第106話 燃える焦げ跡【4】

「フィシュア様!」


 医務室前で立ち尽くしていたフィシュアを激しく揺すり、現実へ引き戻したのは古参の女官だった。

「……ホーリラ」

 蒼白な顔で震える彼女が、青の双眸を揺らす。両腕を伸ばしたホーリラはフィシュアをきつく抱きしめた。

「よく、ご無事で」

 掠れ切ったホーリラの声を、フィシュアは彼女の肩越しに聞いた。自分よりもずっと華奢なホーリラの肩は細かく震えている。抱き締めてくる力だけが強く揺るがない。

 護衛官の妻であるホーリラは、誰よりもフィシュアを恨んでよかった。にも関わらず、ホーリラがかけてくれる労りにはまるで偽りがない。震える手が、フィシュアの強張った背を溶かすようにさする。

 フィシュアは慌ただしく行き交う人と雑音を遠くで感じながら謝罪した。

「ごめ、ん、ホーリラ……ロシュ、が……」

 言い切ることができずフィシュアは喘いだ。ひゅうと喉が鳴る。

「——ごめんっ……ごめんなさい、ホーリラっ」

 支えられるだけで抱き締め返すことすらできず、フィシュアは壊れたように何度も繰り返しホーリラに詫びた。

 それだけしかフィシュアにはできることがなかった。

「どうしよう、どうしたらいいの!?」

 失ってしまったら、もう戻っては来ない。

 あの場所から皇宮まで自分たちを連れ転移してくれたシュザネは辿り着いた途端、力尽きた。

 それでも、すぐに人がやって来てシュザネは一命を取り留めた。

 だが長年一緒にいた護衛官の方は、もう無理だと、誰もが揃って残酷に首を振る。

 傷が深すぎた。

 失血が多すぎた。

 零れ落ちはじめた命はもう止まらない。

「どうしよう、ロシュっ……私の、せいだ」

 苦しげに吐かれた悔恨に、ホーリラは強く首を振った。

 身を離したホーリラがフィシュアの両腕を支え、向き合う。

「フィシュア様。それは違います。あの人は、そう思われることを望んでなんかない」

「だけどっ」

 よく考えもせずに走りだしてしまったのは自分だ。再三言われ続けていたことを失念してしまった。ナイデルを前にして頭が真っ白になった。

 いつもこうだからロシュは追いかけてきてくれたのだ。追いかけてきてしまった。

 ホーリラは力強くフィシュアを支え、見据える。

「フィシュア様がご無事なら、ロシュがしたことは間違っていない。フィシュア様ではなく、ロシュの方が戻ってきたら、私は彼を張り倒しますよ!」

 だって私たちの第一はいつもあなたなのですから、と青い顔で震えながらも、ホーリラが気丈に微笑んだ。フィシュアに優しく手を伸ばし、煤まみれの頬を拭う。

魔人ジンのことは誰のせいでもない。そんなの私たちにはどうしようもないじゃないですか」

「…………?」

 ホーリラが口にした言葉にフィシュアは目を瞠った。

「フィシュア様?」

 気づかわし気に呼びかけられた声が頭の奥でぼやける。何も考えられないまま踵をめぐらせる。たたらを踏んだフィシュアは、足を絡ませながら駆け出した。



 けたたましい音を立て扉は叩かれた。

 夜も更けはじめた頃合い。部屋にいたテトとシェラートは、何事かと顔を見あわせる。

「――助けてっ……! お願い、私、何でもする! 何でもするからっ!」

 扉を開けた瞬間、飛び込んできたフィシュアをシェラートは受け止めた。

 服に縋りつき、金切り声で訴えはじめたフィシュアにシェラートは驚く。

「落ち着け」

 シェラートは、フィシュアの両肩に手をかけ押し戻した。フィシュアに触れた左手がぬるく滑り、眉を寄せる。

「何があった」

 尋ねてもひどく取り乱したフィシュアは強く首を振っただけで、まともに答えられはしなかった。

 フィシュアの口から出るのは助けを求める言葉ばかりだ。

「……お願いだからあぁっ……!」

 悲鳴をあげ慟哭し続けるフィシュアの姿は、どこもかしこも煤で汚れていた。

 整えられていたはずの髪は不自然に解けて乱れ、右肩には血が滲んでいる。舞台に立つ彼女を際立たせていたはずの淡青の衣装は、ところどころ焼け焦げて破れ腹部が血に染まっていた。

