10/17/00:50――哉瀬五六・鷺ノ宮事件
今日は早上がりになってしまったなと、自室に戻った
仕事の量は日によって違うが、五六の仕事はあるじの補助だ。故にあるじの仕事が直結する。もちろんその他にも詰め所との連携や侍女の補佐なども含まれるが、そんなものは微微たるものだ。
定時はない。
そもそも五六にとっての睡眠は整理時間でしかなく、かつてと同様に今もまだ睡眠だけは名残を見せている。
大きくなったものだと感慨に耽るのはまだ早いか。
何しろこの、今の鈴ノ宮は当主である
――もっとも、五六はその頃から補佐ばかりしていたように思うけれど。
「敬語も板についたことですし、お嬢様のフォローも慣れてはきましたが」
かつてでは想像すらできなかっただろう。いや、今を生きるのに必死だったかつてなら想像すらしなかったに違いない。
その点は感謝している。多少……いや、かなり、――だいぶ強引だが、性格は性格だ。よしとしておこう。
――きっと。
きっと、五六がそれに気付いたのは事前知識だ。もしも事前に聞いて予想していなければ、その微細な変化に気付くことはなかっただろう。
けれど――気付いた。
ネクタイを解いた瞬間に身動きを停止させた五六は、目を見開いたまま――鼓動一つぶん停止し、その音色で弾けるように部屋を飛び出した。
黒を基調にしたスーツ姿はいつものこと。ただネクタイを片手に廊下を、足音一つ立てずに早足で移動した五六はノックも忘れ、応接間の扉を開いた。
「――お嬢様!」
終わりと言ってからまだ間もなく、白を基調にしたドレスのような衣類に身を包む鈴ノ宮清音は執務室に座ったまま、肘を立てて両手を組み、そこに額を押し当てていた。
「騒がしいわよ五六、落ち着きなさい。イングランド人を見習うといいわ」
身だしなみを、と付け加えられた言葉でネクタイに気付き、素早く結んでから扉をゆっくりと閉めた。
「失礼しました。――しかしお嬢様」
「始まったようね。いえ」
終わったのかしらと呟いた言葉に、五六は返答できない。
「感傷に浸るのは早いと言わないのね」
「私よりもお嬢様の方が付き合いは長いかと……それに、お嬢様はまだ感傷に浸ってなどおりません。そうでしょう?」
「――そうね」
吐息を落とし、顔を上げる。肌の色はやや白く、紅の目立つ冷たい女性は、内心の暖かさを表に出そうとはしなかった。
「
もういない人間を相手に、そう口にできる清音に五六は微笑んで頷いた。彼女はそうでなくては、美しくない。
「詰め所に連絡をなさい。ジィズとシェリルを呼ぶように。第一種篭城配置」
「かしこまりました」
内通連絡は執務机にあるため、清音の隣に移動して手を伸ばす。案じる意味で視線を投げると苦笑を返された。
心配は無用。まだ大丈夫、だろうか。
『はい、詰め所です』
出たのは男性、けれど責任者ではなかった。誰かしら起きているようにローテーションを組んでいるので起きている誰かがいるのに疑問は持たない。
「五六です。全館通達、第一種篭城配置。ジィズ・クラインおよびシェリル・リルの両名に執務室へ出頭するよう伝えて下さい」
『――諒解しました。第一種篭城配置、全館通達。お二人へは今すぐに』
「お願いします」
状況に応じていくつかの分類をしているが、二種を飛ばして初めての稼動が第一種だったことに驚きも躊躇もなく、いつも通りの返答と指令の復唱を彼はした。
当然だろう――ここに居る侍女も含め、軍隊にいた経験のある者ばかりだ。もちろん年齢としては、まだ十代の者が多いのだけれど、国と呼ばれる仕組みの暗部に踏み込む説明は省こう。だからこそ、この屋敷に居る人間は日本人が少ないのだが。
「続けて、Rabbitへ直通連絡、
「内容はいかがいたしましょう」
「三名の狩人に鷺ノ宮邸の調査を当てなさい。依頼主は――ソプラノ。隠語にもならないけれど、それでも鈴ノ宮を名乗るのはやめておくこと。それと……そうね」
