第77話 昔日を想う【2】

 フィシュアは手で囲い込んだ茶杯の縁を親指でなぞり往復する。

「カーマイル王国には東の魔女がいたでしょう? 彼女のところには行かなかったの?」

「行った。魔女にもあの病気を治すのは無理だった。だけどこっちにいる魔人ジン魔神ジーニーのことを知れたのは、魔女を訪ねたおかげなんだ。他に手がなかったから、俺は西の大陸こっちに来た。あのジジイ……ランジュールに会えたのはほとんど奇跡だな。あっちにとってもそうだったんだろうけど」

魔神ジーニー三番目の姫トゥッシトリアと生きるために人間になりたがっていたから」

 フィシュアが呟けば、シェラートは「ああ」と首肯した。

「ランジュールは願いを聞き入れる条件として、自分の願いも叶えてほしいと言った。それが、ランジュール自身が持っていた力をすべて俺に注ぎ譲り渡すこと。そうやってようやくランジュールは人間になった。俺は力を受け継いだことで魔人ジンになった」

「……シェラートから直接聞いても信じ難い話ね」

「まぁ、相手はランジュールだからな」

 ヴィエッダと同じようなことを言って、シェラートは苦笑する。

「他の魔神ジーニーにそんなことはできない。少なくともヴィエッダは無理だと言っていた。けど、魔神ジーニーの中で最も力を持っていたランジュールにとっては、できないことじゃなかったんだ。

 実際、人間を魔人ジンにするだけならジジイにとっては簡単だったらしい。ただその辺の人間をひっかけるわけにもいかないだろう? 私欲で魔人ジンになりたがる人間を選ぶのも後々やっかいだと思っていたみたいだ。そうでない人間を探すのに苦労したと言っていたな。

 人間と契約を結び願いを叶えるのは魔神ジーニーではなく魔人ジンだ、と。知っているこっちの大陸の人間は、わざわざ奴を訪ねもしないからな」

「そうね。私も願いを叶えるためなら魔人ジンを探すと思うわ。そういうものだと思っていた」

「まぁ真実、魔神ジーニーは契約なんてしないしな。その辺の事情を知らなかった俺が行ったことで、ようやくランジュールはちょうどいい奴を見繕うことができたんだ」

「それが魔神ジーニー三番目の姫トゥッシトリアの御伽話の真実……」

「ああ。そういうことだ。まぁ、さすがにジジイでもいっぺんに魔力を譲り渡すことはできなかった。だからまず半分、俺はランジュールの魔力を与えられた。今までなかった力を身体に馴染ませる期間を置くためにも、そうした方がよかったらしい。で、その間に魔法やらなんやらをいろいろ詰め込まれた」

 なんやらって、とフィシュアは小さく微笑を零す。なんやらなんだ、とシェラートは肩をすくめ言った。

「一番初めに教えてもらったのは転移とリーアの病を治す方法だった。ジジイ自身はリーアを治すことはできないから、自分で治してこいって言われた。カーマイルがある東の大陸には精霊しか住んでいないと前に言っただろう? あっちの大陸は魔人ジン魔神ジーニーには合わないらしい。精霊がこっちにいないのも同じ理由だ。だからランジュールは東の大陸には渡れなかった。

 俺はカーマイルの出でシェラートの名自分の名前に精霊の名を受けていたから、少なからず精霊の加護を持っていた。自分じゃよくわからなかったけどな。だからそういう俺なら、少しの間、行って戻って来ることぐらいできるだろうって奴が言ったんだ。その時はまだ半分しか魔人ジンではなかったしな」

「……なんだか三番目の姫トゥッシトリア魔神ジーニーって横暴じゃない? それって確実に大陸に渡ることができて、助けられるかどうかの保障はなかったってことでしょう? 推測の域を出ていないのにシェラートを魔人ジンにしたってこと?」

