が変わっては、改宗を迫るわけにはいかない。


 ムハンマドが教義を変更したおかげで、ガブリエルは第五の獣と第四の獣の共存を認め、キリスト教世界は生き残ることができた。イスラム教の開祖とされるムハンマドこそ、キリスト教世界にとっての大恩人、まさに救世主である。


 ナザレのイエスがいようといまいと、キリスト教はローマの国教になった。だが、ムハンマドがいなければ、キリスト教はミトラ教と同じ運命を辿り、歴史の中に消えていった。救世主劇の主役を演じたイエスではなく、キリスト教を絶滅の危機から救ったムハンマドがキリストなのだ。


「ムハンマドがキブラを変えていなければ、世界はイスラム教のものとなったであろう」


 それ以外にも、救世主ムハンマドはキリスト教に大きな影響を与えた。イスラム教徒に批判され、東方教会は聖画をはずすなどして、偶像崇拝をやめた。ローマ教会は東方教会と決裂し、その後、キリスト教は、教義の解釈をめぐって様々な宗派に別れていった。ヨーロッパは、教会が支配する中世暗黒時代へ突入した。


 十字軍運動は、キリストを殺したユダヤ人への反感を呼び起こし、反ユダヤ主義へとつながっていった。

 十三世紀。モンゴル世界帝国の勢いはすさまじく、ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍は壊滅した。このままではヨーロッパはモンゴルに飲み込まれる。だが、大ハーンの急死によってヨーロッパは救われた。


 十字軍やモンゴル帝国の影響で交易が盛んになり、人の往来がさかんになれば未知の病原菌も入ってくる。十四世紀、ヨーロッパはペスト流行による大量死で、それまでの社会制度が維持不能になった。人が集まる教会関係者の死は、特に多かった。人々は神に救いを求めたが、天使による啓示はなかった。ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだというデマが起こり、虐殺が起きた。


 中世暗黒時代、教皇の権威は落ちた。特にヨハネス二十三世はひどかった。

 十五世紀、中世が終わり、ルネサンス運動が起こった。聖書からの逸脱が批判され、十六世紀前半、ルターによる宗教改革が起こる。マルチン・ルターはきわめて厳格な修道士であった。法律家を目指しながらも、死の恐怖から修道士の道を選んだ。

 苦行を重ねても、悩みは解決されず、聖書の研究に没頭した。ルターは教会が売り出していた免罪符に抗議する。ローマ教会は彼に、主張を取り消さなければ破門すると通知した。


 ルターは自説を曲げず、さらに煉獄の存在を否定。異端者となった彼は本格的に教会組織を批判していく。火あぶりにするとの脅しを受けても、司祭はただの職種とし、聖俗二元論を否定。その後、プロテスタント運動は広がっていき、ルターを上回る「聖書に記されていることだけを行う」改革派教会が登場した。


 改革派教会では、聖像・聖画などへの偶像崇拝を排除。再洗礼派にいたっては、国家と教会が結びつくのを否定。無抵抗平和主義を掲げ兵役拒否。イングランドでも宗教改革は起こり、ローマ教皇会からイギリス国教会が独立した。


 プロテスタント運動は、よいことばかりではない。再洗礼派の主張どおり、本来は平和主義であったキリスト教の内部で、カトリックとプロテスタントの対立は激しさを増し、実際の戦争がドイツとフランスで勃発したのだ。プロテスタントに対する弾圧や虐殺は絶えなかった。


 イスラム世界のほうも、当初はカリフによる統治が行われていたが、やがて武力による王朝が起こり、カリフは宗教分野の権威にとどまるようになる。

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