五六は携帯端末を取り出す。主にプライベイトで使うものだが、専用回線のほとんどがこちらに入っているからだ。
「〝
「承知しました。では失礼します」
一度断ってから電話を耳に当てた。今では耳にかける小型タイプの携帯端末もあるのだが、未だに五六はネットの利用を前提としたディスプレイが大きなタイプだ。こちらはイヤホンマイクが収納されているため電話としての利便性もそれなりにあるが、清音にも会話を聞かせたい以上、耳に当てるしかない。
『Rabbitの
「鈴ノ宮家執事、五六です。直通依頼なのですが、よろしいでしょうか」
『あら、そう。……早いわね。気付いたのは清音かしら?』
「ええそうです」
実際には五六もだが、執事である以上は主を持ち上げるのは当然のことだ。
「迅速に、三名の狩人を鷺ノ宮邸の調査に送り込んで下さい」
『それだけならば簡単よ』
「はい。ただし内一名に狂壊の仔を混ぜたいのです。彼らの動向についての情報はありますか?」
『嫌なことを問うわねえ。〈
「ではフェイ様の名で受け付けて下さい。連絡はこちらから致します。他二名についての指示はございませんが、狂壊の仔を宛がうのはご遠慮願います」
『結構よ。……次は、仕事抜きでの連絡を待っているわ』
「申し訳ありません如月様。次はそうさせていただきます。――では、失礼します」
『武運を』
やはり彼女もまた、状況を察している一人らしい。通話を切断し、流れる作業でフェイへの直通連絡先を指先が探す。
「――アブもいるなら、べつの仕事を頼むわ」
「はい」
電話が繋がり、何かを記していた手が止まって清音が紙面を横に滑らす。そこにあるのが指示内容だ。
「鈴ノ宮家執事、五六です」
『――あら、誰かと思ったわよ。よく知っているわね、この連絡先を』
「以前にいらっしゃった時に。依頼があるのですが、よろしいでしょうか」
『なにかしら? 今、一仕事終えた後で疲れているのだけれど』
日本中にある
「Rabbitから狩人三名へ、鷺ノ宮邸の調査依頼が出されました。一刻を争う内容です」
『……いいわよ。鷺ノ宮には好感を持っているから』
「他二名と一緒に踏み込んで下さい。しかし、これは可能性の話ですがおそらく、既に誰かが侵入した形跡が認められるはずです」
それはきっと、狂壊の仔と呼ばれる彼らならばすぐに見つけられるだろう。その辺りの狩人では、どうなのかわからないが。
「現場を保持したまま、侵入の形跡その悉くを消して下さい。他の二名には決して気付かれぬよう、ただ一つのもれもなく」
『――高いわよ?』
「鈴ノ宮清音様のご決断と受け取って下さい」
『そう……では国外に飛ぶ前に一度、顔を見せに行くわ』
「ええ、その折には是非。フェイ様、お願いします」
『依頼を受け取ったわ』
そして、依頼を果たさぬ狩人はいない――。
続けてアブへ。
「――」
けれど、発信を押して耳に当ててから指令内容を見て僅かに眉をひそめた。疑問を放つよりも早く繋がり、そして。
そして誰よりも清音を信頼している五六が、その内容を疑いはするものの否定するはずがなかった。
『おう、誰だ?』
「鈴ノ宮家執事、哉瀬五六と申します」
『ん……ああ、ああ、お前か。ベルと一緒にいたっけなあ』
「野雨市にいらっしゃるようなので、依頼が一つあるのですがいかがでしょう」
『内容を言えよ』
「今すぐ、橘邸を襲撃して下さい」
『――はあ!?』
「失礼、端的過ぎました。厳密には橘の邸宅を爆破などによって破壊するだけで結構です。中に誰かがいたのならば、生存させたまま邸宅だけを壊して戴きたいのです。もちろん、死者を出してはなりません」
『おいおい、俺は橘の恨みなんぞ引き受けるつもりはねえぞ』
「――それはこちらで引き受けます。故に、現場で依頼完了後、橘の人間に鈴ノ宮の名と共に
『はあ? それで橘が納得するとでも?』
「ええします。清音様と橘様とは旧知の間柄でございますから。いかがでしょうアブ様」
