第113話 紡ぎの言葉【4】
入室を請う侍従の声は静かな部屋に響き渡った。
びくりと肩を震わせた皇太子妃の手中から香油瓶が滑り落ちる。空虚な音をたて砕け散った青紫の小瓶から、香油が零れて床面に広がった。
よく熟れた柑橘の爽やかな香りが、あまく辺りに充満する。
気だるく息をつき、割れた小瓶の元にしゃがみ込んだイオルを、シェラートはどこか意識の外で眺めた。
イオルは散らばる破片に手を伸ばしながら、外で待つ侍従に入室を許す。
まもなく清潔な寝衣に着替えさせられたフィシュアが、ファッテの両腕に抱えられ入ってきた。
「そのまま寝かせちゃって。それから悪いんだけど、瓶を割っちゃったの。これも片付けてくれないかしら?」
ファッテは皇太子妃の命をすぐに承諾してから、目を閉じたままのフィシュアを寝台に横たえた。
「妃殿下」
ファッテは重々しくイオルを呼んだ。はっきり呼ばれはしなかったものの初老の侍従の目顔を受け、シェラートも意識をそちらに移した。
「何?」
小首を傾げイオルは寝台へ向かう。ファッテは手近な棚のランプを手に取り、フィシュアの顔まわりを照らした。
「首に手の痕が」
「あら、ほんと。ここまで痕が残るなんて、かなり絞められているわね……。ナイデルかしら?」
「恐らくは」
「容赦ないわね」
悩ましげに眉を寄せたイオルがそっと枕辺に腰掛けた。フィシュアの首元に手を伸ばし、指の甲で痛々しい痕を辿る。
照らし出された首元にはあかあかと手型が浮かびあがっていた。離れた位置からも見てとれる暴力の痕跡にシェラートは驚きを隠せなかった。
吐息を零したイオルが非難もあらわにシェラートを睨みつける。
「手当をしてくれたんじゃなかったの? まさか気がつかなかったの? こんなにひどく絞められた痕に」
鬱血した痕は赤みを通り越し、すでに青くなりはじめてすらいた。
細い指先が痕をなぞっていく。イオルの手がランプの火に照らされ、ことさらほの白く浮き上がる分、凄惨な痕は否応にも際立った。
シェラートは呆然と、だが、食い入るように絞首の痕を見た。
傷はすべて治癒したつもりだった。
本当につもりでしかなかったのだと思い知る。
事実、フィシュアの首筋には男の手形が生々しく巻き付いていて、シェラートの見落としをはっきり証明していた。いくら外廊が薄暗かったとはいえ、これほどの痣を見落とす方がどうかしている。
火傷と切り傷に残っていた
言い訳のしようがない、単純な理由だ。
かわいそうに、とイオルはフィシュアの額を優しくなでた。シェラートはぐっと拳を握りしめる。
「まぁ、フィシュアは無事に戻ってきたことだし……」
母が寝かしつけたばかりの子にするように、イオルがフィシュアの寝顔を覗きこむ。
途端、首に残された痣がイオルの背に覆い隠され、シェラートからは見えなくなった。穏やかな眠りを強制された者が、静かに枕に頭を沈ませているのがわかるだけだ。
イオルが寝台の淵に腰掛けたまま、シェラートを斜めに見あげてくる。
皇太子妃の影の内、フィシュアの首元にあてがわれたガラス片に、シェラートは戦慄した。
さて、と口火を切ったイオルが泰然と脚を組む。
「取り引きを再開しましょうか。さすがに目の前にいたら気にせずにはいられないのでしょう?」
「——なっ!?」
状況の把握が追いつかず愕然とするシェラートの前で、イオルは義妹の喉元に割れたガラスの破片を突き立てた。
無造作に割れたガラスの切り口は鋭く、うすらと切れたフィシュアの首筋に血が滲みはじめる。
イオルは嘲笑った。
「充分? ちっとも充分ではないのよ。手伝いじゃ足りないの。私がほしいのは優先なのよ。いざという時に私の命令に従ってもらわないと困るの。必要なのは絶対的な服従よ。じゃなかったらあなたが優先するのが何かなんて目に見えている。それじゃあ意味がないの」
「何をしているのか、わかっているのか!?
