02/19/01:30――躑躅紅音・オワリの三人

「騒がしい、なあ――」

 VV-iP学園の地下、灯りがデスクにある小さな証明だけしかない空間に、無数に敷き詰められた本棚は、暗闇と相まって空間そのものを圧迫し重くさせている。その空気に触れて一体どれだけの時間が経過しただろう。きっとそれは四十年、ざっと考えてそのくらいのはずだと姫琴ひめこと雪芽ゆきめは思いながらも、自動的に記していたペンがことりとテーブルの上に落ちる音を聞いた。

 魔法師は、ただそれを抱いているだけで死からは遠ざかる。

 そもそも世界法則ルールオブワールドが不安定になるからこそ、器を安定させるために人の身に法式を担わせることで、かりそめとはいえど安定を得ていたのだ。その当人が簡単に死亡してしまえば、それは効率が悪い。

 だから。

「上、うるさいね」

 机を背に、両足を投げ出し、本棚を眺めるように床へ腰を下ろした彼女は、法式が喰われて急速な衰えを感じながらも、いつものように笑って隣にいる弟の、箕鶴来みつるぎ狼牙ろうがの手を軽く握った。

「……姉さんも、奪われましたか」

 しわがれた、いや掠れた声。もう二時間も前に法式を奪われた狼牙はもう死を間近にしている。時期としては鈴ノ宮清音と同時、いや少しばかり狼牙の方が早かったか。

「いえ、返した……のでしょうね」

「そうだねえ」

「戦況は、どうなっていますか……」

「んー、どうだろ。上手くやってるかな? やっぱり上が一番大変みたい。もし占拠できれば妖魔にとっても安住の地になるだろうしね」

「そう……ですか」

「そんなこと気にしなくてもいいのに」

「ははは、性分、なんですよ」

 は、と疲れたような吐息が落ちる。

「狼牙?」

「ええ……まだ、生きて、いますよ、姉さん」

 それならば、間に合ったというべきなのだろうか。よおと、刹那せつな小夜さよは声をかけながら片手で支えていた老婆を、雪芽の隣に座らせた。唐突の出現に、二人は決して驚かなかった。

 むしろ、小夜に視線を投げることもなく。

「なあに、青葉。やっぱり一人じゃ嫌だった?」

「何を言ってるの。おせっかいで連れてこられただけよ」

 それでも嬉しそうに、椿つばき青葉あおばは小さく笑ってその手を雪芽の手に重ねた。

 離れた位置、小夜は香草巻きに火を点ける。この状況をずっと遅延してきた人物の最期なのだ、見届けるのが筋だろう、そう思って。

「今なら――わかりますよ。公人きみひとが、約束を守れただろうかと、そんな言葉を口にした心境が」

「そうね。あの時、馬鹿なことを言うんじゃないと思ったものだけれど」

「うん。誰かに、教えて欲しいよ。あたし――たちは、約束を守れたのかなって」

 いつも、彼らの間には約束があった。

 約束があるからこそ動けた。

 そして動いてきた。

 これが終わる時は――約束を果たしきった後だ。

 それでも、そんな確信を抱きながらも、もうここにはいない名もない彼女と、そして嵯峨公人、エグゼ・エミリオンとの約束が守れたのかどうか――確かめられる相手は、もういない。

 だったら。

「だったら聞けばいいのさ」

 少年は小夜に軽く手を上げて、相変わらず神出鬼没ぶりを発揮しながらも、彼は、躑躅つつじ紅音あかねは笑いながら言う。

「終わった後に、これから先に、どうせ君たちはエグゼと逢うことになるんだ。それともここで、僕に要求するかい?」

「それは……」

「やめとく」

「そうね、なんだか紅音の声を聴いたら一気に疲れてきたわ。幻聴だったら良いのに」

「酷いじゃないか。やれやれ、こんな僕でも最後に一人残されるんだと思うと、それなりに考えるところがあるんだぜ? 何しろこの状況だ、彼女との約束は――果たされた」

「果たされたの?」

「されたさ。何しろ、結果的にはこの状況も彼女の意図だ」

「〝本物の贋作フェイク〟と呼んだ彼女の、ですか」

「〝錯覚の信憑性ゴースト〟なんて呼んだあの子の」

「〝虚数の中の実数ヴォイド〟と揶揄した子の」

「〝魂に刻んだ爪痕ソウルネイル〟と僕が呼ぶ彼女の、そして〝最後に名を捧げた一人ネイムレス〟と呼ばれていた彼女の――痕跡が全て、なくなる時だ」

 君たちがいなくなることでねと、肩を竦めながらあっさりと紅音は言う。

「それは、……いやこれは、なかなか堪えるよ。エグゼがいなくなった時だって落ち込んだんだ、しばらくは引きこもるね。僕が持っているものの大半は彼女から貰ったものだ。ま、この言葉だって同じさ」

