石岡環

 ――殺して、埋めよう。


 唐突なその提案に、随分と戸惑ったのを今でも僕は覚えている。

 その日、どうしていつもより早く家を出たのかは忘れてしまったけれど、まだ誰もいないであろう教室に入った僕に、間宮が開口一番そう言ってきたのはいやにはっきりと覚えていた。


 必死な形相で、あるいは懇願するように。まるで貫くかのように、僕をまっすぐと見据えた間宮は、ハムスターの飼育かごを指さしていた。


「そういえばそんな事もあったよな」


 同じ小学校でもあった市原は、苦笑を浮かべながらオレンジジュースに口をつける。その隣、そんな昔の話を掘り返して、苦情の眼差しを向けてくる彼女の名前は石岡環いしおか たまきだ。


「来栖が石岡をグーパンチするっていう大事件」

 僕が彼女のフルネームを覚えている理由のひとつがそれだ。小学校三年生のときの話で、まさか今更責められるとは思いもしなかった。


「でもなんで石岡を殴ったんだっけ?」


 市原の疑問に、


「わたしが間宮を殴ったから」


 石岡が答える。その間も石岡の視線は僕から外れない。


「間宮がわたしのハムスターを逃がしたから」


 そうか、と僕は思い出す。あのハムスター二匹は、石岡が持ってきたものだった。、クラスの公認ペットみたいになっていたのだ。

 石岡は、当時から人気者だった。理由は単純明快で、その眉目秀麗な容姿のせいだった。お世辞にもいいヤツではなかったけれど。でも、それでも、石岡がクラスの中心人物となり得たのは、ひとえに可愛かったからだ。


 それもただの可愛いではない。モデルとかアイドルとか、そういうレベルですらない。たぶん、いや確実に。僕は石岡よりも顔立ちの整った人物を知らない。それはきっと、クラスメイトの総意だ。教師も石岡を明確に贔屓していた。


 そんな石岡を殴ったのだから、確かに大事件である。

 僕は担任の教師に殴られて、親にも殴られて、石岡の両親にも殴られた。理不尽だとは思ったけれど、仕方がないとも思っていた。


 だって、誰だって石岡と僕なら石岡の味方をするだろう。間宮と石岡なら石岡の肩を持つだろう。それ以来、クラスの中の風当たりが一層強くなった気がする。


 馬鹿で、愚かだったなと思う。今の僕ならもう少しはまともに立ち回れるのに。

 でも時間は不可逆だから、僕たちが石岡のハムスターをは変えられない。


「……でも、アレはお前がいけないと思うけど」

「ハァ?」


 石岡の鋭利な敵意が僕に突き刺さって思わず怯んでしまう。

 僕は、石岡に嫌われている。なにせ本人に目の前で宣言されたのだから、自惚れでもなんでもない。だから、グラスでも飛んできやしないか心配だったけど、どうやら今日は大丈夫なようだった。たぶん。


「石岡が持ってきて、最初はクラスのみんなで世話をするって話になったのにさ。いつの間にか僕たちの仕事になってたじゃん」


 少ない小遣いからエサを買って、長い休みのときにはその為だけに学校に足を運んで世話をしていたのは、間宮と僕だ。


「だから?」


 石岡は温度を感じさせない声音で問うてくる。


「だから何なの? 感謝でもして欲しいわけ? それとアイツがハムスターを逃がしたことに何の関係があるの?」


 石岡環はこういう人間だ。こういう生き方が許されてしまう、数少ない人間だ。きっと彼女は、こういう風に、自分を省みることなくこれからも生きていくのだろう。


 ――殺して、埋めよう。


 あの日、飼育かごの中を覗いた僕の瞳に映ったのは、頭の半分を失ったハムスターの亡骸と、浅い呼吸で今にも死んでしまいそうな、血を流したハムスターの姿だった。共食いをしたのだ。後から調べて、ハムスターが強い縄張り意識を持った生き物だということを知った。


 ――これを見たら、みんなが悲しむから。だから、逃げちゃったことにしよう。


 あの日、僕たちは悲しみから逃げてはいけなかったのだ。他のみんながそうしたように、泣いてしまえばよかったのだ。

 そうすればきっと、ほんの少しはクラスにも馴染めたのだろう。

 あんな結末にはならなかったのだろう


 、間宮は僕に助けを求めていたのではないだろうか。そんな風に考えることがある。間宮はいつでも正しくて、でも間違いだらけで、間違い探しの間違いの絵だけを見て悩んでいるような、そんな人間だった。



「あんたって昔からアイツのことになるとマジになるよね」

「それはお前の方だろ」

 市原と僕が間宮の話をしているのを聞きつけて、わざわざ席を移動してきたのは石岡だった。


「わたし、アイツのこと嫌いなんだよね。


 今も?


「綺麗事とか理想とかそういう事ばかりを口にして悦に入るアイツが嫌い。世の中そんな風にはできていないのに、そういう部分には目を瞑ってさ。だから、なんてしでかすんだよ」

「まあまあ。石岡も来栖も昔のことなんだからさ、そんなに熱くなるなよな」

 

 なだめる市原を石岡は一瞥して、それからまた尖った視線を僕に持ってくる。


「あんたはどうなの? アイツに中学校生活をぶち壊されて、恨んでないの? アイツのせいで結構散々な目にあったでしょう?」

「自殺未遂……?」

「そう。あんなことをしておいて、今も懲りずに休みの日は駅前でゴミ拾いとかしてるよアイツ。片足を引きずりながらさ」


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