「えぇ。よぉーくわかっているわよ。まさかそんなことで私が手を出さないとでも思っていたの? 正直、この娘がどうなろうと構いやしないのよ」
イオルの言葉に偽りはないようだった。
現に、手元を見向きすらしない。首筋にかかるガラス片がぶれるたび、シェラートは息が詰まりそうになった。
ファッテに視線を走らせるが、侍従に動じた様子はなく、感情を削ぎ落とした表情で皇太子妃の傍に控えている。
シェラートは気が急くまま、フィシュアを引き寄せ避難させようとし、失敗した。あえなく魔法が弾かれ、苦々しく歯噛みする。
「お前も持っていたのか」
「あぁ。ラピスラズリ?」
それならここに、とイオルは足元にかかる裾を手繰りあげた。
幾重に連なる薄布の下、細い足首をとりまく装飾具につけられた雫形の藍石が色濃く存在を主張する。
「残念でした。ちょっと早いけど皇妃様が譲ってくださったのよ。だから私にも魔法は効かない」
「魔力の方が勝れば無意味だと、今回のことで証明されたばかりだろうが」
シェラートは瞬時に自分の手中に魔力を集めた。生み出された暴風が、強大な渦をつくる。
イオルは目を瞬かせた。部屋中の空気が巻き込まれていく。
知らず寒気を覚え、イオルは腕を抑えた。
それでも圧倒的な威力に反し、風はイオルの元へ届きはしない。眠り続けるフィシュアの髪先すら少しも揺らさない。
「すごいわねぇ。そんなに怒っているの?」
初めて目の当たりにした魔法に感嘆したイオルは、目端に留めた義妹から面をあげた瞬間、ひくりと喉を引き攣らせた。
呼吸の仕方を忘れ、恐怖にあえぐ。涙で視界が朧に滲んでようやく、取り込まれかけた翡翠の双眸から逃れる。辛うじて顔を伏せることができたのは、イオルにとって幸運でしかなかった。
「手をどかせ!」
「――やっ……、嫌に決まってるでしょう」
譲れないのはイオルも同じだ。個人的にも
踏み込んでくる足を滲む視界の先に捉える。
イオルは、フィシュアの咽頭へガラス片を容赦なくくいこませた。
「それ以上、近づかないことね」
抉るほど深くはないものの、肌に滲む程度だった鮮血は肌を完全に裂かれ、じわじわと溢れだす。
「――おまっ……!」
驚愕に震える怒声を聞きながら、イオルは硬く瞑目した。
「その目をどうにかなさい。じゃないと本当に手元が狂って殺してしまうわよ。まぁ、私はどちらでもいいのだけど」
渦巻く暴風が唸りをあげる。それでもシェラートのもとで制御された風は、どちらにも向かわなかった。
「ほら!」
イオルは高らかに哄笑した。
「どうせお前は魔法を使えない。そんなもの脅しにすらならない。だから手に留めたままなのでしょう? もちろん報告は受けているわ。皇族のラピスラズリでも防げなかった
シェラートは忌々しく風をかき消した。
威嚇にすらならないのなら、いくら魔力の規模が大きくとも、何の役にも立たない。
どうする、と考えを巡らせるも思いつく手がない。
その間もフィシュアの首筋から流れ出る血は、彼女の鼓動に呼応し量を増していく。
肌の表面に溜まっていた血は確実に領域を広げ、痣を覆い尽くしはじめていた。数分しないうちに、敷布には赤染みができるだろう。
本来ならフィシュアはとっくに目を覚ましていたはずだった。フィシュアでなくとも、こんなことをされれば痛みに飛び起きたはず。
それが叶わないのは、深い眠りへ故意に落とされているからだ。
今さらフィシュアにかけた魔法を悔やんでも遅すぎた。過失は明らかにシェラートにあった。
「見捨ててもいいのよ? そうしたら、お前の予想通り、次はあの子どものところに行く。だけど、とっくにこちらの人間があの子どもを確保しているっていう可能性には思い当らなかったのかしら。随分と侮られたものねぇー?」
イオルは、隣に立つファッテへ同意を求めた。
侍従は微動だにせず沈黙を保つ。遠く離れた場所から事の成り行きを傍観しているような印象さえシェラートは受けた。
「残念だったわねぇ。ファッテだってこちら側の人間だもの。あなたは
ねぇ、これが本当に最後よ? とイオルはささやいた。
「フィシュアが死んだ後に、ただの脅迫ではなかったと思い知るがいいわ。そうすればあの子どもは、ずっと交渉の役に立つでしょう」
イオルは、義妹の喉元にくいこませたガラス片を横に滑らせた。
鋭利な先端が肌を引き割く。ガラス片が辿る軌跡を追うように、既にできていた血溜まりが左右に割かれゆく。
「…………わかった」
シェラートは、イオルの手を自身の両手で止めた。止めてもなお、ガラス片を沈み込ませようとする指先を間際で掴み、声を絞り出す。
「契約を受け入れる。だから、……やめてくれ」
懇願し、シェラートは憂いなく眠り続けるフィシュアを見つめた。
ガラスの破片の突き刺さり方は浅いと言えるものではない。
沈んだガラス片の根元から、とめどなく溢れ首を伝い落ち続ける血液の生々しさに眉をひそめる。視線を逸らそうとして、結局できはしなかった。
「いいでしょう。でも、まだダメ」
何がおかしいのか、イオルは目を弓なりにたわませた。紺碧の双眸にきらめく愉悦を崩す術を、シェラートはもはや持たない。
すぐにでも傷を癒そうとするシェラートの動きを、イオルはラピスラズリの力で退けた。
「イオル!!」
「契約がまだでしょう。私がここで手を抜くと思ったの?」
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