『因縁とかって間柄じゃあねえよな? 古い因縁ってのが一番厄介だ――が、いいさ。鈴ノ宮との繋がりをくれるッてんなら、安い仕事だ。面白そうだし受けてやるぜ』
「お願いします」
『おう。国外に出る前にそっち顔出すわ』
「――ええ。お待ちしております」
同じようなことを言うのだなと苦笑しそうになったが、丁寧な言葉で締めくくった。
電話を切ると間もなく、ノックがあった。これではアブへの疑問を口にする暇はない。けれど、それこそ急ぐものではないかと五六は定位置、清音のやや左後方へ直立した。
「入りなさい」
失礼しますと女性の声、侍女服を来た小柄な金髪紅眼の少女と体躯の良い碧眼の男が中へ入ってきた。
「おう。第一種とは、緊迫してるな」
「どうぞお二方、ソファへお座り下さい。急な呼びつけでしたが」
「いや構わねえよ。まだ起きてた……なあ?」
「はい。あの……それで、何が起きているのでしょう」
「鷺ノ宮家が崩壊したわ」
端的に言い、沈黙が落ちたところで清音は、ああと気付く。
「意味合いが微妙ね。ええそう、鷺ノ宮の血縁がなくなったと言った方が正しいかしら。おそらく現状で、既にないわ」
「ま――待て待て待て! 日は浅いが日本国内における鷺ノ宮の重要性くらい俺だって知ってるが、お嬢さん、そんなあっさり――」
「事実よ。もう、動じても変わらないわ」
雰囲気を察した五六が半歩だけ前へ出る。このタイミングは二人の培ってきた時間があればこそだ。
「これより当家は第一種篭城配置をします。敷地内から出ることを禁じ、十五分後には電子機器の一切がスタンドアローンになり外部との連絡がとれなくなります。もちろん電話もです」
「確認だが理由は?」
「ことの一切が終わった時に、鈴ノ宮が干渉しなかった結果を出すためです。何も知らず、何もしなかった――やや極端な対応になりますが、功を奏するでしょう」
「――つまり休暇よ。仕事に手をつけるのをやめて自由になさい。何が起きている? それも、終わった後にわかるわ」
「損害が――」
「出ないわ」
主導権を渡す。これもまた自然な、五六に身についた流れだ。
「損害は出ない。私と、鈴ノ宮と鷺ノ宮は損害の出る関係など、――築いていなかったもの」
――築けなかったのよ。
そう、五六には聞こえた。
「外部への連絡が必要な場合、緊急時のみ打診なさい。五六か私が起きているから」
「……わかりました。侍女たちへは私から伝えます」
「しょうがねえな。野郎連中には俺から言って含めておく」
「あの、鷺ノ宮さんに関してはあまり知識がないのですが、その辺りをできる範囲で調べてもよろしいですか?」
「勤勉ねシェリル、許可するわ」
「ありがとうございます」
二人は立ち上がり、シェリルのみ退室時に頭を下げて行った。あの二人は五六たちが最初にここへ連れてきた年長者だ、いろいろと弁えている部分も馴染んだ部分もあろう。
は、と吐息を落として脱力した清音は目を閉じる。机の上の左手が書類を握ろうとしていたため、そこに清音と五六の二人しかいないからこそ、そっと手を重ねた。
「――五六」
「はい。……このような場合、我慢しないでくださいと言えれば良いのですが」
既に清音は個人でありながらも、鈴ノ宮という屋敷に住む全員をその背中に負っている。だから弱気になれ、などと執事である五六が言えるはずがない。
けれど、それでも哉瀬五六という個人が震える手を取ることくらいはできる。
「あの時と同様に、私は傍にいます」
「ありがとう」
大きく吐息を落とす。躰を震わせながら、けれどその感傷を抱きしめるように。
「――私も、やるべきことをやらなくては」
「はいお嬢様」
物語は始まったばかりだ。これからどうなるか、まだ彼らにはわからない。
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