第44話
悲鳴の暇もなく、紙切れのように飛ばされ、崩れた入り口の近くに背中を打ち付ける。瓦礫の山は平坦な壁よりも性質が悪く、突き出た石が身体を貫くような衝撃を与えてきた。
内蔵と頭を同時に揺さぶられ、一瞬のうちに平衡感覚を失って歪んだ視界が、さらに白濁していくのを自覚させられる。
その場にへたり込んだのは、たまたま膝を曲げた状態で足が地面に付き、背中を残骸に打ち付けていたために他ならない。
ジンはその場で一瞬か――あるいはそれ以上の時間、意識を失った。
しかしひょっとすれば、それは幸運だったかもしれない。少なくとも、そうした感覚を得られるほどには、身体が健在だという証なのだから。
ジンは、ハッと目を開けた。まだ完全には立ち直っていない揺れる視界と、靄が掛かり、異様な睡魔に纏わり付かれた、それでいて痛みだけは明確に伝えてくる脳に苛まれるの中で、ジンはそれでも相手の姿をはっきりと認識した。
腕を振り被り、獰猛な爪で胴体を貫こうとしているのだろう。
(やばい……死ぬかも)
咄嗟に飛び退こうとするが、できなかった。金縛りにあった夜のように、身体がろくに動かない。思わずこのまま目を閉じ、安らかな睡魔に身を任せてしまいと思ってしまう。
一瞬のうち、頭の中に流れたのは過去の映像だった。
自分が生まれ――海に近すぎるため極端に土地の面積が狭いような人間の町に生まれてから、辛うじて行われる別の僻地に潜む人間社会との交易によって伝わる話でしか、外界を知ることのできなかった日々の暮らしである。
さらにはそこで聞かされた憎々しい獣人との因縁や軋轢と、その元凶たる存在の話。そこから野望を抱き、人々に嘲られながらも交易に潜み、獣人にまつわる話を集め、とうとうその忌まわしい外界へと足を踏み入れた時のこと。
盗賊として、名を馳せるでも馳せないでもなく、小規模な食い扶持を稼ぎ出しながら、大秘宝に繋がる手がかりを求め……珍妙な連中に巻き込まれ、結託していくまでのこと。
そして獣人盗賊団を名乗り始めてから、ようやく信頼できる大秘宝の在り処の情報を見つけ、その遺跡へと侵入してからのこと――
それらが全て鮮明に、一瞬にも関わらず、まるで時間を逆行し、再び同じ時を繰り返してきたかのように、ジンの目にはっきりと映ったのだ。
もっとも最後に映ったのはやはり、ほんの一瞬前と同じ光景である。
自分を見下ろす怪物が体毛を逆立て、口から気味の悪い体液を撒き散らしながら、異様に膨れた腕を突き下ろして、ほんの人間である自分を全力で殺そうとする光景だ。
ジンは胸中で、叫んだ。
(くそったれが! ここで死ぬなら、もっと前に――例えばあの電流だとか、竜巻だとか、水責めだとか植物だとか石像だとかで死んでるってんだ!)
頭は奇妙なほど鮮明に返っていた。
そして身体は相変わらずほとんど動きそうもなかったが、それでも寝返りを打つような程度には言うことを聞くくらい、素直になっていたらしい。
強引に身体をねじると、皮膚が浅く裂かれるおぞましい感触を味わいながら、辛うじてそこから脱していた。石が破壊される衝撃が響き、飛び散る砕片と共に床へ転がる。
それはやはり全身に鈍痛を響かせるものだったが――反対にそうした痛みのおかげで、身体が再び動き始めたらしい。歪んだ視界が正しく水平を保ち、脳からはもはや睡魔も靄もなく、自分の全身がまだ動くことを示す痛みを伝えてくる。
それによって、薙ぎ飛ばされたあの時は、自分が非力であったおかげで怪物に近い位置までしか逃げられておらず、怪物が目測を誤って直撃させられなかったのだろうと推測できた。でなければ自分は今頃、壁に貼り付くオブジェか染みになっていたはずだ。
(……なんて、考えてる場合じゃねえか!)