 シェラートが願った通りリーアという女性を助けられたからよかったものの、シェラートを魔人ジンにした時点では絶対だとは言えなかったのだ。

 もし魔人ジンに変えられた後、助けることもできなかったら、たまったものではない。

「だから言ったろう? あの御伽話の魔神ジーニーは都合よく捻じ曲げられている。格好よく書かれすぎだ。実際の奴は、かなり性格が悪かった」

 心底忌々しげにシェラートは顔を歪める。

 それでも、ヴィエッダが彼らを語った時と同じように、シェラートの翡翠の双眸にも懐かしさが宿って見えるのは、彼らがもうここには存在していないからなのかもしれない。

「そうは言っても、ジジイには感謝もしてる。おかげでリーアの病気を治せた。二人が予定通り式を挙げるのを見届けることもできた」

 そう、とフィシュアは相槌をうつ。

「リーアさんたちには何も言わなかったの?」

「別に言うことでもないだろう」

「そうね、きっとそれが正解」

 もしも真実を語ってしまったのならば、彼らはシェラートに負い目を感じてしまっただろう。

 シェラートが彼らのことを想ったように、彼らもまたシェラートのことを大切に想っていたのなら、なおさらだ。知ってしまったのなら、シェラートが望んだ二人の幸福には少なからず翳が落ちてしまう。

 シェラートはふと微笑する。

「正解だったかどうかはわからないけど、俺自身はそれでよかったと思っているんだ。後悔はしていない」

 シェラートの眼差しはどこまでも晴れやかで、ほんのわずかの翳りもなかった。

 そのことが彼の過去が、すでに過去でしかないことを示す。

 たとえ傍目から見たら少しばかり切ない話でも、シェラートの中ではとうの昔に折り合いがついているのだろう。

「それから随分たった頃、ランジュールから残りの魔力を引き渡されて、俺は完全に魔人ジンになった。ランジュールが持っていた力と知識をすべて受け継いでな」

 まあ、こんな感じか? と話を切り上げたシェラートは茶杯を口元に運んだ。

 フィシュアの見ている先で、シェラートはついと眉根を寄せ「変に冷めたな」とひとりごちる。途端、手の内の茶杯がひとりでに温かさを取り戻して、フィシュアは現実に引き戻された気がした。

「何か質問はあるか?」

「質問、ねぇ……」

 何の含みもなく問われ、フィシュアは苦笑しながら手の中にある黄金の茶に視線を落とした。湯気のあがる茶杯を両手でもてあそび、改めてシェラートを見つめる。

「後悔はしていないって言ったけど、ね? シェラートは人間に戻りたいと思ったことはないの?」

 いまさら人間に戻れたとしても、シェラートが大切な人たちのために手放した多くのものは戻ってきたりはしないだろう。

 それでも、もし自分が同じ状況に立たされたらどうするだろう、と考えると人間に戻りたくなるのではないかとフィシュアは思う。

 魔人ジン魔神ジーニーにとっては短いはずの時の流れも、人間であったシェラートには想像を絶するほど長い時間であったはずだ。

 そうだな、とシェラートが言葉を選ぶようにゆっくり口を開く。

「そう思ったことは、もちろんある。この生活に慣れた今でも、できるのなら人間に戻るのもいいかもしれないと思う。考えたってどうしようもないけど、考えてしまうことは……あるな。どうしたって果てがないから。このまま生きていくことにも、ちょっと飽きてきたところだった」

「死に、たいの?」

「なんて顔してんだよ、フィシュア」

 シェラートがおかしそうに噴き出す。

 失礼ね、と返しながらフィシュア自身情けない顔をしていただろうことには気付いていた。シェラートの言葉を耳にした瞬間、心臓が掴まれたような錯覚に襲われたのだ。

 意識して、俯いてしまわないよう顔をあげ続ける。

 黙り込んでしまったフィシュアに向かって、シェラートは困ったように苦笑した。

「悪い。死にたいとか、そう意味じゃなくてな。ただ、なんと言うか……例えばテトがな、このまま成長したら、いつか俺を追い抜かすだろう? そして、そのうち老いて、俺よりも早く死ぬ。そういうのはもう、あまり見たくはないんだ。人と交わらなければ、そんなこと気に懸けなくてもよくなるんだろうけど、俺にそれは無理だった。人であったことを捨てるのはなかなか難しくってな。やっぱりどうしても人といたかったから、ずっと街に住んでいたんだと思う」

