第14話 優しさはオレンジの香り

「どうしたの、ダリウス? ……目が充血してるし、目の下にすごいクマが……」

 長い前髪の下から現れたダリウスの顔は、ひどく疲れ切っていた。血の気が引いて蒼白で、そのせいで儚げに見える。

 もう一度風が吹いたらダリウスがさらわれてしまいそうで、不安になってフィオーネは駆け寄った。

「大丈夫? どこか悪いの?」

「……フィオ」

 ゆっくり体を起こしたダリウスは、フィオーネの視線を避けるように前髪をくしゃりとして目元を隠してしまった。

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから……」

 まるでフィオーネから逃げるように、ダリウスは立ち上がった。

 全身から“放っておいてくれ”オーラが放たれているけれど、その動きはヨロヨロとしていて放っておけるはずがない。何より、ダリウスらしくなくて心配になる。

「全然大丈夫じゃなさそうだよ。寝不足って、試験勉強?」

 ふらつくダリウスの身体を、フィオーネは横から支えた。それを拒もうとしたけれど、結局力が入らず、ダリウスはおとなしくなった。

 でも、まだ受け入れたわけではないらしく、目を合わせぬよう、うつむいている。それでもいいかと、フィオーネは歩きだした。

「嫌かもしれないけど、医務室に来て。……そのまま帰すわけにはいかないよ」

 腕をつかんで歩きながら、フィオーネは言い訳みたいに言う。自分でもどうしてこんなに放っておけないのかわからなくて、無理やり納得させるかのように。

 それきり何も言えなくて、会話もなくふたりは医務室へと歩いていく。その横を、カイザァもお利口にちょこちょこついてきた。

「……試験勉強、大変なの?」

 医務室に帰り着くと、フィオーネは棚に向かいながらダリウスに尋ねる。けれど彼は椅子に腰かけてうなだれたまま、何も答えない。

 いつもの、やたらとフィオーネに構ってくるダリウスとは別人のようだ。

 それほどまでに疲れているのかと、フィオーネは一度手にした瓶を棚に戻し、別のものを取った。

「手、出してね」

 黙ったまま抵抗しないダリウスの手を取ると、フィオーネはそこに瓶の中の液体をふりかける。数滴ふりかけてから、今度はそれをよく揉みこんでいく。

「……オレンジの香り?」

 ぽつりと、ダリウスが聞いてきた。フィオーネが視線を上げると、そこには昏(くら)い瞳があった。でも、微笑もうとしているのがわかって、フィオーネは少しホッとした。

「ラベンダーのオイルにしようと思ったんだけど、やっぱりオレンジがいいかなって」

「どうして?」

「私のお気に入りの香りだから。私もうんと疲れたときは、このオレンジのオイルをランプで焚いたり、これでマッサージしたりするんだ」

 言いながら、先ほどとは反対の手もマッサージしていく。顔色は悪いままだったけれど、わずかに表情はやわらかくなっていった。

 リラックス効果はラベンダーのほうが高い。でも、フィオーネはこのオレンジの香りのほうが好きだ。皮を剥いたばかりのオレンジのような甘く爽やかな香りは、気持ちを明るく元気にしてくれる気がするから。

「……ねぇ、フィオ。わがまま言ってもいい?」

 ふいに、ダリウスが言った。

「なあに?」

「このオイル、ちょうだい」

「いいよ。気に入った?」

「うん、それもあるけど……フィオがほかの人にマッサージしたら、嫌だから」

 わがままと聞いて一体何を言われるのだろうと少し身構えていたから、その子供っぽいわがままにフィオーネは笑ってしまった。そして、いつものダリウスらしさが戻ってきたことに安堵する。

「大丈夫。このマッサージは今日だけ特別」

「……できたらそこは『ダリウスだけ特別』って言って欲しかったな」

 唇をとがらせる表情はほとんどいつものダリウスで、それがうれしくてフィオーネはまた笑った。

 どくしてだかわからないけれど、ダリウスに元気がないのが嫌だったのだ。

「フィオ……卒業したくないよ」

 しばらく手をクンクンとしていたダリウスが、ボソボソと呟いた。

 今回の前期試験と半年後に実施される後期試験をクリアすれば、ダリウスは無事卒業だ。卒業すれば、次は働き始めなければならない。それが嫌なのだろうかとフィオーネは考えた。

「大変だけど、自分でお金を稼ぐって、なかなかいいものだよ」

 一足先に働いている先輩として、エッヘンとフィオーネは腰に手を当てて言ってみる。

「……そっか」

 さらにトーンダウンしつつも、ダリウスはフィオーネの言葉を苦笑を浮かべて受け止めた。


 その日の夜。

 フィオーネが風呂を済ませてくつろいでいると、ドアがノックされた。医務室のではなく、奥の居室のほうのドアだ。ということはよほど気分が悪い人か、医務室にではなくフィオーネに用がある人ということだろう。

「はい。どちら様ですか?」

「私よ、アンヌよ」

「あ、どうぞどうぞ」

 意外に思いつつも、誰だかわかって安心してフィオーネは鍵を開けた。ドアの向こうには、ゆったりとしたワンピースにショールを羽織った、気だるげな色気を放つアンヌがいた。

