第99話 夕星の灯し風【6】
日の出前の空がうすらと色を溶きほぐしていく。白々と明るくなりはじめた部屋の中、起きあがったフィシュアは「ぐああああぁ」と呻いた。
「負けた! またロシュに負けた!」
頭を抱えて結い目が解けきった髪をかき乱す。
昨夜急に休暇を賭け飲み比べをしたいと言い出したのはロシュだ。フィシュアが勝った暁には、オクリアの菓子がつく予定だった。
他人に比べ酒に強い自信はあるが上には上がいるもので、フィシュアは一度としてロシュに勝てた試しがない。
ことあるごとに勝負を持ちだされては、ロシュの言い分が押し通される。
「別に休暇くらい許可するから一人で勝手に取ればいいのに」
息をついて敷布に手をつく。外套を着たままだと気付き、腰紐に手を伸ばしたところで、外套が奇妙につっぱった。
外套の端を握るテトが、掛布ごと
「そうだ。テトと一緒にいたんだっけ」
フィシュアは影をつくって、眠るテトにかかる掛布を整える。
昨夜、目を覚ました際にテトに会えたのが嬉しくて抱きしめたのを覚えていた。疑問すら抱かなかったが、シェラートもいたはずだ。
辺りを見渡すと、やはりここは二人の部屋で、向かいの寝台ではシェラートが寝ていた。
どのような経緯を辿ってこうなったか定かでないが、二人がロシュから自分を押し付けられたらしいことは疑いようがない。飲み比べを始めた時点で夜も更けていたのだ。二人にしたら迷惑この上なかったろう。
「寂しいって言っちゃったからか」
酔い潰れる間際に、ロシュに吐かされた言葉はきっと本心だ。
「けど別に、私だって自分でちゃんと会いにきたのに」
ねぇ、とフィシュアは同意を求めて、眠るテトの髪にそっと触れた。久しぶりに撫でる栗色の髪は、以前と変わらず柔らかい。外光に透ける髪がまばゆくて、フィシュアは目を細めた。
ひらひらと ちょうが舞って
小さな指にとまって
そっと そよ風を送って
薄い花びらを 揺らすの
口ずさんでいた歌を止め、フィシュアはテトの顔をじっと見つめた。
ふっくらとした頬には影が落ちている。閉じられた瞼の下ではきらきらと輝く黒の瞳が隠されているのだろう。あらゆる方向に跳ねている寝癖を見て、フィシュアはくすくすと笑った。
「テトみたいな子になったら、いいわね。あぁ、でも教えるのが私だったら、こうはならないかしら。よくない方向に育っちゃったら兄様に怒られそうだな。どうしよう」
「……まだ酔っているのか、フィシュア」
テトの髪をいじくりまわしながら「うーん」と唸っていたフィシュアは、呆れが多分に混じった声を耳にし顔をあげた。
「起きていたの?」
「起こされた」
身を起こしてはいるが、未だ翡翠の瞳が半分しか覗かないシェラートの顔つきは、どこか憮然としていて確かに眠そうではある。
そんなに大きな声を出したつもりはないが、起こされたと言っているのだからうるさかったのだろう。
フィシュアは、頭を掻いているシェラートに「ごめん、ごめん」と素直に謝った。
「気分は? 大丈夫なのか」
寝台の縁に腰かけたシェラートがこちらに向き直る。フィシュアは首を傾げた。
「どうして?」
「昨日、チルを十五杯も飲んだんだろう? 頭とか痛くないのか」
「全然。私、元々お酒は強いし、酔っても眠くなるだけだもの。次の日には持ち越さないの。だから、へっちゃら」
ならいいけど、とシェラートは溜息を吐いた。
「ねねっ、そんなにうるさかった?」
「うるさくはなかったけど、近くでぶつぶつ言われると気になるだろ」
「ぶつぶつって……結構真剣に悩んでいたのに。起こしちゃったのは、悪かったけど、さ」
フィシュアは、窓の外へ意識を逸らした。距離があるせいか見えるのは、移りゆく空の様子ばかりだ。
「あのね、宵の歌姫って代々
シェラートは頷かず、ただ黙っていた。静かな空気に促されて、フィシュアは話を続ける。
「他の
でもねぇ、とフィシュアは言葉を濁した。
「私って、よくも悪くもイリアナ様の……先代の影響を強く受けている自覚があるの。与える影響の大きさを考えると正直怖いのよね。できるのなら私に似るより、テトみたいにまっすぐで、辛いことも乗り越える強い子になってほしいなって、そう思ったのよ」
そう先の話でもないだろうしね、とフィシュアは静かに言った。
まぁ、けど、なぁ、と考えあぐねているような声がシェラートから返る。
「……今から考えておくのも悪くはないだろうが、結局その時々で状況は違ってくるんじゃないか? なら、無闇に悩んでも仕方がない部分はある。予想外のことだって起こるだろう」
「そうね。起こるでしょうね、きっと」
フィシュアはふと微笑んで、窓から視線を外した。きよらかに寝息を立て続けるテトに目を落とすと、額の上で止まっていた手をそっと動かしはじめる。
ゆったりと流れる手は、風がそよぐようにテトの髪を揺らす。
「テトに聞けばいいんじゃないか、困った時は。目指してほしい人物がせっかく近くにいるんだ。どうすればいいか聞けばいい」
つと顔を上げたフィシュアは、シェラートをとくと眺めた。しばらく吟味した後「なるほど」と頷く。
「そっか、その手があったわね。だけど……」
「けど?」
聞き返してくるシェラートに対し、フィシュアは困ったように微笑する。
「その時テトは、まだここにいてくれるかしら? だってほら、多少のひいき目はあるにしろ、テトは将来有望だと思うのよね。だから、とっくに学校も皇都も……この国だって飛び出しているかも」
「さぁな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。飛び出したとしても、たまには会いに戻ってくる可能性だってあるだろ。少なくとも今のテトは寂しがっていたぞ、フィシュアになかなか会えなくて」
「そう」
それはちょっと嬉しいかも、とフィシュアは掛布の外に出ていたテトの手に自分の手を重ねると、きゅっと握った。
「ああー、寝ているから嬉しくっても抱きつけないのが残念ね。起こしちゃったら悪いもの」
昨日は思いっきり抱きついてただろう、とぼやくシェラートを無視して、フィシュアはそっと掛布の中にテトの手を戻した。
寝返りをうつほどまでにはいかないが、ほんの少しもぞりと動いたテトを、二人は静かに見つめる。まったく起きる気配のないテトの表情は穏やかで、とても優しかった。
ね、とフィシュアはシェラートに声をかける。
「まだ、ここにいてもいい? テトが目を覚ますまで」
「あぁ……」
別にいればいいじゃないか、と答えかけ、シェラートは口をつぐんだ。
ほう、と和らいだ藍の双眸がテトへ注がれ、きれいとは言えない手がふわりふわりと髪を揺らす。
「シェラートもまだ寝ていていいよ。本当はまだ起きるには早いでしょう? ごめんね」
「あぁ、じゃあ、まぁ…………寝る」
「うん、おやすみ」
ごそりと掛布を引き寄せ横になる音がして、背が向けられる。
再び静寂が落ちた部屋。
フィシュアは小さく小さく口ずさんだ。
今度はともすれば聞こえぬほどの、静かな歌声。
耳をそばだてなければ聞こえぬほどの、淡い歌声。
ふわふわ 温もり恋しくて
小さな掌に触れて
そっと 羽を休めて
揺れる花びらを 眺めるの
瞬きすらせずに、そっと音も立てず、目を閉じたのだ。
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