「そっか」

「まあ、そういうことだ。な、あんまり楽しい話じゃなかっただろう?」

「……そうね」

 フィシュアはほろ苦く、問われた言葉を受け止めた。さっきよりもいくらかは安堵しながら息をつく。

 普段通りの悠然とした笑みを口元に意図して刻み込み、フィシュアはシェラートを見つめた。

「ねぇ、シェラート? 一緒に探してあげましょうか、元に戻る方法を」

 翡翠の双眸が驚きを孕む。

 ただそれは一瞬のことで、驚きはすぐに解けて消えた。

 フィシュアの提案に、シェラートはひらひらと手を振るう。

「いや、別にいいさ。あのランジュールでも人間になるのに苦労したんだ。ジジイと同じ方法で戻れないことはないと思うが、それは俺が嫌だからな。気に病む必要はないって言っただろう? 放っておいたら余計気にしそうだから話しただけだ」

「でも、シェラートは元から魔人ジンだったわけじゃないんだから、もっと他に方法があるかもしれないじゃない。皇都にさえ戻れば一応、私には伝手つてだってあるのよ? ちょうどね、私の老師せんせい魔人ジン魔神ジーニーについて研究している第一人者なの。もしかしたら何か知っているかもしれない」

 フィシュアは口早に言い募った。

 食卓の上に置かれた腕。その手首には確かに複雑な黒い紋様が絡み合っていて、他とは異なる緻密さがシェラートが魔人ジンであることを証明し続ける。

 ある種の戒めにさえ見えるそれに、フィシュアは茶杯を握りしめた。

「あのね、シェラート。私、旅をしているの」

「ああ、知っている」

 それがどうした、と戸惑いを多分に含んだ声で重ねられ、フィシュアは静かに頷く。

「今夜、私からもう一度、ちゃんと二人に話そうと思っていたんだけどね、宵の歌姫は代々帝国の命を受けて各地を視察していると聞いたでしょう? そうして私たちは皇帝や役人の耳や目にどうしても触れないところを補ってきた。必要であればいつでも私たちが民の側に寄り添い立てるように」

 カルレシアの毒に臥せった際、バデュラの警備隊隊長が二人に話したという内容をフィシュアは引き合いに出した。

「……ヴィエッダが言っていたのも、そういう意味だよな」

三番目の姫トゥッシトリア――アジカ、さんから聞いたのね、きっと」

 得心しているシェラートを見上げ、フィシュアは微笑を張り付ける。

「私、これから先もまだずっと旅をするの。シェラートとテトのこと皇都に連れて行くけど……その後も、時期が来たら私は旅に出る。そうやって、まだ、何年も、何十年も旅をするつもりなのよ。いつか代わりができるまで。この国だけじゃなくてね、他の国にもまわるの。だから、見つけてあげられるかもしれない」

「フィシュア」

 気遣うような響きが耳を打ち、フィシュアは衝動的にかぶりを振った。

「ちがう。人間に戻った方がいいなんて押しつけたいわけじゃないの。魔人ジンとして生きることに問題がないのなら——シェラートがそうすると決めているのなら、もちろんそれでいいの。

 だけどもし方法があるのなら、その方法だけはシェラートに渡しておきたい。これから先、迷ってしまった時に、いつか戻りたいって心から望んだ時に、諦めてほしくない。方法がないことを理由に諦めながら生きてほしくないの。シェラートがちゃんとどちらがいいか選べるように、きっと見つけてあげるから」

 だから、とフィシュアは懇願する。

「そんなふうに自分のことを投げ出したりしないで」

 死なないでほしい、と祈る。死なせたくない、と思う。

 見ると、シェラートは扱いにほとほと困りかねたような顔をしていた。

 それがおかしく、フィシュアが笑えば、シェラートは片手で目を覆い溜息をつく。

 しんみりとした空気を振り払うように、フィシュアはことさら明るく言った。

「それにね。そろそろシェラートに借りを返さなきゃいけないと思っていたのよ。なんだかんだで結構お世話になってるからね。ちょうどいいわ」

「いいって言っているのに」

 苦笑を含んだ息が吐かれて、手の覆いがはずれる。そのまま頬杖をついたシェラートは諦めたように言った。

「頼むから無茶はしないでくれ」

「ええ」

「……フィシュアのそれ、ものすごく信用ならないな」

「聞くからでしょう?」

 素知らぬふりをしてフィシュアは香ばしい香りの茶を口にする。

 言っても無駄か、というぼやきを耳ざとく拾ったフィシュアはムッと口を結んだ。

 シェラートが、抗議をかわすようにひらひらと手を振る。

「それじゃあ、まぁ……一応、期待しておく。俺にはまだまだ時間があるからな」

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