「夜分にごめんなさいね。……ちょっと、お話したいことがあって」

「はい、大丈夫ですよ」

 すっかり休息モードになっている自分と、夜でもそうしてきれいにしているアンヌとを比べ、フィオーネは同性に対してなのにドキドキしてしまう。

 でも、アンヌの様子がいつもと少しちがうことに気がついて、すぐに気持ちを引き締めた。

「あの、どうしたんですか?」

 椅子をすすめ、自身はベッドに腰を下ろして、フィオーネは水を向けた。

「ノイバート君のことなんだけど……彼とは最近、おしゃべりしてるのかしら?」

 何となく話を切り出しにくそうにしていたから、どんなことなのだろうと身構えていただけに、その内容に拍子抜けした。

「はい。ここ最近ちょっと顔を合わせる機会がなかったんですけど、今日久しぶりに少し話しました」

 質問の意図がつかめず、フィオーネは首をかしげながら答えた。それを聞いてアンヌがホッとした表情をしたのも気になる。

「そうなのね。それで、どんな感じだったのかしら? ……一年前の前期試験の時期に、休学するきっかけの出来事があったから、心配で……」

「そっか、それで……」

 頬に手を添え考え込むアンヌは、憂いを帯びている。そんなアンヌの言葉に、フィオーネは夕方のダリウスの状態に納得がいった。

「体調は、かなり悪そうでした。中庭で見つけたとき、目は赤いしクマはできてるしで、眠れてないのはすぐわかったので、医務室に連れ帰って手のマッサージしてあげましたけど……」

「そのとき、何か話した?」

「いいえ。……尋ねても、答えたくなさそうでしたし」

 壁があったなあと、夕方のことを思い出してフィオーネは感じていた。いつものダリウスとはまったくちがう、重々しい苦しみに満ちた感じだった。

「こういう心の問題は、本当なら私の仕事なんだけれど……もしかしたら、フィオーネさんには話すんじゃないかと思って。話すことで気持ちを整理して、前に進むことが今の彼には必要だから」

 飄々としてミステリアスな印象しかなかったアンヌが明らかにうろたえているのを見て、フィオーネも戸惑った。それほどまでにダリウスの抱える事情は深刻なのかと、不安にもなる。

「あの……一年前、ダリウスには何があったんでしょうか?」

 知らずにいることはできないと、フィオーネは思いきって尋ねてみた。でも、それに対してアンヌはゆっくりと首を振る。

「私の口からは、話せないの。私が知っていることなんて所詮外側から見たことにすぎないし、断片的なことでしかないわ。それに、ノイバート君はこのことを又聞きであなたに知られることは、絶対に望まないと思うから」

「それはつまり、自分で尋ねてみなさいってことですか?」

「私からお願いするのも変だけれど……できることなら」

 話しながら、アンヌの憂いはどんどん濃くなっていく。よほど、この件は難解で繊細なことなのだろう。

 ダリウスのことが心配でたまらないという気持ちは、当然フィオーネにもある。

 でも、そんなに事が深刻なのだとわかると、足踏みしてしまう気持ちもあった。

「わかりました。……彼の負担にならないように、うまく聞き出してみようと思います」

「ごめんなさい。お願いね」

 考え込んで、それでもフィオーネが承諾すると、アンヌは安心したように部屋を出て行った。

 残されたフィオーネは、深々と溜息をつく。

 ダリウスが抱えているであろうものを思うと、どうしても気分は下向きになってしまう。

 彼のことが心配なのは確かだけれど、事情を深く知ってもいいのだろうかというためらいがある。ダリウス自身が話したがるかどうかもわからない。

 それに、もし話してくれたとしても、それはフィオーネの手に負えるものなのだろうか。聞いたくせに抱えられないと放り投げることは、絶対にしてはいけないことだ。

 だからこそ、フィオーネはダリウスの話を聞くことが怖いと感じていた。

(知りたい気持ちはあるけど、迂闊には触れられないよ。……アンヌ先生もそんなんだろうけど、私だって、触れていいかなんてわからない……)

 そんなふうに考えながら、フィオーネは疲れて眠りについた。



 それから一夜明けて、いつもより早い時刻にフィオーネは目が覚めた。というより、起こされた。

 ドンッドンッと、力強くドアがノックされたのだ。医務室のほうのドアだ。

 眠い目をこすり、壁の時計を確認すると、いつも起きる時間よりも一時間も早い。でも、夏の朝は早いため、カーテンの向こうはすっかり明るかった。

「もー、わかったってばぁ……」

 仕方なく起き上がり、ベッドの上で最低限の身なりを整えている間にも、ドアは叩かれ続けている。そんなに叩き続けられるなら十分に元気じゃないかと思いつつ、ローブを羽織ってドアを開けた。

「あ"あ"……あ"あ"ぁ"……」

「ゾンビ!?」

 ドアを開けると、奇声を上げ、今にも倒れ込みそうになっている人の姿があった。

「先生ぇ……目が冴える薬を、薬をください……」

 怪しげなゾンビは、ヨロヨロと顔を上げると、そう言ってフィオーネに手を伸ばしてきた。

 ボサボサでボロボロではあるけれど、よく見ればその人物の髪は赤い。それに気づき、フィオーネはようやく目の前の人物の特定ができた。

「そんな怪しげな薬、あるわけないでしょ。あっても渡さないわよ、ルルツ君」

 フィオーネは、赤毛のゾンビ――グリシャにそう声をかけた。

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