第45話 行かないで

 翌日、俺は遂にダウンした。食べ物を一切受け付けないのだ。食べても全部戻してしまう。仕方がないのでそのまま会社へ向かったが、会社に着くと今度は酷い下痢に見舞われてトイレから出られない。

 汚い話だが、上からも下からも徹底的に出して、腹の中が空っぽになったところでやっと落ち着いたと思ったら、デスクに戻るなりぶっ倒れたのだ。

 意識はちゃんとあるのにまるで力が入らない、とにかく内臓がひっくり返ったような感じで、訳が分からないまま救急車に乗せられて、問答無用で病院に放り込まれてしまった。


 非感染性胃腸炎と言われた。簡単に言うとストレス性の急性胃腸炎だ。こんなところでメンタルの弱さを露呈することになろうとは予想だにしなかっただけに、その事実が更に俺を凹ませた。

 だが、いつまでも意気消沈しているわけにはいかない。『ヨメたぬき』の改稿が終わってないんだ。まずはアイさんに助けを求めた方がいいだろう。俺の部屋を知っているのは彼女だけだ。頼みの綱はアイさんしかいない。

 俺は奇跡的にポケットに入れていたスマホを取り出して、アイさんに電話をかけてみた。だが、コール音はするもののなかなか出てくれない。忙しいんだろうか。また後でかけ直そうかと電話を切ると、アイさんからLINEが入った。


▷ごめん、今、八雲君の声聞きたくないの。


 昨日の事、まだ引きずってるのか。


◀すみません、我儘なのはわかってます。非常事態なんです。アイさんにしか頼めないんです。今病院にいます。救急車で来たので、何も持って来てなくて。

▷え、どうしたの? 待って、電話する。


 すぐに着信がある。ここは病院だった、音は切っておかないと。


「もしもし、八雲君?」

「アイさん、すみません」

「どうしたの? 何かあったの?」

「急性胃腸炎で、会社からそのまま運ばれたんです。私の荷物は後で会社の先輩が持って来てくれるんですけど、家から何も持って来てないのでいろいろ困ってて」

「今すぐ行くから。どこの病院?」

「大井町の駅の近くの大井病院です。消化器病棟で私の名前を言って貰えれば……」

「八雲君の名前、教えて」


 あ、そうか。名前、知らないんだ。


「長谷川です。長谷川哲也」

「わかった。大井病院、消化器科、長谷川哲也ね。すぐ行く」



 それから一時間としないうちにアイさんは病室に現れた。まるで頭の回っていない俺に代わって、入院に必要なものを確認してくれたり、書類を書いたり、とにかく俺は百パーセント彼女に任せきりだった。

 彼女に部屋の鍵を渡し、着替えやスリッパ、タオル、カップなどの必需品の他に、『ヨメたぬき』のゲラとモバイルPCも取りに行って貰うことにした。

 アイさんは嫌な顔一つせずにちょこまかとよく働いてくれた。ただただ頭の下がる思いだ。


 その後、一旦アイさんは俺の部屋にいろいろなものを取りに行くために病室を出て、その間に俺は検査やら点滴やらといった普段健康体な俺が滅多にできないような体験をした。

 夕方近くなって、中村さんが俺の荷物を持って現れた。


「よぉ、調子はどうだ?」

「あ、すいません。荷物ありがとうございます」

「持つべきものは営業の先輩だろ?」


 中村さんが得意気にニヤリと笑う。


「そうですね。今日ほど中村さんが営業で良かったと思った日はないですよ」

「個室なんだな、ここ」

「大部屋が空いてなかったみたいなんです」


 まあ、そのおかげで静かに改稿に専念できそうだ。とは言え、俺にそれだけの元気があればの話だが。


「入院準備どうすんだ? お前、身内近くにいないだろ」

「あ、大丈夫です、さっき頼んだので」


 あーマズい。中村さんの顔がめちゃくちゃ嬉しそうだ。


「へぇ、この前のカノジョ、ヨリを戻したんだな?」

「ああ、ええ、まあ、そんなとこです」

「合鍵持ってんだ」

「違いますよ、さっき来てくれたんで鍵渡したんです」

「へぇ、じゃあこのまま待ってたらまた来るのかな?」


 うわぁ、嫌な事考えるなー、あんた!


「当分来ませんよ。待ってるだけ無駄です」

「この慌てぶりは、そろそろ来るって事だな」


 いちいち鋭いなー、この人は。と思った瞬間、ノックの音がして部屋のドアが開いた。


「ごめんね、ちょっと手間取っちゃっ――」


 入ってきたアイさんは、中村さんを見て固まった。俺だけしかいないと思ったんだろう。

 ……あれ? そうじゃない? そういう驚きじゃない?


「中……村?」

「愛花! なんでお前がここに?」

「あんたこそなんでここに?」


 え? 知り合いか?


「コイツ、俺の会社の後輩なんだよ」


 え、まさか! そういう事だったのか? 嘘だろ? 嘘だと言ってくれ!


「そういうお前こそ、長谷川とどういう関係?」

「あ、あたしは……その……」


 口ごもるアイさんに代わって、俺は中村さんにきっぱりと宣言した。


「俺の恋人です」



 一時間後、俺とアイさんは気まずい雰囲気のまま同じ時間を共にしていた。

 あれからすぐに中村さんは帰り、俺は心の中のもやもやをどう処理したらいいかわからないまま、背もたれを少し起こしたベッドでぼんやりと点滴チューブの刺さった腕を眺めていた。

 考えたくなかった。でも、どうしても考えてしまう。アイさんは中村さんの何人かの愛人の中の一人だった。しかも彼はアイさんの言っていた「妻子持ちの男」だ。ほっとかれて頭にきて、目立つところにキスマークを付けてやって、奥さんと三者面談したという、例の元カレだ。

 俺がアイさんに別れを告げられて落ち込んでいるときに「キスがありえねーほど下手だったとか?」と言った男が、アイさんにキスマーク付けられた元カレだったなんてな。

 知らない相手だからどうでも良かったんだよ。でも中村さんはよく知ってるんだよ。めちゃめちゃ俺の面倒見てくれてるいい先輩なんだよ。大好きなんだよ。あーちきしょ、もう、気持ちのやり場がねえよ! 二人に一遍に裏切られた気分だよ。

 この沈黙を破ったのはアイさんだった。


「あたし、もう帰るね。今日はもう用事無いでしょ? 八雲君ちの鍵、あたしが持っておくね。明日また来るから。持って来て欲しいものがあったら連絡して」


 俺は何も考えてなかった。考えてなかったけど、身体が反射的に動いて、立ち上がろうとした彼女の手首を摑んだ。


「え、何、あっ」


 俺は彼女の手首をグッと引き寄せて、バランスを崩した彼女を抱きとめた。


「ちょっと、八雲く――」

「行かないで」

「え?」


 もう俺は自分でも何をしてるのか訳が分からないまま、しっかりと彼女を抱きしめていた。


「俺にはアイさんが必要なんだ」

「八雲君……」

「頼むから、もう少しだけ、このまま」


 言葉は必要無かった。ただじっと抱き合った。

 点滴チューブに血が逆流するほどに。

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