第24話

 子供のころ、俺は聖母マリアの像と母親が俺や弟、妹が重い病気をした時に祈りをささげている神の像を壊してしまったことがある。

 当時はまだ小学生で、幼く、宗教というものをよく理解していなかったし、母親がキリスト教というものに属していて、俺たちのためによくお祈りをしていたということしか分かっていなかった。そんな俺でも分かっていたのは、純粋な日本人である父親の言う「お天道様は全てを見ている」という言葉と、母親の「神様は良い事をしても、悪い事をしても見ている」という事ぐらいだ。

 あの時の自分がどんな事をしたのか、引きこもってから様々な事を忘れてしまった今でも良く覚えている。心臓がバクバクと早く鼓動し、脂汗を流しながら壊してしまったそれらを手にし、その場でお漏らしをしながら薄らと涙を浮かべていた。そしてすぐに両親が居るリビングへと向かって、壊した事を言って思いっきり泣いたのだった。

 それでも、両親は許してくれた。そのときの表情は覚えていないが、母親に抱きしめられた事も覚えているし、今でも接着剤で繋ぎ合わせられた二つの偶像が家に存在する。

 別に両親から宗教的な教育や教えを施されたわけでもなく、当時の自分には読めないスペイン語の聖書を母親が所有していたくらいで、別段神様だとかそういうのは意識して生きては居ない。それでも、高校生になって帰国子女の学校で聖書の授業があり、倫理の授業があり、現代社会などの授業を受けてから――なんとなくだが――やはり両親の言う「神様やお天道様は見ている」というのは、自分にとって良い方向へと作用しているのだなと思うようにはなった。

 それでも歴史を学べばオウム真理教やかつての仏教やキリスト教などで起きた事件を知り、薬にも毒にもなるのだなと思えば自然と”宗教という名の道徳”として自分に定着してきた。出来る範囲で良い事をしようとしてきたし、悪いことを考えることは有っても次の瞬間には自制出来ていたのだから。

 宗教は、薬にも毒にもなる。


「きゃあああぁぁっ!?」

「アニエスさん! なにをしているのですか!!!」


 辿り着いた教会で、俺が真っ先に目にしたのは大きな木扉の前で躓く場所があるのかどうか疑いたくなるような所で転んでいる、一人のシスターの姿だった。

 彼女は地面にベタシと叩き付けられるように倒れこみ、バケツが教会へと訪れてきた若い青年の頭にスッポリ被さった。中身の水もぶちまけられ、その青年は最大の被害者となり、ほかにも門を通って入ろうとしていたほかの礼拝者ですら立ち止まってしまったくらいである。

 そして、青年の傍を歩いていた俺は第二の被害者となった。アリアとカティアは背嚢を背負った影に居たからまったくの被害なしで助かり、汚臭に一瞬むせ返ってしまった。

 宗教って、なんだっけ? 本気で悩みたくなるような状況に思考が真っ白になり、何か悪いことをしたかなと立ち止まって地面を見つめることしか出来なかった。

 アニエスと呼ばれたシスターは地面に倒れこんだまま「ふ、ふええぇぇ……」と泣き出すし、叱責を飛ばしたシスターさん仕方なし二がスカートを少しばかり持ち上げて小走りでこちらまでやってくる始末だ。


「あぁ、申し訳ありません……」

「い、いえ。僕こそぼうっとしていたので――」

「そちらの方もすみません」

「あの、えっと……大丈夫です」


 バケツを被っていた最大の被害者が自分にも非があると言ったので、ここで変なことを言って事を荒立てたりするのも馬鹿らしかったので、皮肉を言うでも嘆くでもなく右にならって大丈夫ということしか出来なかった。

 バケツを被っていた青年は空のバケツをシスターに渡すと「着替えてまた出直してきます」と帰っていってしまった。なんという紳士か、俺にはそこまで純粋無垢にはなれない。帰っていく彼の背中を眺め、それから上半身を傾けてキョトリとしているカティアと目線があった所で、ようやく我に帰ることが出来た。


「大丈夫ですか?」

「あ、や。俺は良いけど、二人は大丈夫? かかってない?」

「私は大丈夫です」

「貴方が盾になってくれたおかげで被害は無いわね」

「そっか、良かった」


 最悪カティアにかかった場合は何とか機嫌を直してもらうか、急ぎ新しい服を入手しにいったりして対処するにしても、アリアという”公爵家の娘に”汚水をぶっ掛けたなんて事になったら大変だった。少なくとも学園や生徒が静まり返っている状態だとしても、衛兵やら幾人かの生徒には見られるだろう。そんな事になったら噂になるだろうし、責任問題や騒ぎにまでなりかねない。

 俺だけなら笑われるだけで済むだろう。貴族の末席とはいえ、成り上がりであることや日にちが浅いことから騒ぎにならないだろうから。

 しっかし――


「何してんだ、アーニャ」

「あううぅぅ……」


 アニエスと呼ばれた彼女は、いくらか身なりが変わっているとは言え、アーニャに相違なさそうだった。天使のような羽はなく、彼の世で会っている時とは違って僅かな露出すら無くなり、服に着られているかのようなダボダボさで強かに打ちつけた顔面をあげた。

 当然、カティアは面識があるようだが黙っている。それでも近づいてしゃがんでつついているあたり記憶にはあるのだろう。そしてつつかれているうちにアーニャ……アニエスは涙を浮かべ、ピーピー泣き出してしまった。


「だから貴方には大人しくしている様に言ったじゃありませんか。怪我は?」

「うぅ、あ――ありまぜん……」

「では立ち上がるように。それと自分が迷惑をかけたこの方の面倒を見て差し上げなさい」

「はぁい……」


 羽がないと重心が変わり、行動しにくくなるのだろうか? そう考えてから、そういえば胸が大きな女性は走るときは上下にゆっさゆっさと揺れて痛かったり邪魔だったりするという話を思い出し、更にはハイポート走の時は前傾姿勢になり易かったかなと自分の経験から連想した。

