第14話 アチェート バルサミコ

 だいぶ早いんだけど、昼食を済ませて社に戻ることにした。最初、二社回るよと俺から説明を受けていた藻原さんは、手帳を見て首を傾げてる。


「なんで、もう帰るの?」


 俺はその口調を訂正しなかった。その代わり、返事もしなかった。


「あ……ごめん。じゃなくて、ごめんなさい」


 俺は、黙って近くの商店の窓ガラスを指差した。


「え?」

「そこに自分の顔を写してみて。どんな顔に見える?」

「あ……」

「その顔じゃ営業は無理だよ」

「で、でも」

「笑える? 写ってる自分に向かって、笑える?」


 悔しそうに唇を噛んだ藻原さんは、それでもゆっくり首を振った。


「そういうことさ。まあ、しゃあない。戻って立て直そう」


 ふうっ。一週間という期限が、俺にとってもずっしり重くのしかかりそうだなあ。


◇ ◇ ◇


 帰社してすぐ、藻原さんの体調が今いちなので早退させますと営業部長の海老野さんに連絡を入れた。課長ポストがまだ空きのままになってるから、しょうがない。部長には極力タッチしたくないんだけどね。話がそこまで行くと、専務に筒抜けになってしまうから。でも、今はそんなことを言ってられない。精神的に仕事に向き合える状態じゃない彼女を課室に置いておくのは、いかに彼女が周囲を見ないって言っても拷問だよ。


 幸いみんな外回りで出払っていて、主任の浜田さん以外は、俺と藻原さんだけの状況を作れた。浜田さんは、いわゆる外れ主任、お飾り主任で、部屋に塩漬けになってる。活気のあるうちの部屋では唯一のブラックホールだ。それは浜田さん本人もよく分かってて、何があっても我関せずだ。電話番するお地蔵さまって感じ。それもなんだかなあと思うけどね。


「体調不良で午後休ってことにしたから、その半日で立て直して。明日は、今日の続きをやる。いい?」

「は……い」


 よろよろっと立ち上がった藻原さんは、目を擦りながら部屋を出て行った。


「こらあ大変だあ」


 やっとタメ口矯正のきっかけが掴めたと思ったら、今度は情緒不安定か。うーん。机の上に突っ伏して、悶絶してた俺だけど。さっきまでぴんと来なかったことが、いつの間にか繋がっていた。手帳を開いて、そこに書き込んでみる。


『口調は乱暴だけど、そこに感情が混ざらない』

『滅多に感情が出て来ない彼女が、強い苛立ちや不快感を示す瞬間がある』

『彼女の感情の変化は、プラスもマイナスも短時間では収束しない』

『プラスはイルマーレでのレクチャーで、マイナスは専務の話で強く出た』


 四つのセンテンスを交互に指でタップする。


 そうか。間違いなく、彼女にとってのネガティブファクターは親父さんである専務だ。今日の黒田さんとの会話でも、そこから急におかしくなった。藻原さんがいつも父親から殴られるような被支配的な位置にいるってことじゃないと思う。それなら、どこかにおどおど感が出るだろう。でも藻原さんには、恐ろしいくらいそういう感性がない。俺や羽田さんが全力で脅かしても、せいぜいあの程度だからな。恐怖センサーが極限まで鈍磨してるんじゃないかって思っちまう。


 つまり。親父さんである専務は、娘をコントロール出来ていない。力で抑え込めるはずの娘がまるっきり野放しなんだ。そこに、ものすごく歪みがある。もし、親子関係が徹底的にこじれているなら、専務は成人している娘を放り出すだろう。俺の言うことを聞けないならとっとと出てけってね。でも実際は逆なんだよ。周囲がなんだかなあと思うくらい、なりふり構わず娘のシチュエーションをお膳立てしてるんだ。


 俺んちみたいなシンプルな親子関係じゃないってこと。それが、藻原さんの示す奇妙な姿勢に全部反映されてる。


「そういうことなんだろなあ」


 そこらへんは、予感としては最初からあったんだ。でも、それが予感や予測のままだと、俺の方で対応が出来ないんだよ。タメ口だけじゃなくて、不機嫌スイッチまで暴発するようじゃ、正直俺にはもう手に負えない。


「うーん」


 結局、また机の上で悶絶するはめになってしまった。どうすべ。うーうー言いながらのたくっていたら、課室のドアがこそっと開いた。誰だろ?


「魚地くん、いるかい?」


 げえっ!? せ、専務じゃん! 思わず、でかい声で返事してしまう。


「は、はいいいいっ!」

「ちょっと……いいかな」


 いいも何もない。社の幹部の呼び出しをぶっちする根性は、小市民の俺にはないよ。細貝課長に嫌味ぶちかますのだって、どきどきものだったんだから。うう。


 取るものも取り敢えず、俺は全速力で課室の外に出た。


「娘が君にひどく迷惑をかけているようで。申し訳ない」


 俺がぺこぺこするならともかく、専務に頭を下げられると、俺にはリアクションのしようがないんすけど。


「いえ。あの、お嬢さんなら今日は体調が悪くて早退されましたけど」

「ああ、分かってる。君の配慮だろ?」


 う、やっぱり見抜かれてたか。だから、部長を通しての連絡はしたくなかったんだよ。とほほ。しゃあない。正直に言おう。


「あの、専務。現状では、とても怖くて客先に連れて行けないんです」

「言葉遣いだろ?」

「それだけじゃないです」

「え?」


 専務が、驚いたように顔を上げた。


「今日は、黒田さんのところに挨拶回りに行ったんですけど、途中から急に不機嫌になって。少なくとも、お客さんの前では感情をコントロールしてもらわないと、どうにも……」

