第9話

 お尻にひんやりとした感触がして、目を開けた。

 明るかった空は濃紺のベールを纏い、蒸し暑かった病院の廊下は冷たい風が吹きすさぶバス停に変化していた。

 体はもう痛くなかった。けれども妙に怠い。

 私は高校の制服を着て、待合所のベンチに腰掛けていた。


 瞬間ドクリと心臓が嫌な音を立てる。ここは、あの事故現場だ。血まみれの彼が横たわる姿が見えた気がして、咄嗟に目をきつく閉じた。

 震える手をぎゅっと握りしめ、言い聞かせるように唱える。

 ――大丈夫、この世界では起こっていない出来事だもの。

 私は一つ深呼吸をして、煩いほど早鐘を打つ心臓を何とか宥めた。

 幸い、寒いというその事実が、戻ってきたことを強く実感させてくれた。


「戻って来ちまったようだね」


 隣を見れば、おばあさんだった。

 こんな登場、もう驚きもしない。それに、何となく会う気がしていたのだ。


「……戻って、来ちゃった」


 悲しいはずなのに、涙は出なかった。急激な変化に、まだ感情が追い付いていないのかもしれない。


「二度目の恋は上手くいったかい? ってのは、野暮な質問だったね。上手くいってりゃあ戻ってくることなんてないからねぇ。ひっひっ」


 何が起こったのか全てお見通しのはずだろうに、そんなこと言ってくるおばあさんが憎たらしくて仕方がない。でも、反論する元気もなかった。


「……そうね」


 私が素直に肯定したのが余程意外だったのか、おばあさんは笑いを引っ込め訝しげな顔をする。


「お前さん、ちょっと変わったね」

「え?」


 私はそこで自分をもう一度見つめた。

 でも、ショートにした茶髪も、今はもう元の冴えない黒髪ロングに戻っているし、スカートだって膝下だ。


「恰好じゃない、雰囲気さね」

「そう? 何だか頭が回らないの」

「時空酔いじゃあなさそうだね。……ああ、そういやお前さん、風邪ひいてたっけかね」


 ……思い出した。

 そうだ、あの日はおばあさんに傘を貸して、私は代わりに風邪をひいたのだった。


「そうだったわね」


 そのせいで、保健室で休むことになり、あの衝撃的な現場を目にしてしまったのだ。

 思い出した途端、戻って過ごした日々の記憶が怒涛のように押し寄せた。そして漸く私の瞳からは、溢れた想い出が一筋の涙となって零れ落ちた。


 事故に遭う前の楽しかった出来事ばかりが、走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 いつも私を気にかけてくれた、藤倉君のちょっと下がった眉と心配そうな瞳。告白したときの嬉しそうな笑顔。手を繋いだときの彼の耳の赤さまで、昨日のことのように思い出すことができた。

 恋人になってから見つめたこの街は、信じられないほど美しく輝いていた。

 でも、もう違う。鮮やかだった世界は、今日を境に色を失うことだろう。明日の朝、夜が明けたことすら気付けないんじゃないだろうか。

 死ぬわけでもないのに、そう笑いたかったけど、それは叶わなかった。だって私の心は、きっともう死んだも同然だ。

 ここでの私は、藤倉君に愛されていない。鞠だって、学校に来ていない。そして何より、私はD組なのだ。

 一人ぼっち。

 元の世界に戻っただけなのに、奇しくもこの状況は、西本さんの願った通りになったわけだ。

 幸せを知ってしまった後の絶望は、何も知らなかった頃よりも、もっともっと辛いものだった。


「だから言ったのさ。ほっときゃいいって」


 おばあさんは呟く。

 何も言うことができなくて、私は止まらない涙をその答えとした。

 おばあさんは、呆れたようにため息を一つ。

 でもその後ふと何かに気付いたように、学校の方を暫し見つめた。


「まったく、世話が焼けるよ」


 そして両の手を、パンと軽く打ち合わせる。すると次の瞬間、長年切れていた待合所の蛍光灯がぼんやりと灯った。


「本当にこれっきりさね。あたしゃ行くよ。全く、何でこんな……」


 おばあさんはぶつぶつと何か呟きながら、重い腰を上げたようだった。


「ああ、それとね、お前さんと似てるなんて、まっぴらごめんだよ。あたしゃそんな辛気臭くないからね。まったく、やめとくれ」


 捨て台詞のようにそれだけ言って、踵を返す。私の返事なんてはなから期待している様子もなく、おばあさんはそのまま挨拶もなしに暗闇へと足を踏み入れた。

 剥げたベンチが横たわる向こう、一秒も経たずして、その背は闇に溶けるようにして消えた。

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