 ――となると、普段からあの羽はある程度の重量として重心を変えていたのかもしれない。だから歩くときに力の入り方や歩き方に変化があって、転んでしまったのだろう。あるいは天界での激務によって疲弊していたかだが。

 ゆっくりと起き上がった彼女はヨロヨロとこちらに来て、俺の両手を掴むと涙を流した。


「貴方ざまぁ~、やっど……やって来てくれたんでずねぇ~……」

「あぁ、えっと……。どれだけ待ってた感じで?」

「ずっとでずぅ~……」


 あかん、会話になってない。けれども彼女がもしずっとというのなら、最悪でも最後に会ってからずっと待っていたと言う事にもなるだろうし、それなりに日数を跨いでいるだろうと考えられる。その間、来るかもしれない人を待っては苦労したのだろうと思えばなんとも言えない気持ちになった。

 ズビズビと涙を流し、鼻をすする彼女に無事だったハンカチを取り出して鼻をかませた。流石に可愛い子が涙と鼻水で表情を歪めていると言うだけでも居心地が悪くなるし、ましてやシスターであるからこそ、この教会を訪れる礼拝者や巡礼者に醜態をさらさせてはいけないのではないかと思うのである。


「あの、ヤクモさん。その方は――」

「あ、えっと。申し遅れましたっ……。私はっ、アーニャ……ではなくて! アニエスと申します!!! 神様から、この方が来るだろうと言う事で訪れるのを待っていた次第です」


 自分がどういう名を名乗っているかを忘れ、本来の名――というのだろうか?――を名乗るアーニャ。言い直した彼女に対してきょとりとしたアリアだったが、人の良さそうな彼女は「愛称でしょうか?」といった様子で受け止め、笑みを浮かべてこちらこそと名乗る。


「私はアリアと言います。ヤクモさんの主人の妹です」

「私も名乗ったほうが良いかしら?」

「名乗ろうか」

「では。改めて初めまして、カティアと申しますわ。貴方が水をかけて頂いた方の使い魔をさせて頂いております。以後、お見知りおきを願います」


 あ、カティアがひっそりと怒ってる。遠まわしにではあるけれども、アーニャ……いや、アニエスが俺に水をかけた事を非難している。カティアは――たぶんでは有るが――使い魔らしく、主人への想いが強いようだ。なので俺が危害を加えられたり、あるいは貶されたりするのに対していくらか敏感だ。その忠誠と言うか想いは大変ありがたいのだけれども、敵意をむき出しにされるのは――困る。というかお前、この世界に来る際に会ってる筈だよね?

 しかもアニエス……の方はその非難をモロに受け取って「ごごご、ごめんなさい!?」と謝っている。いや待て、お前は女神だろうが。なんで人のようになったとは言え元・猫に涙目で九十度も上半身を下げて謝っているんだ。


「カティア、いいよ。事故は事故、アリアにかかっていたら流石に俺も言わなきゃいけないけど、俺が大丈夫って言ったから大丈夫なんだよ」

「なら良いけど……」

「えっと。それじゃあ、とりあえず案内しますね。アリアさんとカティアさんもどうぞ!

 それで、八雲さんには少し荷物を置いたり、状態を整えて頂いてから告解室に来て貰います!」

「……俺、何か懺悔しなきゃいけないことしたかな」

「今、あそこを使う人が居ないので話をするにはちょうど良いのですよ」


 ものすごいぶっちゃけ話をされた。とは言え、今はまだ安定しきった状態じゃないから懺悔をしに来る人はそうそう居ないのかもしれない。むしろ、これからの事を悩んで祈りに来たり、家族や親戚、親しい人を失って祈りに来る人のほうが多いのだろう。

 俺達はアニエスに導かれるままに彼女の部屋へと向かい、そこで俺は荷物を置いたり、上に着ていた服をカティアに洗わせるに任せてシャツのみで告解室へと向かう事になった。アニエスは別口から入るために別れ、俺は懺悔する側の部屋へと入った。座るときに半袖になって肌寒さを感じる事と露出が増えた事で腕を摩り、それから癖のように自身の装備を確認してしまう。装備がある事で安心しているとも言うし、自衛隊での癖である”紛失防止の為の逐次確認”をしているともいえる。

 そしてしばらくして懺悔を聞き、助言をする側である部屋へとアニエスが来たようだ。「お待たせしました!」という声が聞こえて、さてどんな話をするのだろうかと少しばかり構えた。しかし、そうやって構えて瞬きをしているうちに、俺はいつの間にか見慣れた場所へと移されていた。

 死後の世界、暗闇と幾許かの注ぐ光。それと膨大な映像が映し出されている空間の中で、告解室丸ごと移動してきたかのようであった。


「あれ、え? 俺、死んでないよな?」

「空間を繋げたんです! 私達の会話が聞かれて怪しまれても嫌ですし、貴方様にとって不都合になりかねませんから」

「いやいや、居なくなってるの気づかれたら拙いんじゃないか?」

「それも大丈夫です。周囲には私たちが普通に存在しているように見えますし、今ここで過ごしている時間は切り離されています」

「つまり、ここでどれだけ会話をしても、戻ったときには時間が経過して無いって事で有ってる、のかな?」

「その通りで御座います!」


 それはありがたい話だ。変な小細工で怪しまれたりするのは嫌だし、時間がかかってアリアやカティアが来てしまうと言うリスクも回避できるわけだ。


「何でも出来るんだな」

「いえいえ。これでも、この世界を司る女神ですから」

「女神なのに、シスターしてるの? アニエス教会とか言ってて、同じ名前までしてるのに?」

「あう、それは、ですね。私もこの世界で生活するという事を踏まえて、ちょくちょく降りてるんです。

 それに、あそこの教会は神様――つまり今は管理を任されている私を崇拝している場所なので、直に見ておきたくて。名前は別に珍しい名前じゃないですから」


 お忍びで城下町をうろつく暴れん坊将軍みたいな真似をしてるのか。けれども、勝手な「これが良いだろう」という想像を押し付けるわけじゃなく、態々苦労を背負い込んでまで自分が任されている世界の人々がどのように生活し、どのような悩みや問題を抱え、祈りをささげているのかを気にかけているというのは良い事なんだと思う。