まだ多少は息が詰まっている喉を喘がせながら、かぶりを振って思考を振りほどく。
悠長に推理している時間はなかった。禍は瓦礫の中に突っ込んだ腕を引き抜こうとしている。ジンはその間に、出入り口の隙間から部屋を抜け出した。
ふらつく足をどうにか立ち直らせながら中央の部屋を抜け、右へと向かう。
「あ、親分! 無事だったんすね!」
「こっちはもうとっくに準備できてるわよ!」
するとその入り口に辿り着いた途端、部下たちの声が聞こえてきた。その姿を探し、自分が目論んだ通りの場所――入り口に近い石柱の裏にいるのを見つける。
ジンは、しかしそこへ駆け寄るのではなく、その場で振り返った。
そして頭だけは鮮明な、しかし吐き気と激痛に喘ぐ身体に鞭を打ち、辛うじて叫ぶ。
「おら、こっちだノーコン野郎! てめえが人間ひとり捕まえられねえような愚鈍じゃねえってんなら、やってみやがれ!」
やはり、言葉が通じたかどうかはわからない。
しかしジンの視界の中で、禍は瓦礫を薙ぎ払ってその姿を現した。
その瞬間、ジンはすぐさま右の部屋へと逃げ込んだ。それを追いかけて、すさまじい勢いで巨体が迫ってくるのを感じながら――
それが強烈な体当たりによって、左の部屋でやってみせたのと同じように、あるいはそれ以上に壁や天井もろとも扉を破壊した瞬間。その衝撃でついでに吹っ飛ばされ、ごろごろと部下たちのもとまで転がったジンは、しかし逆さまになりながらもまず叫んだ。
「今だ、キュル! やってやれ!」
「了解っす!」
すぅっと息を吸い、ロバの獣人が大きく腕を引く。
それは一度だけ見たし、ほんの少し前に見た姿でもある。彼と出会ったあの時、古木を殴り倒したのと同じ――ただし今、目の前にあるのは古木ではなく、ひび割れた石柱だが。
「必殺――すごいがんばって殴るパーンチ!」
ずどむっ!
爆音に、ジンは脳が揺れるような錯覚を抱いた。
しかしそれも一瞬のこと。視界が再び正常さを取り戻すと、そこでは停止したような、キュルが腕を突き出したままの格好から……やがて、ばぎばぎという石の砕ける音を立てさせながら、殴られた石柱が根元から折れ、倒れ始めた。
それはそのままゆっくりと、しかし凶悪な加速を持ち……禍の頭上に降り注がれる。
「ッガアアアアアアア!」
禍の、悲鳴のような雄叫び。それを――ずどんっと殴り付けたのと同じ音がかき消した。
次いで、静寂に返る。
「…………」
三人もまた、黙していた。
それはしばし……土煙が自然と消えていくまで続いただろう。そして惨状が完全に見えるようになると、三人は顔を見合わせてから、恐る恐るとその現場へ歩み寄った。
崩れた壁の残骸と、その上に折り重なるように落ちた石柱。そしてそれら全てに押し潰され、半ば姿を隠しながらも、動かなくなった怪物の巨体。
三人が無言であれやこれやと揉め合い、最終的に軽くつついてみたのは、キュルである。しかしそれでも、禍はぴくりとも動きを見せなかった。それを確認して――
「た、倒したぞー!」
「やったっすよー!」
「な……なんとか、なったわね」
思い思いに、感無量の声を上げた。
ミネットは息をついてその場にへたり込み、キュルは大はしゃぎで跳ね回る。ジンも疲労困憊ながら、それに付き合って飛び跳ねた。そして誰からともなく、歓喜に抱き合う。
「やったな……俺たち」
「なんだかものすごく大きなことを成し遂げた気持ちっすよ!」
「これだけで、ここに来た価値はあったわね……死ぬかと思ったけど」
「って、これで満足して帰るわけじゃないぞ。こいつを倒したってことは、ゆっくりとここの探索ができるんだからな」
「あ、そうっすよ! これで今度こそお宝発見っす!」
「まあいいわ。今はお宝があってもなくても許せる気がするし」
疲労の中でも口々に明るく言い合い、笑い合う。
――しかしまさか、その笑い声の反響が原因になったわけではないだろうが。
三人はそうした声の中に別のものが混じるのを聞いて、不意に言葉を止めたのである。
室内がまた、静寂とする。しかしそこに、勝手に響く音が確かにあった。
みし……という、軋む音だ。
さらにその音の根源は、調べるまでもなかった。
調べるまでもなく、三人の足元から聞こえていたのである。
「…………」
沈黙する。笑い合った顔のまま、しかしそれを引きつらせ、冷や汗を流して。
しかしそれで音が止まってくれるはずもなかった。
むしろ次第に多く、早く、激しくなりながら音は大きくなっていき――
やがてそれは、床の崩落という形で完成した。
「なんでだああああああああ!?」
ジンの叫びは、残された上階に空しく響いただけだった。
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