09/24/15:00――鷹丘少止・その怖さを前に
「――怖い?」
道場の中で大の字に横たわって数分、ようやく呼吸が落ち着いてきて、流れ落ちる汗が妙に気になりだして、どこにタオルを置いたんだったかと疲労の中で考えていた
「怖いってのは、なんだよ?」
「だから……ええと、なんだろう」
「なんだろうって、お前なあ。だいたい、急になに言ってんだこの野郎。俺にもわかるように言ってくれ」
少止と紫花との付き合いは、そろそろ三年くらいになる。同じ学園ということもあって、話す機会もそれなりにあったし、入学より少し前くらいに、少止が躰をそれなりに鍛えたいという要望と共に雨天を訪れたのが切欠だ。
「そりゃなんだ? あれだ、なんつったか、
「違う。全然違うからそれは」
「ヘタレめ」
「うるさい」
上半身を起こしてお茶を受け取る少止だが、たとえば朝霧芽衣と話していた時とは雰囲気がまるで違う。それは隠しており、騙していることにほかならないが、そもそも少止の生き方とは、そういうものだ。
罪悪感など、抱くはずがない。
「僕と紫陽花はそういう関係じゃないよ」
「へえ? つったって、言い寄られてるって困ってんのは、お前じゃなかったっけ? 前にぽろっと相談してたじゃねえか。相手の都合なんか気にすんなよ、結局は紫花がどうだって話だろ。否定するこたねえと、俺は思うけどな。あ、これ他人事ってやつだ。あははははは」
「まったく……と、いや、そうじゃなくてさ。たとえばだよ?」
「おー、たとえば」
「何度か手合わせはしてるけど、少止は僕が怖いと思ったことはある?」
「は? 怖いって……いや、ねえよ。だってお前、怖くねえじゃん」
「たとえば、僕が本気で挑んだとしても?」
「変なこと言うなよ。挑むってのは、格上に対して使うもんだろ? そこんとこ、実際にどうなんだって話だ。だいたいその怖いってのは、相手がマジだったから、そんな気持ちになったってのか?」
「ああ――ええと、僕の話じゃなくて、凛の話なんだけど」
「都鳥? へえ、そうなのか。いやそりゃ又聞きじゃねえか。紫花はどうなんだ?」
「僕は親父とやり合う時とかにあるよ。それが同じものかどうかはわからないけど」
「そんなもんか? 怖いねえ……どーだろ。なんつーか、そいつは」
そいつは、何だろうか。
言葉を唐突に切った少止は、額に手を当ててため息を下に落とす。
「――クソッタレ、面倒なことになりそうだ。どーしよ」
「うん?」
「逃げ場が封じられた時ってのは、結局諦めるか、抵抗するか、その二つだよなって話。で、どっちが面倒って、両方面倒なんだよな。つまり紫花、逃げ場ってのは封じられたら終いってことだろ?」
「いや……急に何を言ってるのか、さっぱりわからない」
「俺だってわかってたんだぜ? だからって、望んでいたわけでもねえのに――」
少止が顔を上げる。けれどその視線は紫花ではなく、出入り口から外へ向けられており、なんだろうと背後を振り返るように見ると、一テンポを空けるようにして彼女、鷺城鷺花が夏場だというのに、黒色のコートの裾を揺らすようにして顔を見せ、すぐに目を細めてから両手をコートのポケットに入れた。
「鷺花」
「ん、ただいま。戻ったから、今晩の食事増やしといて――って、それだけのつもりだったのよ。少止がいなければ」
「え? あ、そういえば、少止とは……ん?」
舌打ちが一つ、座り込んだ少止は頬杖をつくようにして顔を背けた。
「……で? なんの話?」
「ああ――鷺花は、誰かと対峙した時に、怖いって思ったことはある?」
「へえ……」
道場の入り口に右手を添えた鷺花は、詰まらなそうに言う。
「それ、紫花の話?」
「凛の話でもあったけど、僕も親父と鍛錬する時には、そんなことを思う時もあるから」
「なるほどね。ところで、少止は何でこんなところにいるわけ?」
「うるせえな、随分と前から俺は紫花と遊んで躰を作ってんだよ。そういう間柄でいいじゃねえか。そりゃ俺だって、鷺城がツラを出すことを予想してたけどな、できりゃ顔を合わせずに済んだ方が面倒がなくて済む。クソッタレな話じゃねえか」
「文句はないわよ? ――余計なことは言うけれど」
だから嫌だったんだと、少止はごろんと寝転がって背を向けてしまう。だが、鷺花は靴を脱いで道場の中に入ってきた。
「恐怖ね。誤魔化してないで、言ってやったらどうなの、少止」