 とは言え、行き過ぎると「これはお前の世界じゃなくて、住民の世界だ」という事になる。クリエイターの作品じゃなく、ファンの意見や感想などを取り込みすぎたファンの作品になってしまっているのと同じだ。清濁併せて吞み込むように、時には厳しい事や彼らにとって好ましくない事もしなければならないのだろうが。

 まあ、それに関しては俺の関与できる範囲ではないだろう。そもそも俺には神がどれ位のことができて、女神がどれくらいのことが出来るのか想像がつく事もない。理解の及ばない事で頭を悩ませるのは実に無駄だ、それに――下手すると彼女も新米ゆえに分かっていない事もあるだろうし。


「――アニエスは頑張ってるんだな」

「ここではアーニャと呼んでください。アニエスというのは、他の人が居る場所でお願いします」

「了解」


 そう言えば、気にして来なかったけれども。俺はなぜ『貴方様』と呼ばれているのだろうか? 若干距離が遠いようで、寂しい気はするのだが。もしかすると、下手に女神が関わりすぎて情が移ったり、過保護になりすぎたりしないようにという指示があるのかもしれない。あるいは、彼女の気質かも知れないが。


「けど、えへへ……。褒められちゃいました!」

「別に褒めるくらい良いじゃないか。それとも、評価されないとか?」

「いえ。女神というのは、結構孤独なんですよ? 前の管理者も、居なくなるまで関わられる事はなかったようですし。もしかすると世界を管理するという事になると、孤立するという事かもしれません」


 そう言ってから彼女は、ぼそりと何かを言った。しかし、告解室で互いを隔てるカーテンがその言葉を俺には届かせてはくれなかった。だが――孤独は辛いという事は分かる。俺も引きこもってから、親しい人とも家族とも――それこそ仕事をしていないから誰とも直接関わらなくなって、どんどん自分の脳が死んでいくのを感じた。全てが瑞々しさを失い、動画を見て笑ったりしていてもそこには渇きが常に存在している。

 脳の使用される範囲と回数が減り、必要とされない情報が消えていく。人の名前、場所の名前等の、知識の方が消滅していくのだ。銃の分解の仕方は覚えていても、部品の名称が分からなくなるように。


「一人は辛いよな……」

「そう、ですね」


 そう言ってから、重い沈黙が漂った。そして俺はなぜここに来たのかが分からなくなり、ただただ昔の自分を思い返して気分が滅入った。顔を覆い、擦る様にして顎にまで手を下ろしていく。それでも、俺はただの数年だが彼女は下手したら俺よりも更に長い年月を孤独で過ごしてきたのかもしれない。だから、下手な慰めは出来なかった。


「――いえ、違いますね。今日はっ! こんな事を話す為に会ったんじゃないですっ!」

「お、おぉ?」


 アーニャが告解室の扉をバァン! と開いた。俺は驚き、仰け反る。そしていつものように椅子と机をどこかから出現させ、アーニャは菓子とお茶の用意をしていた。


「ほら、貴方様もこちらにどうぞ!」

「あ、えっと。りょう、かい……?」


 そして俺も告解室から出る事になった。そこに居なくて大丈夫なのだろうかと思ったが、大丈夫じゃなければ出ていないだろうと思う事にした。そしていつもの死んだ時のように椅子に座り、アーニャが態々淹れて手渡ししてくれるお茶に砂糖とミルクを足して飲む。今日のおやつはどうやらシュークリームのようだ。その脆くも甘いお菓子にはいくらか心が和む。


「えっとですね、本当はこういう話がしたかったんです!

 これからは、困ったときは教会に来ていただければ私がこうやって手助けできますって!」

「あぁ、えっと……はい?」


 アーニャの言う手助けというワードと、教会に来た時の失態がどうにも重ならない。けれども実際にはこの世界に来る時と死んだときなど含めて、盛大なバックアップを受けているのを被りを振って思い出した。むしろ、一番恩恵を受けている事がある。死んだときとか、死んだときとか、死んだときとか、死んだときとか。


「あぁ、えっと。助けは有りがたいんだけどさ? あまり俺ばっかり優遇しちゃうと、これから転移や転生をするって人と露骨に差が出ちゃうんじゃない?」

「あぁ、大丈夫ですよ。管理人が逃げ出して数百年放置されてた世界ですし、私がそういった方を見つける事ができなければずっと八雲さんだけですよ」


 なにそれ、めっちゃ怖い。変なやつが来ても困るけど、だからといって同じ世界観を持った人がまったくこれから来ないよって言うのもなんだか寂しい話である。とは言え、そんな事を考える余裕が有るのかと言われれば無いので、結果どうでも良くなるのだが。


「ぐ、具体的には……」

「悩みを聞いたり、話し相手になったり出来ます!」

「あ、ほんと……」


 ただの話し相手として、という事らしい。変に肩入れされてもやりにくいという思いもあるし、期間限定最強キャラで無双をした所で期間が終了した瞬間に戦い方も行動も思考も――何もかもが劣化している事だろう。頼ると言うのと、頼りきりになるのは別だ。『銃で戦える』というのと『銃でも戦える』というのが違うように。


「けれども、まあ――。話だけでも助かるかな。テレビとか、携帯電話とか、パソコンとか。そういった概念を知ってるから出来る会話ってのがあるか」

「ええ、そうですね。あ、そういえばパソコンの使い方を覚えて、色々していたら動画サイトというのに辿り着きました!」

「いきなり世俗的に……。というか、この世界でパソコンとか使えるんだ」


 当然の疑問だったが、アーニャが「はい!」と嬉しそうに言って指し示した方角にポツリと机と椅子、そしてデスクトップパソコンが鎮座していた。いやいや、さっきまで無かったぞ。シュレディンガーの猫か? ――OSはなんだろう、Win7だろうか。


「あのですね、なんかニッコリできる動画サイトとか、貴方にお届け! みたいなところが楽しいです!」


 どう考えても思い当たる有名サイトしか出てこなかった。きっと彼女に「ニッコリ出来る方は右から左に文字が流れる?」とか「動画のちょっと上にニュースとか記事が流れてる?」って聞いたら「はい!」と答えるだろう。あるいは「十再生で一円くらい貰える、グローバルなサイト?」と聞いても良いわけだが。