「顔見せない癖に」

「おいおい雪芽、それは僕の台詞だぜ? エグゼもそうだったけれど、頻繁に顔を見せたのは狼牙だけだったじゃあないか。なあ?」

「そうでしたね……」

「否応なく思い出してしまうもの」

「だったら思い出話をすればいいだけじゃないか。何しろ僕たちは、よく彼女に振り回された」

「紅音はそうでもないんじゃない?」

「いやいや、雪芽は知らないだろうけれどね、彼女は僕ですらいいように使ってくれたものさ。言葉を貰ったのだって、僕に言わせればその対価だ。ま、徹底して借りを作らなかったのは彼女らしいけれど」

「……公人には、悪い、ことをしましたね――」

「そうかい?」

「私は、良い……公人に、逢いに、行く……だけ、ですから。彼女がいなくとも、誰かが、いるというのは、安心……する、ものです、ね――」

「そうだね。狼牙、だったら労ってやればいいさ。よろしく言っておいてくれよ? エグゼのことだ、酒を持って待ってるさ」

「ええ――」

「お疲れ、狼牙」

「すぐに逢えるわよ」

「……よく今まで保ったよ。人の縁は最初に喰われたはずだからね。君たちは初期の魔法師だ、それだけ無理もしている」

「自分の足で逢いに来てくれたもんね。よしよし……」

 力なく横たわる狼牙を肩で支えた雪芽は、ゆっくりとその頭を撫でる。けれど、すぐに。

「……ええ、そうね。公人に逢いに、やっと行ける」

「待ち望んだのかい?」

「ずっと――待っていたわよ。同じ時間を過ごしていて、ようやく、同じ老いを受け、逢いに……行くわ。雪芽、後で」

「うん。じゃあ、あたしは公人のいれた紅茶で」

「ん……」

 重さはほとんど感じない。いや、そんな感覚すらない。近くにいるのがわかるのに、雪芽にはもう二人の顔を見る元気もなかった。

「そうだ」

「どうかしたかい? 今さらになって死ぬのが嫌だとわめいても、取り返しはつかないよ」

「意地悪。でもいいんだ。終わることは望んでないけど、続けることも飽きてきてたし。そうじゃなくて、父さんに伝えておいてくれない?」

「一夜に? そりゃ僕が戻る場所は一夜のところだけれどね、まあ構わないよ。伝言がかりにされるのは不満だけれどね」

「あたしはさ、こんなだから、……父さんに拾ってもらえて助かったから。ありがとうって伝えておいて」

「わかったよ」

「んー、ちょっと、雑談、したいな」

「そうかい?」

「小夜ちゃんも」

「――オレは、見届けるだけのつもりだったんだけどな」

「ありがとね。この場所はどうなる? 本は、残ってる?」

「残ってる本も含めてこの場所ごと、サギに管理させる。流出することはねえよ」

鷺花さぎかちゃんも大変だねえ」

「面倒はオレと似たようなもんだ。背負う荷物も――紫陽花以外で分割ってな」

「そっか……そっかあ」

「僕はほとんど無関係だけれどね。しかし、君たちも形見分けを残さないつもりなのかい」

「あはは、ないない。ないよ。あるわけがない。だってあの子、全部残してったじゃない。目に見えないものばかり」

「彼女の真似をするなんて、らしくないぜ。でもそうだね、――もしも形見分けがあるのなら、僕の荷物が増えるだけだ」

「……紅音はこっち、来ないよね」

「行けない、が正しいよ。そして、行こうとも思わない。そう考えられるからこそ僕は在る。けれどね雪芽、君には言っておくけれど、――寂しくなるよ」

「そうだよねえ。紅音、知り合い少ないもんね」

「余計なお世話だよ、まったく……。雪芽、なにかして欲しいことはあるかい?」

「それもない。だいじょぶ……うん、公人んとこ行ってくる。……あは、いつもは公人が来てたのに、もしかして、初めてかなあ」

 そうして、続く言葉はもう、放たれなかった。

 静寂が落ちる。小柄な男女が並んだその先に老人が三名、こと切れて――それでも、小さく笑うように、眠っている。

 小夜が煙草を渡すと、紅音は受け取って火を点けて、紫煙を足元に吐き出した。