「フィシュア……?」

 テトが心配そうに顔を出す。

 いつも気にかけていたテトの声すら錯乱しているフィシュアにはまともに届いた様子がなかった。赤く爛れた手で、シェラートの服を揺すり懇願を繰り返す。

 シェラートは、フィシュアの腹に手を添えた。深い傷がないことを知り、ひとまず安堵する。

「——テト。待てるか」

「うん、行って」

 シェラートが求めた許可に、テトは被せるように頷いた。

「悪い」

 何が起こっているのか状況が判断できない以上、テトはここに残して行くしかない。

 これまでにないフィシュアの様相に不安を募らせ顔を強張らせているテトの頭をシェラートは「大丈夫だ」と撫でる。

 フィシュア、とシェラートは彼女の両腕を掴んだ。

 びくりとフィシュアが身を竦ませたのが、手を通して伝わってくる。身を屈め、シェラートはフィシュアの視線の先に自身をあわせる。

「どうすればいい」

 怯えた藍色の双眸が軋みをあげて、焦点を結んだ。

 我に返ったフィシュアが取り零したように顔を歪める。

「ご、ごめ……ごめんな、さい。わたし……」

「いい」

 喘ぎながら、フィシュアが震える指をシェラートの衣服から離した。

 後ずさるように身をよじったフィシュアにあわせて、シェラートは彼女の両腕を掴む手を緩めてやった。背に触れ、促してやる。

 走り出したフィシュアの背を、シェラートは追った。



 案内された場所で、フィシュアの傍らにいたはずの護衛官は無惨な姿で横たわっていた。

 脇には血を含んだ布が乱雑に積みあげられ、試みの無力さが窺われた。

「ロシュか」

 シェラートが聞くと、フィシュアは呻き声を洩らす。

 既に医師一人と妻のホーリラしか残っていない室内を横断し、シェラートは診察台に横たわるロシュの前に立った。

 ここまでに至った経緯は不明だが、目の前にある状況は説明されずとも理解できる。

 ロシュの身体には無数の傷があった。目につく場所すべて、どれも損傷の度合いが大きい。フィシュアに連れてこられなかったら、はたしてロシュと判断ができたかも怪しかった。

 シェラートは腹部に刺さったままの木片を抜き去る。穴を埋めるように、傷は木片が抜き取られた先から塞がれた。

 ざっと全体を確認し、肩口に走る傷に目を留める。恐らく背面に深く切り込んでいるはずの傷は、致命傷の一つになりかねない。

 そこを選び、シェラートは手をかざした。

 肩から波紋が広がるように次々と傷が修復されていく。

 明らかにロシュの息遣いが変わった。

 ロシュ、と掠れた声でホーリラが呼んだ。滑らかさを取り戻した夫の肘に指先で触れる。

 医師とホーリラの驚愕に構うことなく、シェラートは医師に数種の薬草の確認を取った。言われるがまま応答する医師を脇目に、シェラートは魔法を組み立てる。

「血が足りてない。一応の代替だ。魔力で効果を底上げさせておいたが、目を覚ましても一日は安静にさせろ」

 即席でつくった丸薬を一粒ロシュに飲ませる。

「一時間ずつだ」

 シェラートが拳を突き出すと、医師は呆気にとられたまま両手を差し出した。受け手に丸薬の袋を落す。

 フィシュアは放心したまま傷の癒えた護衛官の足元に佇立していた。

 シェラートはフィシュアの腕をひく。

「大丈夫だから」

 フィシュアがゆるりと顔をあげる。反射的に反応しただけらしかった。抜け落ちた表情からは、何の思考も伺えない。

 シェラートは後回しにしていたフィシュアの手の火傷を癒やし、手をとる。

 歩くと、フィシュアは逆らうでもなくシェラートに倣った。促されるから歩いているらしいフィシュアの手を引き、シェラートは部屋の出口へ向かう。

 いつの間に扉近くいた薄茶髪の男の横をシェラートは素通りした。

「ちょっと!」

 隣に寄り添っていた皇太子妃が憤慨する。

 シェラートは振り返らぬまま、先を急いだ。



 オギハは、こちらに見向きもせず妹を連れて去った男と、中を見比べた。

 まるで反応を示さなかったフィシュアは気になるものの、報告から状況は一転したらしい。

 踵を返し、医務室を後にする。

 自分たちを無視した二人を信じられない思いで見送ったイオルは、すでに隣にいなくなっていたオギハに気づき、慌てて身をねじった。

「置いて行かないでよ!」

 駆け寄り、自室に戻ることにしたらしい夫に文句を言う。

 オギハはイオルを軽く見やった。

「あれが、魔人ジンだよな?」

「そうそう。おもしろいことになりそうでしょう?」

 ふふ、と笑った妻に、オギハは同意しなかった。彼女の娯楽などどうでもよく、彼には関係がない。

 まぁでも、と仰向いたオギハは、イオルを近くに呼び招いた。

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