「楽しい?」

「はい! それはもう! こう、人の撮った声を音声として弄ってプログラムに歌わせるとか、それを合唱してるところとか、ゲームを楽しそうに騒ぎながら遊んでいるのとか、そういうのは見ていて楽しいです!」


 そう言って彼女は羽をパタパタと動かした。カティアの尻尾のように感情が分かりやすいので助かるし、そういうのは見ていて微笑ましい。やはり他人が喜んだり楽しそうにしているのは見ているだけでこちらも良い気分になれる。

 それではこういう動画はどうかなと、俺は覚えている限り色々と出してみた。彼女はそれをあわててメモをしだす、彼女もまた楽しい事に餓えているのかも知れない。

 どれくらい動画の事だけで話をしただろうか? 彼女がホロディスプレイでサイトを開き、俺がその中でいくらか遊んだ事のあるゲームや期待していたゲームに関して、持っている知識と個人的な感想を踏まえながら語れば更に話は広がった。

 アーニャは、どうやらゲームに関しては得意ではなさそうだ。彼女の遊んだ事のあるゲーム機種が”ファミコン”と聞いて、パソコン慣れが最近だという事を踏まえても器械慣れしていないのだろうと思う。


「最近のゲームって凄いですよね! こう、映像がだんだんリアルになってきてます!」

「それに関しては俺も思うよ。昔は2Dだったのに、カックカクな3Dポリゴンが生まれて、そこからポリゴンの角が減っていって丸みが生まれた。今じゃ物理演算なんてのも含まれて、ゲームなのに銃弾が距離によって落下するようになったり威力減衰するようになったし、細かい物も踏まれたり蹴られたりするとそれによって動いたりするようになった。

 今じゃ百以上ものキャラクターを同時出現させてそれぞれに行動をさせたりもしてる」

「はえ~……」

「そして、完成はまだしていなかったけれどもVR(ヴァーチャル・リアル)を体験できるものも開発されてる。かつて様々な作品、ゲームで表現されてきた”フル・ダイブ”って言うのも、そう遠くないうちに出来るんじゃないかな」


 仮想現実とか言ったかな。もう一つの世界が出来上がったら、どういう風になるのだろうか? なんて、別の世界に居る俺が考えても仕方の無い話ではあるけれども。今俺が居る世界というのも、実は仮想現実とかそういう類だったりするのだろうか? 

 そんな事を考えてしまうと「そもそも、今生きてるのか?」とかまで考えてしまう事になる。それこそ、走馬灯とか、自分にとって都合の良い夢を見ているとか――そんな話にまで飛躍する。実は倒れたまま救助が来るのが遅れただけであって、植物人間となって生きているだけで思考はここにあるという事も考えられるのだから。


「凄いの、ですね」

「他の世界ではそういう技術レベルになってたりとかするのかな」

「すみません。同じように世界を管理されている人と会うことも無ければ、その方たちがどのような世界を任されているのかを知る事もできないんです」

「そりゃ残念……」


 つまり、神様が居る場所を大部屋として、こうやって世界管理をする場所は一人しか入る事が許されない小部屋という事なのだろう。防音処置よし、一人が入った時点で扉は勝手に閉まって施錠される。外部からの呼びかけも内部からの叫びも相互に届かず意思疎通不可、壁ドンしても隣には衝撃すら行きやしないって事だろうか。

 しかし、世界を任されて放棄するような人物が居るんだ。そんなシステムにした神様は世界を重視するあまり、それを管理する人物にまでは気を向けていないらしい。使い捨て感覚なのだろうか?


「そう言えば、銃を所望しましたよね? なにか思い入れでもあるのでしょうか」

「あぁ、そういえばそうだ。ずいぶんと助けられたよ、有難う」

「いえいえ! 元はと言えば、貴方様が自ら希望した物ですから! それで、どうなんですか?」

「まあ、元はと言えばゲーム好きから現実に生かせたのがそういったものというだけだよ。

 狙う、撃つ。ゲームを元に訓練してたらたまたまそれでうまく行ったというのと、あとは使い慣れた武器だから――というのもあるかな」

「それが自分の、一番良かった時期だったから、という事も有りますか?」


 アーニャにそう言われ、俺は何も言えなかった。確かに、自衛官として自衛隊に居たときは間違いなく俺の絶頂期だっただろう。肉体的にも、精神的にも、行ってきた事的にも恥じない事ばかりだ。長時間の活動や高負荷に耐えられる肉体を有し、国のため国民のため誰かのため仲間のためにと健全な精神と気力を持ち合わせ、災害の時はまるで実戦でもそうであるかのように最小の睡眠時間と最長の活動時間で何週間も人命救助と復興の一歩目の為に活動していた。

 日本では自衛隊は面白いくらい二つの反応に分けられる。戦争を運び込む疫病神か、国の為に働く素晴らしい組織だとか。俺にとっては考える事は一つだ。国の為に尽くし、自分の身体を捧げている事は、ほかの誰にも出来ない素晴らしい事だ。当然死んでしまえばそれまでだし、身体に不調や不自由な身体を抱えることもあると思う。けれども、やはり俺には――それが一番だった。

 少なくとも、親に認められたかった俺には、国に尽くしているという最大の功績をぶら下げていなければ、自分を騙す事も出来なかったのだから。それでも、俺は両親がどのように思っているのかを確認する前に失ってしまったのだが。


「あれ? どうかしましたか?」

「あ、いや。確かに、あの頃が俺の人生の中で一番意味のあった時間だったと思うよ。学んできた事は多いし、出来なかった事も有るけど、無意味にはならなかった。いや、無意味になんかしたくない」

「――そういう考えは、立派だと思いますよ」


 俺が続けようとした「自分だけじゃなくて、他人の役に立てるんだから」という言葉よりも先に、アーニャの言葉が先に被さってきた。俺は続けそうになった自分の言葉に恥ずかしくなり、頬を掻きながら視線をそらす事しかできない。そして、いくらか心がささくれたった。


