2-3 そのとき御使いは自ら名を明かす(4)
新バビロニアの滅亡で帰還を許されたユダヤ人に、天使は神殿を再建するよう啓示を下す。預言者はハガイとゼカリヤだ。ゼルバベルらの尽力により、啓示からほどなくして、神殿は再建された。これを第二神殿と呼ぶ。
イスラエル人はそれでアイデンティティを保ち、彼らの中から新たなる預言者、すなわち救世主が出現し、広大な第四の獣を舞台に宣教を行うプランが進んでいた。
宣教プランの変更だけでなく、肝心の教義内容のほうも、大幅に刷新された。
どんな企業にとっても、マーケットは広いほうがいいに決まっている。イスラエル人かそうでないかに、異常にこだわる初代天使長テラはいなくなった。そもそも、イスラエル人とそうでない人間の違いはどこにあるのだ。アブラハムの長男の子孫やイサクの長男の子孫は、イスラエル人ではない。彼らは滅ぼして、イスラエルだけ守るのはおかしくないか。
人類は全て神が作ったアダムの子孫ではないか。イスラエルの敵になっている諸国の民も、その先祖を辿ればイスラエル人のひとりくらいいるはずだ。父親や母親がイスラエル人の子供でも、移住して異郷に住むうちに、その国の人間になってしまうことだってある。主の他に神はいないのに、神がイスラエル人だけのものというのはおかしいではないか。
「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である(マラキ1:5)」
周辺諸族との婚姻が普通に行われ、定義が曖昧になったイスラエル人のための宗教よりも、異邦人も含めた全人類の宗教を作り、それを広めることに、天使集団は方向転換していったのだろう。
そしてもうひとつ。ガブリエルは、千年以上に渡るイスラエルや周辺民族の歴史を見てきて、ある法則に気づいた。それは、自分で蒔いた種は自分で刈ることになるという法則だ。
栄えるのも、衰えるのも、イスラエル人が自分で蒔いた種を刈っているだけではないか。自分たちで原因を作っておきながら、結果を神に左右してもらおうという甘い考えにすがってもらいたくはない。
「あなたは多くの国民をかすめたゆえ、そのもろもろの民の残れる者は皆あなたをかすめる(ハバクク2:8)」
「つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない(黙示録13:10)」
攻めれば攻められる。奪えば奪われる。勢いが強いとき、他国を攻めるという種を蒔くから、勢いが衰えると攻められるという実を刈りとる結果になる。個人や国家の運命にも、物理学と同様に、作用反作用の法則が働いている。
でも、いくら過去の因縁といわれても、こちらは悪くないのに向こうから攻めてくる。そうなるのは、愛が足りないからだ。与えよ、さらば与えられん。愛を与えれば、愛を与えられる。
生活に不便をきたす律法も問題だ。シナイ山でのイベントのために、張り切って作ったものの、後から冷静に考えれば必要ないものが多い。これらの律法を廃止できないだろうか。
こうしてガブリエルの指導のもと、律法主義とユダヤ選民思想は崩れ、人類救済へ向けた新たな契約が動き出した。キリスト教の誕生だ。
ちょっと待った。天使長ミカエルをさしおいて、何故、ガブリエルなのだ。
新約聖書の内容から、イエスの誕生時にはミカエルはいなくなっていたと推測される。
ミカエルは、以前から自分がただのお飾りになっていたことに気づいていたのかもしれない。計画を立てるのはすべてガブリエル。自分はそれを承認するだけの存在。日本企業でいうと判子押すだけの管理職。
ガブリエルは頭がきれ、預言者に天の国や神殿を見せることができるほど幻術に長けている。ガブリエルは自分に頼り切っているが、自分がいなければ、より一層活躍できるだろう。ここで身を引くことこそ、主の御心にかなうはず。前任者と違い、自分は一度も主から啓示を授からない。ガブリエルが天使長ならば、主は啓示を下されるに違いない。
天使長ミカエルは自ら姿を消した。あるいは、生への執着が薄れて、自然消滅したのかもしれない。つまり、天使長は成仏したのだ。
ミカエルは消えたが、予定通り、地中海周辺を支配する世界帝国ローマは出現した。そこで救世主イエスは、ガブリエルのプランに従い、誕生した。
ローマにキリスト教会ができると、もはやイスラエル民族を残す意味もなくなり、紀元七十年エルサレムは陥落した。二世紀に一時的に復活したが、すぐにローマに滅ぼされ、イスラエル人は離散した。
捕囚がとけて、一度は神殿が再建されたが、主がエレミヤに約束したようにはイスラエルは栄光を取り戻さなかった。十戒を刻んだ石板が納められたイスラエルの宝、契約の箱は、サムエルの時代にペリシテ人に奪われたが、主の力で取り戻された。それが、神殿破壊以降行方がわからず、失われた聖櫃となった。
主は約束を破った。具体的にいうと、エレミヤからダニエルの時代にかけて、天使集団で方針転換があったということだ。
「しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる(ゼカリヤ8:11)」
ゼカリヤは神殿再建の頃、BC518~520年にかけて預言者として活躍した。ゼカリヤ書の前半は八つの幻で、その内容はイスラエルが諸国との闘争をやめ、平和な時代に移行することを思わせる。
後半は言葉による啓示で、イスラエルを攻める諸国が主によって倒されるという前半とは異なる内容である。今日では、八章までの前半がゼカリヤが実際に見聞きした啓示で、後半の九章以降は、その内容と文体から第三者の手によるものとされる説が有力である。
前半の啓示は、オリーブの木や色違いの馬など八つの幻が登場し、謎解きを迫るという恒例のスタイルなので、啓示を下した天使はガブリエルに違いない。
第三の幻では、ダニエルのときと同様に御使いが二人登場する。名前は記されていないがミカエルとガブリエルだろう。最初の御使いが「エルサレムを測って、その広さと、長さを見ようとするのです(ゼカ2:2)」と言って出ていくと、別の御使いが「エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう(ゼカ2:4)」と言う。エルサレム神殿再建をほのめかす寸劇だ。
第四と第五の幻も神殿関係のようだ。第四の幻では大祭司ヨシュアを称え、第五の幻は、二本のオリーブの木の枝先から油が注がれ、
「これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です(ゼカ4:14)」
とわかりやすい説明がされ、途中の言葉でゼルバベルに言及していることから、神殿再建の功労者ゼルバベルとヨシュアを油注がれた人とたたえているのだ。
神殿再建後、主の預言はめっきり減る。救世主の登場が近いので、中途半端な預言者は必要ないのだろう。
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