「言うって、何をだ」
しぶしぶ、躰を起こした少止は鷺花に蹴飛ばされる前に顔を合わせる。一体どういう関係なのだろうと、紫花は腕を組んでいた。
以前、学園で大勢が顔を合わせていた中に、少止と紫花は一緒にいた。けれどその時の少止はこんな気配を作ってはいなかったし、隣に火丁もいたのだ、気付かなかったのならば、それは少止の成果だろう。
隠して、誤魔化している。
けれど紫花には通用しても、鷺花には無駄だ。
「怖いから動けなかった、なんて甘ったれに現実を教えてやれって言ってるのよ」
「なんで俺が……」
「私が教えることは禁じられてるもの」
「……二人は知り合いなんだ」
「まあね。けれど、まあ、少止に対しては不満も少しあるのよ、私としては」
「ふうん?」
「――あのな」
余計なことを言われない内に、仕方なく少止は口を挟む。視線は紫花に向けて、だ。
「さっき、言ったろ。逃げ場がねえなら、諦めるか抵抗するかの二つだ。怖いから動けねえ――つーか、そもそも怖いと思った時点でそりゃ諦めなんだよ」
「そうかな? 怖くても、それに抵抗することはできるじゃないか」
「馬鹿、そんな一般人レベルの話をすんな。お前は武術家だろうが……相手を怖いなんて思えたら、そいつは、もう手遅れなんだよ」
「……よくわからないな。少止は、怖いと思ったことはないんだよね?」
「ねえよ。けど、――怖かったと、そう思うことはある」
「ん? それは、後でってこと?」
「そういうことだ。どんな状況でも、感情なんてのは切り抜けてからの問題だ。生き残ってこそだろ。鍛錬だろうが何だろうが、戦闘の最中にんなこと考えてるなら、とっとと背を向けて逃げろって話じゃねえか」
「そんなものかなあ……」
「鍛錬ならなおさら、挑めよ。怖くて足を止めて何もできねえなんて、どんだけの経験値になるってんだ」
「――言うじゃない」
「おい、鷺城が言えって……ああもういい、面倒だ」
「そういうあんたはどうなのよ?」
「あ? 俺は俺だ、いつも通り」
「いつも通り、ねえ。見る限りじゃ紫花に手も足も出してないみたいだし」
「馬鹿言え、手も足も出ねえっての」
「体術のみ?」
「え? ああ、うん。少止とやる時は体術のみで、ほとんど寸止めかな」
「術式が使えなくたって――」
鷺花は、呆れたように言う。
「――紫花に一発を叩きこむくらいは、できるでしょうに」
紫花にとっては、それを断言する鷺花にも驚いたが、むしろ、術式が使えることが初耳だった。見れば少止は、クソ面倒だと言わんばかりに頭を掻いている。
「そうなの?」
「紫花から見て、どうなのよ」
「どうって……そんなこと、考えもしなかったよ」
「そうよね。つまり、そんなことは少止の目的ではなかった上に、する必要もなく、見せる必要もないのならば、隠すか、誤魔化せばいいと、そう思っての判断に、紫花は騙されていたわけだけれど」
「ずけずけと言いやがって……」
「事実でしょ? 紫花には、自分が狩人であることも隠してるわけだし」
「――え、そうなの?」
「だーかーらー、俺と紫花はたまに逢って遊ぶくれえの間柄だって、それでいいじゃねえか。余計なことをつらつらと並べんな」
「見せたくはなかった?」
「あのな……そうでもしなくちゃ、紫花と遊ぶなんてのは、雨天の御大が許すわきゃねえだろ」
「そうかしら――でもまあ、私が気にしていたのは本当のこと。この際だから、ちょっと見せなさいよ」
「やなこった」
「逃げられると思う? 言ったのはあんたよ。逃げ場がないなら」
諦めるか、挑むしかない。
そして鷹丘少止にとって諦めるとは、死ぬことと同義だ。そんなことを己に赦してはいない。
だが、そこへ、家主である
「おい――ん? なんだ、妙な気配かと思ったら鷺花じゃねェか」
「なんだ、いたの」
「いたのって、わかるだろ」
「知ってたけどね。爺さん、顔を見せた?」
「親父? いや、俺が知る限りはねェな。それよか、なにしてんだ」
「聞いてくれよ暁さん、鷺城が俺に見せろとか言いやがる」
「へえ? 少止は隠してたこと、明かしたのか?」
「勝手に暴露されてんだって。俺としちゃ紫花にゃ面倒かけたくねえって気持ちもあったし、できりゃ勘弁してもらいたいもんだけど」
まあ確かに、無茶だろと暁は言う。
「道場を壊すくらいなら、余所でやれって話だ。鷺花」
「なによ」