「外でも、あんまり俺が立派だとか言わないでくれ。そうやって言われると、自分の矮小さが気になって嫌になるんだ」

「はて、なぜですか?」

「俺は……、目的が歪だったからなんだ。たとえ立派な事ができても、そのために使用した技術や手段が、歪んだ思考や思想の元で得たものだから」


 俺は、俺が歪んでいる事を自覚している。全ては認められたいが為にしてきた事だと理解しているからこそ、何をしても虚無になってしまう。それどころか自己嫌悪で胸がいっぱいになり、暗鬱になる。それこそ、心酔しているかのごとく「国のため、国民のため、誰かのため、仲間のため」と頭の天辺からつま先までそう思って得た技術だったのなら、誰かのためにと培っていた技術だったのなら良かったのだけれども。


「それに、結局後になってみれば俺に残ったのは戦い方と、考え方だけだった。教養も無く学歴も無い俺には、戦う事しか残されなかったよ。かといって、海外に移住してまでそうするつもりも無く、ただただ即応予備として自分を偽ってただけなんだ」


 ただ、易きに流れる水のように。ちっぽけな自尊心を保つためだけに――。俺は頭が良くない、就職をするのも一苦労だろうし、就職したらしたで今度は自衛官として染まりすぎたが為に齟齬で破綻するだろう。

 自分が下らないと思っていながら、それを正す事もしなかったのだから、どれほど救いようの無い事か。そして自殺する勇気も無く、酒と娯楽と思い出と――家に引きこもってただ溺れ、沈んでいった。その結果、発作で死ぬ羽目になった訳だが。


「貴方様は、科学の話を知っていますか?」

「ん? いや、どういう話だ?」

「科学そのものには善も悪も無いという話です。その扱い方によって善にも悪にもなると、そういう話です」

「それは知ってるけど……」


 それがどう繋がるのだろうか? 俺は自分でもいくらか考えてみるが、行き着いた考えがどうなのかと推考を重ねる前にアーニャが口を開く。


「それと同じです。貴方様の得た知識や経験、技術は――。その、用い方によっては悪い事が出来たでしょう。けれども、貴方様はそれを誰かを助けるために用いた、つまり、そう言う事じゃないんでしょうか?」

「だとしても、それを割り切れるかどうかってのは個人の問題じゃないかな。

 少なくとも俺は、それを割り切れない」

「そうですか、そうですね。それでは、いつの日か貴方様が向き合えるように祈ります。

 そして、貴方様が助けてきた人が感謝してくれたのなら、卑下することなく受け入れられるようになる日が来る事を――」


 そう言って彼女は祈りをささげる様に手を合わせた。それこそ、俺の見知った礼拝の姿だった。アーメンとは誰も言いはしないけれども、少なくとも――俺の根幹が歪んでいたとしても拒絶しないでくれただけうれしかった。

 色々な物事を見ていると、潔癖か純粋でなければ許せない人も多い。あるいは、そういう所ばかりを無意識に探しては見てきたのかもしれない。ネット社会によって、様々な情報はさらけ出されるようになり――同じくらいに、その匿名性と痛みの無い世界は攻撃性や醜さを増した。理解できない、理解したくない事を異端だと言い放ち、誰かを傷つける事が容易になった。自分と相容れないものを攻撃し、貶し、陥れ、愉悦に浸る――。時代は違えど、人間なんて相違ないのだなと実感できる。

 アーニャが一分ほどの祈りをささげ終えると、笑みを浮かべる。たぶん、彼女のような人じゃなければ女神などにはなれないのだろう。純粋で、清らかで、それこそ性善説を疑っていないような人でなければ。


「私は、少しでも貴方様の助けになれれば良いなと思っています。俯いている顔が前を向き、空を見上げる事ができるようにするのも、勤めかなと」

「見上げた空が黒白に染まっていても?」

「はい」

「前を向いた先に存在するのが、絶望とともに崩れ行く未来だとしても?」

「崩れても、また一片ずつ拾い上げて積み重ねましょう!

 生きている限り、失敗なんて大小様々ですが、生きていれば別の道を選ぶ事もできるのですから」


 その一つの道が、今じゃないんですか? そう言われて、俺は苦笑とともに息を漏らした。俺も、盲目的になっている訳じゃない。結局、腐ってしまった性根を救って欲しかったのだろう。そう考えると更に自分がくだらなく思えたが、今はその事を考えるのをやめた。


「――そうだ。パソコンが有ると言うのなら、同じようにゲームとかも用意できるんじゃないか?」

「出来ますけど、どうするのですか?」

「まあ、遊びたいというか……。もしよければ、ゲームを見るだけじゃなくて遊ぶ事も出来るんじゃないかなって、一緒に」

「本当ですか!? あ、ではでは。ぷよぷよさんとか、レースゲームとかもいいのでしょうかっ!!!」

「お、俺はパズル系は苦手で……」


 そう言ったのが運のツキだったのか、アーニャは「では、パズル系もたくさん仕入れます!!!」と意気込んでしまった。しまったな、俺は自ら死地を作ってしまったのかもしれない。けれども、パズル(組み合わせ)と言いくるめて戦略系とかを突っ込んでも良い訳で、密かに逃れ方を考えながらシュークリームに新しく手をつけた。

 そして、下らなくもゲームについて語り合う事になる。アーニャがどういうソフトを遊んできて、どういうのなら大丈夫とか慣れてるとかを聞いたりもした。そして雑談のような会話の合間合間に紅茶を飲みきっては、まるで給仕のようにお代わりを淹れてくれて、俺は戸惑いながらもそうするのが好きなのだろうと受け入れた。

 腕時計の時間は止まっている、その中でどれ位の時間をここで過ごしていたのかなんて体感や感覚でしか分からない。それでも、三十分以上は絶対に居るだろうし、一時間は楽しく過ごしていたと言われても頷けるくらいに過ごした。


