第4話

 どのくらいそうしていたのだろう。中でがさごそと動く音がして、漸く我に返った。

 藤倉君が秘密にしたがっていたことを、偶然とはいえ聞いてしまったと知られるのはまずい気がして、転がった花束を引っ掴むと、急いで自分の個室へと引き返した。

 どうにか見つからずに済んだ私は、潜めていた息を吐き出すと、自分のベッドに倒れ込む。胸が痛んだけど、それ以上に心が痛んだ。


 もう激しいスポーツはできない――……


 藤倉君のお母さんの声が、耳にこびり付く。

 項垂れる彼のシルエット。そして、覇気のない悔しさの滲んだ声。

 確かに聞きたいとは願ったけど、そんな悲痛な声なんかじゃなかった……


 私はいったい何をしでかしてしまったの? ただ戻って来ただけのはずが、どこでどう間違ってしまったの?


 涙が頬を伝った。本当に泣きたいのは藤倉君のはずなのに。泣いたってどうしようもないのに……


 ――本当にどうしようもないの?


 そんな私に誰かが囁きかける。


 ……どうしようもないわよ。


 ――この期に及んで、まだあなたは後悔していないの?


「う、煩いっ!」


 気付けば声に出して叫んでいた。

 きっとこの事態を心の底から後悔しさえすれば、時戻しは無効になる、そう思わなかったわけないじゃない。

 でも、一度手に入れてしまった幸せを、一度知ってしまった極上の甘い蜜を、手放すなんてどうしてできる?

 あの、何もかもが凍りついた冬の日に、全てを捨てて舞い戻れっていうの?

 そ、それにそうよ、激しいスポーツはできないけど、日常生活に支障はないって言ってたじゃない。運動だけじゃない、勉強だってできる彼には、将来の選択肢がいくつもあるはず。そのうちの一つが潰れたからって、きっとすぐ変わりになるものを手に入れるに決まってる。そして後悔する暇もないくらい、私が彼の新たな夢を全力でサポートすれば良いだけの話じゃない。

 そうすればきっと、私はもっと彼に必要とされる人間になれるもの。


 邪で汚くて醜い私の心。ひたむきに頑張る彼の好きな私はもうここにはいなくて、でもそれだって上手く隠してみせる。

 私は、胸に昏い炎を抱いた。


 ――コンコン。


 突然鳴り響いたノック音に、ビクリとなった。

 誰だろう? お母さんは今日はもう来ない。鞠も帰ったし、琴平さんともさっき別れた。まさか、藤倉君?

 私は咄嗟に、灯された炎を吹き消す。


「はい」


 涙を拭うと、急いでベッドに潜り込んだ。

 同時に扉が開かれ、一人の男性が顔を覗かせる。


「大丈夫か?」


 それは思いもよらない人物だった。


「せ、先生」


 養護教諭の影森先生。


「災難だったな。学校で聞いてさ、これ」


 病室に足を踏み入れた先生が掲げたのは、地元でも有名な和菓子屋さんの袋。


「わざわざすみません」


 慌てて起き上がろうとする私を、先生は「そのままで良いよ」と制した。

「肋骨折ったって話は聞いてるから、気にせず寝てて。これ、藤倉と食いな」


 出された名前に、思わず俯いてしまう。すると先生は空いた椅子に腰掛けながら、私を覗き込んだ。


「泣いてた? どっかが痛いって顔じゃないよな?」

「痛いですよ」

「え?」


 先生は腰を浮かしかける。


「心が痛くて、死にそうです」


 でもそう続けると、困ったように目を伏せて、また椅子に座り直した。


「藤倉の容態、聞いたか?」


 私はそれに無言で頷いた。


「……単刀直入に訊く。

 あの日、誰かに突き落とされたんじゃないのか?」


 予想もしていなかった言葉に、私は驚き、弾かれた様に顔を上げてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る