「こりゃ相手が違うンじゃねェのか?」
まあそうだけどと、納得する鷺花を余所に、少止は顔を引きつらせる。そこに続く言葉を先読みしたからにほかならないが、かくして、暁は言った。
「紫花、お前が相手をしろ」
「……僕?」
「あー、あーあー、なんでこうなっちまうかなあ。暁さんの見切りにも両手を上げたいくらいなのに、言うにことかいて紫花とやれってかよ。今までもやってたじゃねえか」
「今までやってたのは、遊びだろ? けどなァ、俺はそういう機会にゃ恵まれなかったが、親父……まァつまり雨天
「仕方ないわね……父さんの判断なら、私はそれでいいわよ。ルールは二つ、殺さないことと道場を壊さないこと。いい? 少止はちゃんと、紫花を見てやんなさい」
道場の入り口付近に並ぶ二人を横目に、少止はしぶしぶと立ち上がった。
「どいつもこいつも勝手言いやがって……なあ?」
「なあって、僕に言われても。少止がいろいろ隠してたのは気にしてないし、僕は経験だと思ってるからいいんだけど、少止が本気で嫌だっていうなら、僕もそれで構わないよ? どんな事情があるにせよ、僕と少止は、そういう付き合い方をしてきたわけだから」
「いいさ、こいつも延長上ってやつだ。……八割方、面倒だけどな」
「はは、そう言っても付き合ってくれるのが少止だ」
「うるせえ。……ま、とりあえず言い訳な」
「うん?」
「今まで手を抜いてたと思われちゃ癪だろ。いいか紫花、今からやるのは戦場の流儀だ。ま、俺のやり方ってんのかな……とりあえず、今までのことは忘れてくれ」
「わかった。そのつもりでやるよ」
「オーケイ。おい鷺城、ちゃちゃ入れるんじゃねえぞ」
「入れられたくないなら、ちゃんと見せなさい」
「あとこれ、マジで一つあるんだけど」
やや奥の位置で立ち止まった少止は、入り口付近を振り返り、言う。
「――俺、あとでウィルに殺されね?」
返事がなかった。
「おい鷺城……」
「考えてなかったわ……父さん、お願い」
「俺に言うんじゃねェよ、お前らの世代だろ」
「……うん、そうね、ええ、最悪、私がなんとかするわよ」
「マジ頼むぜ」
真剣にそう言った直後、紫花は、――戦場に戦闘開始の合図があったとするならば、それは銃声であり、攻撃の初手に行われるものなのだと、遅く。
遅く、気付くことになる。
首元を何かが通り過ぎた、そんな違和感と共に。
「――これで一度死んだな」
背後からの声、硬直したように向けられた前方の少止が、黒くなってずるりと解けるように沈み、それは黒色の影となり、自分の一対となる本体はどこだと、慌てて探すようにして紫花の背後に移動した。
そして、気付いて、――紫花は、慌てたように前へ踏み込みながら振り返りの動作へ移行する。この場合、相手の気配を探りながら、相手の行動そのものを予測し、巻き返しの一手を探るのが常道であり、そのための技術は身に着けていた紫花は。
ひどく重たい液体を肩に乗せたまま移動しているかのような錯覚に、重い両足を引きずるような感覚に、けれどしかし、少止の気配の一切が捉えきれていなかった。
ただ、わかるのは。
傍にいる、この重みそのものは、少止の存在だと、そんな確証だけ。
目視確認するしかないと振り向けば、真正面に少止がいて、左腰に佩いた刀を抜いて牽制しようと思えば、既に柄尻が少止の左足で強引に押さえられており、振り払うかどうかの一瞬の逡巡を狙われ、飛び跳ねた少止の右膝をどうにか回避したと思いきや、両腕で首を掴むようにして背後へ回られ、真横に何かがよぎった。
「――二度目」
背中を蹴られ、大きく間合いを取って向き合えば、少止は黒色のナイフを手にしている。それは術式で、影の一部を使って模っただけのナイフで、今は物質として存在しておらず、影を踏んだところで何もないのと同様に、躰をすり抜ける模造でしかない。
二度、死んだ。
それは現実なのに、感覚が追いつかない。やや上がっている自分の心拍を把握しながらも、呼吸すらまともに行っているのかわからないほど落ち着いた、悪く言えば暗澹とした少止を正面に捉え、居合いの姿勢を作っている自分は、何なのだろうか。
存在しているのに、気配がない。防御の気配、攻撃の気配、油断の気配、誘いの気配、圧倒的な何か――そんなものが、欠如している。
何をしてくるのかがわからない、そう思った瞬間、背筋に悪寒が走った。