「アーニャ、そろそろ話を終わろう」

「え!? な、なんでですか!」

「確かに時間は止まってるかもしれない。けどさ、よく言うだろう? 満足しきってしまうよりは少しばかり話し足りないくらいにしておいて、楽しみを取っておくんだ」

「あ、なるほど。貴方様の言うとおりですね、覚えておきます!」


 そう言ってアーニャはメモを取る。しかし、その字は日本語……のようなのだが、どうにも拙い。けれども俺は見ないふりをした。人を貶すのは容易い。けれども、人を貶せば貶すだけ、自分の品位や気質も貶しているのだ。だから俺はどうすべきかなと迷い、もう少しだけ時間を割く事にした。

 自身のポケットからメモ帳を取り出し同じように机の上でサラサラと文字を書く。いきなり俺が何かを書き始めたことでアーニャが不思議そうにしていたけれども、俺はちょっと待っていて欲しいとだけ言って、そのまま書き続けた。


「俺の経歴って、全部知ってるんだっけ」

「あ、いえ。あまり踏み込みすぎるのも良くないかと思いまして」

「なら教えるけど。俺はハーフで、高校時代に日本に来るまで全ての時間を海外で過ごしてたんだ。だから、こういうことしか出来ないけど――っと」


 あ行の五つだけだけれども、俺はきれい平仮名を書く方法をそこに記した。一手ずつ、書き順と字のバランスなども私見で。


「今でもゆっくり書かないと字が汚いって言われるし、実際何度も何度も書類とかで指摘されてきたよ。役に立てるかどうかは分からないけど……」


 そして、とりあえず一行だけ完成したのでそのページたちを破って彼女の傍に置いた。そして、一つ思いつく。


「それじゃあ、こうしよう。会う度に一行ずつこういうのを渡すから、練習すると良い。お茶やお菓子の……それに世話になってるし、こういうことしか出来ないけど――」

「いっ、いえっ! ありがとうございます! 大事にしますね!」


 そう言って彼女は、まるで幼い子供が人形を掲げるように数枚の頁を見上げて表情を輝かせていた。サンタに貰ったクリスマスプレゼントを喜ぶ子供とも、誕生日にずっと欲しがっていた物を贈られた子供とも言う。

 そういや、妹が一度だけ赤ん坊を連れて会ってくれたことがあるけれども、あの子も元気に育っているだろうか。弟は結婚したとも彼女が出来たとも、意中の相手が出来たとも言っていなかったし、俺の死後両親から受け継いだ財産はそっちに多く流れるのかもしれないが。

 

「どうしたんですか? 眉間を押さえて」

「いや、そこまで喜ばれるとこっちもなんか申し分けなくて……」


 半分本当で半分嘘の、いつものような差し障り無い返事を返した。まったく違う事を考えたが、実際に彼女がそこまで喜んでいるのに対して申し訳なく思っているのは嘘じゃない。自分の行動と、その行動の意味を摩り替える。本心を悟られないようにする、そうする事で善人を演じる――嫌な、ヒトだ。

 しかし、アーニャのほうは俺の言った事を疑ってないようで、慌てる様に片手を思いっきり左右へと振った。


「いっ、いえいえいえいえ! 本当に、有難う御座います! 私、日本に住んでいた事があるのですけれども、上手く書けなくて……」

「大丈夫、これから上手くなっていくって。動画とか、ゲームとか――好きなんだろう?

 なら、これから上手くなるさ」


 そう言ってから幾らか黙り、そしてふと思いついたことを口にしてしまう。


「そういや、何でゲームが好きなんだ?」

「おかしいですか?」

「いや、なんというか。俺の視野が狭いだけなら悪いけど、恋愛とか化粧とか衣類とか――そういうのが好きなイメージがあったから」


 その問いを、俺はすべきじゃなかったと公開する事になる。彼女はきょとりとし、それから幾らかの間を置いてから徐々に照れながら頬を朱に染めていったのを見たからだ。


「それが、ですね? 私が生きていて学生だった頃に、好きだったヒトがいたんです」


 あぁ、聞くんじゃなかった。


「その人は、いつも仲の良い級友達と話をされていて、それはもう羨む位に楽しそうでした」


 けれども、そうやって過去を懐かしみ、楽しげに語る彼女を何の権利があって黙らせる事ができるというのか。


「それで、ですね? その人が休憩時間とかに、お友達とよく遊んでいたんです。私には何のゲームかは分かりませんでしたが、四人でモンスターを狩りに行くというゲームだという事だけは分かったんです」


 黙ったままに聞き続け、相槌を打つ俺はさぞ滑稽だったかも知れない。


「隠れて、私も遊んで、少しでも近づけるようにって頑張ったんですけど、私はのろまですから。一緒に遊ぶには少しでも強くなっておいたほうが良いかなって時間をかけすぎて、その人はもう別のことをしてました。

 だから、そのときの名残、ですかね」




 そう言って、恥ずかしい話をしましたと言わんばかりに苦笑する彼女に、話はもう終わったんだという認識が遅れてしまって「あ、あぁ。そうなんだ」という生返事を返す事しかできなかった。

 やはり、俺は女性に対して圧倒的に免疫が足りないらしい。優しくされ、親しくされるだけで興味を持ってしまう。そして勝手に好いてしまい、その結果彼女たちが婚姻だの誰か好きなヒトが居ると言うだけで穏やかで居られなくなる。どうしようもない、馬鹿だった。


「なら、その思い出に付き合うよ。もし――もしだけど、次があるのなら、生かせたら良いね」

「ええ、そうですね。では、次来るときはゲームと、字の書き方をよろしくお願いしますっ! そして、これからは悩みや相談を打ち明けていただけるよう、お待ちしていますね」


 そう言って彼女は朗らかな笑顔を浮かべた。それに対して俺も「了解」と言って、その言葉と連動した癖のように軽い敬礼をしてしまった。それでも、彼女にとっては満足な返事だったのだろう。満面の笑みを浮かべ「えへへ」ともらしていた。