「……参ったな」

 紅音は言う。

「これは、随分と堪えるね……わかっていたこととはいえ、胸にぽっかりと穴が開いた気分というのを味わっているよ」

「東京事変前からの付き合いで、エミリオンはともかくお前らは魔法師だ。付き合いが長けりゃ、置いて行かれた側にしてみりゃ、そんなもんだ」

「わかってはいるさ。理解している。だから、きっとこれは僕が持っている感情ってやつが動いているんだろうね。……酒を飲むたびに思い出しそうだ。ああ、そして、それは悪くないんだろう。思い出しながら飲めばいい。忘れることに比べればずっと良いことだ」

「ああ、そーだろうぜ」

「まだかい?」

 顔を上げた紅音は、やや強張ってはいるものの無理に笑おうとしている。いつもの笑みだ。それを察しながらも、小夜は変わらない態度で付き合う。

「まだだろ。せめてここの結界が作動して、ソプラノのところにいる連中と合流しなきゃ満足に動けねーよ」

「となると丸一日……か、二日か。わかっているのかな、彼らは」

「わかってるのは一部だけだ」

「一部だけでもわかっているなら、まだマシか。――延延と続くように思える闘争にも時間制限があるってことを。とっとと結界を作動して安全地帯セイフティエリアを作らないと、次に来るのは地震と津波――まあ、天災ってやつだね」

「それまでに、オレの契約も果たされるといいんだけどな」

「やりたいかい?」

「当たり前だろ。んなもん、逢ってからずっとだぜ」

「そうだったね。ならこう言い換えようか――できるかい」

 良い問いだ。そして、絶好調の紅音ならば最初に出てくるべき言葉でもある。

「やることがオレの望みで、――やられることがベルの望みだ。万全の状態で十全の対応で完全な結果を出す、それだけじゃねーか」

「楽しみにしているよ」

「ああ、そうしとけ。それより紅音、どうやって来た」

「二本の足を使って徒歩移動さ。僕はそもそも妖魔にも認識されないからね、どうとでもなる。表の騒ぎも素知らぬ振り――だ。けれど、今からはそうもいかない」

「オレが送ってやる。こいつらも一緒に、な」

「君にはできないさ」

「オレだけならできねーだろうけどな」

 ポケットから取り出した鉱石を犬歯で割り、すぐに転移術式を展開する。四角形に切り取られた空間の歪みが発生したのは、これが小夜の術式であって、そうでないからだ。

「サギお手製の魔術品だ。これならいけるだろ」

 もう空間の歪みに喰われてしまった、喫茶SnowLightへ。

「本当に恐ろしいな、君たちは」

「オレよりゃサギが、だろ」

「それも含めてってことさ。作れる鷺城さぎしろ鷺花さぎかも、使える君もね。さて――じゃあ僕は行こう。行くよ、そして少しばかり昔を思い出して浸ろう。時間は」

 躑躅紅音に許された時間は、多くあるのだから。

 一人だけ残されたその場所で、もう一本だけと新しい煙草に火を入れた小夜は本棚に背を預け、視線を左下に落とした。

 書庫を圧迫している本は雪芽が記した〝原初の書ツァイヒング〟だ。それは雪芽の法式が消えても、ここにまだ存在している。読めるかどうかは問題ではない――存在していることが問題だ。

 本来ならばここごと消滅してもおかしくはない。

「抗いの結果か」

 あえてここを残したいと思ったのではなく、エルムレス・エリュシオンを含めた人間が世界に対し抗った結果――なのだろう。

 善し悪しはともかくも。

 結果は出ている。

 それを確認するためにも、小夜はここへ来たのだ。

「……ま、どっちにせよ関わらず暗躍か。サギみてえに、何もしねえで表に出るだけの度胸がありゃな」

 いや、そもそも、できることが違うのだ。こうなるのは当然だし、羨ましいとも思わないが。

 そうして、最後の一人がその場から消える。

 僅かに、香草の残り香を置いて。


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