怖い、だ。
恐怖である。
わからないのならば、わかるように誘えばいい――凛との鍛錬で何度か行っているそんな考えも、即座に否定が浮かぶ。
誘った時点で死ぬのは自分だ。
動けない。
――こんな想いを、凛も抱いたのだろうか。
ふいに、少止は懐を探る――が、冷静に考えれば煙草は持ってきていなかった。まあいいかと思いながらも、硬直して動けない紫花に向けて、無造作に左足を持ち上げて、自然体のまま、床を叩いた。
その音に反応した紫花が選択したのは前、だった。
――そういうことだ。
二択ならば、選ぶのは前へ。そうでなくては、紫花ではない。
正直に言えば、そもそも純粋な体術において、少止は紫花に及ばないどころか、足元にすら位置していることを自覚している。それは見切りに関しても同様で、たとえば紫花が一ミリの距離で回避可能なものが、少止の場合は五センチ幅になるくらいだ、そのくらいのアドバンテージがある。
だから、まず第一に少止は、それを悟られないこととする。
対一戦闘の条件は、弱味を見せないことだ。できるのならば、あらゆる行動に対して余裕を見せられるくらいがいい。どれほど切羽詰っていても、子供を転がしてあやす大人の気持ちでいるのがベスト。これは気持ちの問題ではなく、態度だ。
そして、だからこそ、得体の知れなさを演出するといい。攻撃や防御にパターンを作らず、状況に応じて動き、己を分析させない。
場合によっては、そのために、あえてぎりぎりの状況を作るのも得策になるが、それは戦闘が長引く場合だろう。今はまだ、その時ではない。
居合い。
高速で放たれる攻撃の軌跡を目で追うことすら適わず、防ぐこともできないそれを回避できたのは、単純に踏み込み時に発生する〝停止〟の姿勢からの挙動、つまり攻撃への移行に際して、刀の向きと力の入れ具合から、刀の移動範囲を予想したに過ぎない。
紫花が選択したのは竹割、上から下への居合い――そして居合いとは、放ち、鞘に戻すまでが一連の動きであり、その間に必ず発生する停止を、どうするのかと思えば、どうもしないわけで、停止から戻しに移る段階で位置を変えようとする紫花は、あまりにも手遅れで、けれど最大効力を求めるのならば正しい選択なのだろうけれど、では、雨天暁ならばどうするんだ、などと考えつつも少止は右足で、切っ先が己の股付近で停止したのも見計らい、踏んだ。
厳密には大げさに踏んだわけではなく、引っかけるようにして、戻りの動作へ移行するその瞬間を長引かせたのだ。けれど、かなりの高速で行われている戦闘動作の中で、その瞬間こそが致命的になる。
つんのめるように紫花の姿勢が崩れ、刀から手を離して想定していた通りに動くか、それとも今から戻しの動作にすべきか――その迷いを生じさせるための、短時間。軽く引っかけただけの動作。踏んで押さえきってしまえば、すぐに手を離させてしまう。
そのまま接近してやれば、顎が浮いている紫花の喉を狙える。
右手のナイフを振ろうとした時、紫花は床を蹴って後方へ跳ぶ――だから、半ばまで振ったナイフを手から離し、そのまま投擲。だがそれを躰を捻るようにして回避した紫花は、腰に手を伸ばして引き抜いた銃を向けている少止を。
――っと、そうか、拳銃持ってねえな。
見ることもなく、床を蹴るように姿勢制御した紫花は、再び居合いの姿勢に戻って停止した。
相変わらず、冷静を装った視線を向けながら、自然体のまま少止は思う。
どっちにせよ綱渡りだ。今はまだ先手を打てて、あるいは逆手を取れてはいるが、おそらく、後手に回っても巻き返せるのはせいぜいが一手か二手までだ。体術、つまり基礎である部分で大きく差が開いている以上、この道場の中では基礎を覆せる経験を生かせるだけのものがない。
だからこそ、紫花と手合わせを今まで行ってきたのだ。
自分に足りないのは基礎であると、自覚しているが故である。
けれどそれも、少止の師匠でもあるイヅナに言わせれば。
――基礎なんていらないぜ? 俺は俺の師匠からそう教わってる。
などと言うのだから、一体どういうことかと頭を抱えたくもなるが。
いずれにせよ、どこまでこの誤魔化しが通じるのか、そこはかとなく不安もあるが、まあ――できるだけ、やってやろうじゃないか。
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