 止まった時の中、更に幾らかの時間をそこですごし、現実へと戻るのが幾らか名残惜しかった。










     ――☆――



 ――それは遠い日の記憶だ。彼が死ぬよりも前、彼女が女神と化すよりもずっと前の話。

 その少女は高校の職員室から呼び出しという用事を終え、いくつかのノートを抱きしめるようにして抱えながら夕日の傾く教室まで戻ってきていた。時期は夏も半ばほど過ぎ去った頃。新入生は新しい出会いと日常の中で友好を深め、それぞれ違う色の中でグループがほぼ出来上がりつつある頃だ。

 その少女は幾らか遅れてやって来た転入生で、彼女の思考との違いや日本語への不慣れな関係からか――友人らしい友人は、居なかった。

 授業にはついていけず、好意的な教師によって自宅でも独自に追加で勉強できるようにとプリントが手渡されている。その上で、教師は決して甘やかす事が無かった。他の生徒と同じ宿題を出し、そして同じ日に彼女からも回収していた。

 読むことは幾らか出来る、それでも感じに不慣れな彼女は教科書やプリントを見ることですら『解読』と言って差し支えないくらいに難しい事であり、それが少しずつ少しずつ彼女の歩みを遅らせていった。

 日本語の理解、学習と平行してそれらを使用した”別の知識の学習”という行為は、誰よりも時間がかかった。かかりすぎた。そして一つの学期が終わって彼女の成績は”落ち零れ”として他の生徒に認識される事になった。

 有り難い事にその学校は帰国子女を受け入れている学校だったが為、虐めや侮蔑や嘲笑として反映される事はなかった。一つの学年に二桁ほどの人数で様々な国から来た生徒が居る、純粋な日本人のみで構成された学校ではなかったが為の大らかさとも寛容さともいい加減さが彼女を幾らか救ったのだ。


 それでも彼女は純粋で、それでも彼女は真っ直ぐで、それでも彼女は清らかだからこそ――堪えられない事でもあった。

 母親の死と父親の転勤による日本への移住、カタコトでしか使った事がないともカタコトでしか使えないとも言える別言語の地域での生活等々。本来であれば言い訳に出来た、高校生になったとは言ってもまだまだ幼く知らぬ事の方が多いと言うのに、彼女はそのどれであろうとも言い訳の理由にはしなかった。

 仕事の都合で帰宅が遅い父親のためにも料理を作り、自分の分のお弁当も作って、家事といえるもの全てを彼女は担っていた。そこに父親からの強制は無く、むしろ彼女に対して常に申し訳が無さそうに、寂しく微笑む表情ばかりが既に焼きついている。そういった家の事をした上で自習、勉強、宿題――。時間が足りないくらいだ。


 小テストの結果が良くなかった事、そして提出仕切れなかった宿題やうとうとと授業中に眠ってしまった事など。そういったこと全てをひっくるめて呼び出された彼女は元気が無かった。話半分に聞くことや、相手の発言から必要なところだけピックアップして理解するという事が出来ない彼女は、額面通りに言葉を受け取って”怒られた”という事実にへこんでいるのだ。そして彼女の成績や素行に関して連絡が行っても、父親は決して怒りはしなかった。それが彼女を更に申し訳ない気持ちにさせ、さらにへこませるのである。

 それでも、転入したての頃に比べれば日本語の理解が進んだ。それによって授業中で理解できる事が増え、宿題や勉強で使う時間が減ってきている。少しずつではあるが、好きなことが出来るようになり家事の前倒しや睡眠時間の確保量が増えているだけでも進歩が理解できて嬉しそうにもしている。




 そう、彼女はどこにでも居る”少しだけカワイソウな”だけの、少女だった。




 幾らか夕日が傾いた時間で、放課後のクラブ活動も終わりかけている時間。彼女は自身の荷物を纏めると帰路につき始めた。途中で歩きながら勉強するためのメモ帳を取り出しやすい位置に入れなおし、階段を下りていく。三階建ての校舎で、一年生は三階を使い二年生、三年生と階位が降りていくのだ。二階分を降り、上履きに履き替え、校舎を出る。

 校門を出るまで幾らか歩かなければならず、校門を出てからも三十分ほど歩かなければ帰宅できないのだが――それでも、電車で一時間やそれ以上の時間をかけて登下校している学生に比べれば徒歩のみというのは破格であった。

 そして、彼女は幾らか下校時間が遅くなる事や、父親のお弁当の準備をして登校時間が幾らかギリギリになっても気にしなかった。それだけの理由が、その限られた時間帯にはある。



 重ねて説明するが、彼女はどこにでも居る――少女だ。同じように眠くなり、同じように空腹を覚え、人それぞれの範疇を超えない身体能力を有し、少しばかり頭が良く、少しばかり行き過ぎなくらい人が良いだけの少女だ。

 好きなテレビ番組があって、好きな雑誌があって、好きな音楽があって、好きな言葉がある。それと同じように、好きな異性が居たというだけの話だ。



「あ――」


 だから、本人は無自覚で無意識だっただろう。好きな音楽のタイトルや歌い手を忘れてもフレーズだけを覚えているように、好きな作品のタイトルや話の流れを忘れても気に入った場面や言葉を覚えているように。その時間帯であれば、その人物を見かけることが出来ると言う事を理解していた。

 それでも、本人はまったく狙っていなかっただろう。ただ単純に彼女の登校時間と彼の登校時間が被っていた、彼女の下校時間がたびたび彼と重なっていた。そして、同じクラスで、幾つか授業の選択が重なっていただけの――それだけの話なのだ。


「――って、本読みながら歩くなって」


 そう指摘”された”彼は、本を読みふけりながら友人たちと帰宅しだした所だ。いつものように放課後に携帯ゲーム機で共に遊びふけりながら駄弁り、そろそろ遅くなるからと帰りだしたのだ。数名のグループで、ある意味”他のグループから”浮いてた。スポーツが好きで得意というわけでもなく、幾らか不良じみているというわけでもなく、見た目が特に優れていてモテるというわけでもない。

 ただ、他の学生よりもゲームやアニメ、漫画に興味深く、別に学んだわけでもないのに自分の好きな分野において詳しく、しかもまったく被る事のない分野だとしても”仲間意識”においてなぜか理解を示すような――言って、オタクと言われるジャンルのグループだった。