「本当か?」

「ええ」

「それは、初めて聞いた」


 えっ!? 今度は、俺の方がぶっ飛んだ。


「そうなんですか?」

「娘は能面だよ。感情が出ない」


 そうだ。俺も最初からずーっとそう感じてる。感情が外から見えないから、言葉遣いが乱暴なことと合わせて人に不快感を与えてる、と。だから俺らが彼女から受ける印象は、態度が悪い以前に薄気味悪い、だ。でも、今日は違った。専務の話が出た途端に急におかしくなった。明らかに能面が崩れてる。まるで、黒蜜だと思って舐めたものがバルサミコ酢だったみたいな……そんな驚きと嫌悪の表情。


 考え込んだ俺を見て、専務が探りを入れてきた。


「何か思い当たるのかい?」


 どうしようか迷った。でも、さっき俺が思考を整理したみたいに、彼女の言動と感情表現を捻じ曲げているトリガーは、どう考えても父親である専務なんだよ。俺は、そこを避けて通れない気がしたんだ。専務にものすごく失礼なことを言ってしまうかもしれない。でも、彼女の今後をまじめに考えるなら、俺はどうしてもそこに突っ込まないといけないんだろう。


 俺は、覚悟を決めた。


「すいません、専務。正直に言っていいですか?」

「……。かまわんよ」

「娘さんには、営業……いや営業だけじゃなくて、一般の会社での仕事全般、こなすのは無理だと思います」


 専務が俺の失礼な物言いに立腹するのは、最初から覚悟していた。でも、専務の反応は俺の予想と違った。


「やっぱりそうか」


 ぽつりとそうつぶやいたきり、俯いてしまった。


 うーん。確かに入社はコネかもしれないけど、専務の一方的なごり押しってことじゃなさそうだなあ。そこらへんの経緯が分からないってことが、対応の難しさに直結しちゃってるんだ。


「誤解なさらないでくださいね。僕はお嬢さんの性格や能力を詳しく知りませんので、感情を交えないで話をしているつもりです。でもぺーぺーの僕でも、今のお嬢さんのコミュニケーション能力で適応出来るポジションというのが思いつかないんです」

「ああ」

「不思議なのは、外からの指摘や指導を頑固なまでに受け入れないのに、それが態度に出ないこと。細貝課長は『天然』という言い方をされてましたけど、僕の印象は違います」

「なんだい?」

「どこかに鍵がかかってる、です」

「鍵、か」

「仕事に対する意欲はあるんですよ。少なくとも」

「ほう?」


 専務が、意外そうな表情を見せた。


「小菜にか?」

「ええ。今日、黒田さんのところへうかがった時も、僕が指示する前にちゃんと会話のメモを取っていましたし、黒田さんの次に行く予定だった峯岸さんのところの話も積極的に聞く姿勢でした」

「ふうん……」


 違和感ばりばり。専務には、娘がまじめに仕事をするはずがないと思い込んでいる節がある。だから、娘をここに放り込んだ? ここまでは面倒見たから、あとは自分でやれってか? でも、それなら娘を完全に放置するだろう。わざわざ俺に探りなんか入れてこないよ。総務から干された娘をうちの課にねじ込んでるんだから、放置じゃない。むしろ過干渉だ。それなのに、娘のポテンシャルを恐ろしく低く見積もってる。


 ううー。わけ分からんわ。いや、そのわけをこれからほじくり出さないと、先がない。思い切って突っ込もう。


「で、ですね」

「ああ」

「僕は、お嬢さんの心のどこかに変な蓋があるように見えるんです」


 それまでは穏やかに受け答えしていた専務の表情が、急に硬く強張った。それは怒りと言うよりも、むしろ狼狽。どうしよう。でも、俺は覚悟を決めたんだ。どんどん行こう。


「お嬢さん自身は仕事に正面から向き合う意志、そしてそのために同僚や上司とコミュニケートする意志はあるんです」

「そうか?」

「あります。少なくとも僕とのやり取りでは、仕事が嫌いだとか、誰とも話したくないとか、そういう態度や意思表示はないですから」

「ふうん」

「でもね、言葉遣いや態度の改善がちっとも進まない。いくら教えても、すぐ原点に戻ってしまう。外からの働きかけに、どこかで蓋をしてしまうんです。それは彼女が強情だからじゃない。妙ちきりんな蓋のせいです」

「む……」


 専務の顔がひどく歪んだ。視線を床に落とし、背を丸め、ひどく意気消沈してる。


「そして。申し訳ないんですけど、その蓋をするアクションの引き金が専務のように思えるんです」


 それは、俺が首をかけて口に出したこと。いつもの俺なら、絶対にそこまでは突っ込まない。でも、俺は最初から『出来ない』っていうのは嫌なんだよ! 変な蓋さえ外せれば、きっと事態が好転するはず。いや、それをどかさない限り藻原さんの未来はない。どこにもない!


 専務の逆鱗に触れたら、俺は終わりだ。でも、娘さんも同時に終わりになる。だって、今の社内では俺だけが彼女の理解者だからね。専務の権限がどんなに強くても、それだけで藻原さんを生存させることは出来ない。最初に課長が言ったように、藻原さんのヘマで営業が混乱したら、それを口実に彼女をお払い箱に出来るんだからさ。


 俺は口をつぐんで、専務のリアクションをじっと待った。





(アチェート・バルサミコは、バルサミコ酢のこと。濃縮されたブドウ果汁を樽の中で長期熟成させて作られる)

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