 それでも彼らは煙たがられる事なく、嫌われ罵られる事なく学園生活を送ってこられたのは、帰国子女の学校であり、様々な国の人、様々な宗教や思考を持つ人々が集う場所だからであった。そして、中でも一人”抜きん出た阿呆”が居たのである。その阿呆こそが、彼女が好いた人であった。

 ただ愚直で、ただ盲目的に善い人で、乞われれば何でも手伝ってしまい、その結果利用され、損をしているのだと気づかずに喜んでいるような――阿呆。生徒会という面倒な役割を押し付けられ、クラスでの軽い不具合や破損をした機材で処置できるものを直し、学校が地域の理解を得るためにと行っている通学路の清掃活動に参加し、体育祭では呼ばれれば全ての種目に出てしまうような、阿呆。

 そんな阿呆に、彼女は心惹かれていた。

 始まりは、とある授業で彼女が教科書を取り出すのを忘れたときだった。全ての生徒が個人のロッカーを貸し与えられていたのだが、休み時間の時に取り出すのを忘れたのだ。そして授業を受けている教室が別場所であった事により、取りに行く事も出来ない。授業中にも”読解”をして授業を受けている彼女には教科書忘れは痛いものであった。

 しかし、その阿呆は教科書が無いと訊ねた相手が落ち込みながら頷くと、考える間も無しにその教科書を貸してくれたのであった。そして彼は教科書が無い事が授業中にバレるが――素行や性格の問題だろうか?――咎められる事は無く、いつもつるんでいるクラスメイトの教科書を見せて貰っていた。

 彼女は借りた教科書を見ている中で、勝手に共感を抱いていた。彼から借りた教科書の所々には漢字や単語に線が引かれ、彼女の知らない言語で色々と書かれていた。その中で幾つか英語で書かれており、彼もまた理解できない単語や言い回しがあり、それを理解するために”解読”のような――ある種、自分にも似た事をしている人が居るのだと思えたからだ。

 彼女と同じように他国から来た生徒は他にもたくさん居る。しかし、その多くは同じ国から来た生徒が多く、一人ぼっちでは無かった。そういう意味では『誰かと仲が良く、他国から来て一人じゃない』ということから弾かれているのは彼女だけだったのだから。

 だから、英語の通じる学生が少ない中で彼女は”言葉が満足に通じる相手”として救われた気持ちになった。そんな小さな切欠でしかなかった。

 しかし、その阿呆は求められるがままに手伝い、助け、少なくとも学年の中で悪い噂を流される事はなかった。そしてそういった中で――本人は当たり前すぎて覚えてない中に、彼女は幾度か関われた。ただ、彼にとって他人に優しくする事や困っている人を助けたりするのは当然の行いだったようで、誰に何をしたか等と覚えていない。


 ただ、彼はどこまでも愚直だった。


 彼女が申し訳無さそうに分からない所を、その場で訊ねて理解しようとした。たとえ間違えても恥じ入ることなく、むしろおどけて見せた。そして運動や技術的なことにおいては『なぜ出来ないか』を考え、何度も何度も試行錯誤しているのを彼女は良く見ていた。

 彼が決して人前では口にしない口癖も、彼女は知っている。勉強において、あるいは運動において、あるいは授業において、あるいは学生生活において。彼は自分にとって好まない結果に対して自虐的とも自罰的とも言えた。授業での失敗を裏では無知として自分を罵った、運動においての”大半の生徒ができる事なのに自分にできない事”に対して出来るようになるまで追い込んだ、他人に訊ねられた事で一般常識や知識に関して答えられなければ恥じた、技術的な物であろうとも出来ない事には出来るようになるまで何度も挑戦していた。

 図書室で、あるいは教師に頼み込んで放課後の教室で、あるいは運動場の片隅で、あるいは家庭科室で――彼は、必ずどこかに居た。だから、下校時間が彼女と被る事が多くなるのも、ある種必然であった。

 そんな彼に、一度だけ恩返しとして関わった事もある。とは言え、直接的なものではない。家庭科の授業で出された課題で、彼は提出期限ギリギリまで授業中の時間を利用しても完成にまで行き着きそうに無かったのだ。人一倍不器用で、人一倍時間がかかっていた彼は、家庭科室を頼み込んで空けてもらい、そこで一人針と糸と布を相手にずっと苦戦していたのである。不慣れな針捌きで指を突いた、珠のように血が出てきて、長時間の集中と苦戦に休憩を挟んで退出したときに、彼女はそっと彼の居た場所に絆創膏を置き、逃げるように去っていった。

 そうやって、勝手に共感し、勝手に意識し、勝手に追いかけている内に――好いてしまったという事だ。

 当然、彼のよくつるんでいる友人等も深くは追求しなかった。当たり前だ、オタクとは生き様であり価値観の共有ではないのだから。ミリタリーオタクもいれば、電車オタクもいる。アニメオタクも居れば、世界大戦オタクも居る。そんな彼らは決して衝突しない。なぜなら、何かを追って生きるというそのあり方を互いに尊重しているから。


 ただ、一度だけ彼女は――彼の綺麗な表姿と血汗と苦労に溢れた裏の姿の先に、なぜそんな相反するものが反発しあう事無く同立されているのかの理由を聞いたことがある。ただの通りすがりで、彼にしてみれば名前があるだけの――ただの背景でしかなかった時に聞いた言葉だ。


『出来るかどうか、やれるかどうかなんて考えたって無駄だろ?

 ただ――やってみたあと、出来るかどうか試してみたあとでその結果を無駄にするかどうかは自分次第じゃないか』


 多くの生徒が諦め、或いは捨て去り、もしくは失敗を重ねる事を忌み嫌った中で感じ取った無垢さ。それが決め手だった。多くの学生のように、得意分野と苦手分野で力加減をし、楽に生きれば良かったのに――それをしなかった。全てに対して全力で、妥協ではなく納得でゴールし続ける。そんな生き方が”良いなあ”と、思ってしまったのだから。

 そんな阿呆な彼を、彼女は追うようになった。自分から関われるように、親しくなれるように、声がかけられるようにと――

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