第67話 水端の巫女【10】

 静寂満ちる神殿の中へフィシュアは一人、足を踏み入れた。

 明かりを灯す前らしく、真白な神殿の内部はほの暗い。

 代わりに空を映すいくつもの丸い天窓が、薄青から橙、桃、紫、そして藍へ順に連なり薄明かりを落としていた。すでに夜を彩りはじめた最奥の窓では、早くも明星が光を放ち輝いている。

 陽が落ちてしまった今、ここにはフィシュアを除いて誰もいない。頭上の色調とは対照的な白い床を、フィシュアは歩き進んだ。

「一体ここで何をしているのです?」

 背後から掛けられた声に、フィシュアは振り返った。悠然と笑みを広げる。

「こんばんは、ディクレットさん。大神官様へのお目通りをお願いしにきました」

 フィシュアを前にしたディクレットは、いつもと変わらぬ憮然とした表情を崩さぬまま息をつく。

「あいにく大神官様は明日の水初みそめの儀に備えるため、もうお休みになられています。他の者も準備に出払っているので、ここに残っているのは勤めの者と私だけです。もうまもなく神殿を閉めますから、あなたも早くお帰りください」

「そうですか」

「ええ」

 フィシュアは吟味するように藍の目をつっと細めた。

 背の高い神官は微動だにせず、フィシュアが神殿から出ていくのを待っている。フィシュアが訪ねてきたことを快く思ってはいないようだが、そこに言葉以上の含意もないらしい。

 ディクレットの視線を受け止めて、フィシュアは微笑んだ。

「大神官様ではなく、あなただけがここにいるのは、こちらにとって都合がよかったかもしれませんね」

 訝し気な表情になったディクレットに、フィシュアは続ける。

「率直に言います。メイリィを水初の儀をから外してください」

 フィシュアは真っ向から、ディクレットを見据えた。

 唐突な物言いにディクレットは瞠目する。ただそれは一瞬のことで、驚きが去ってすぐ、ディクレットは心底呆れたような視線をフィシュアに向けた。

「何をバカなことを仰っているのです?」

「ええ。私自身、随分バカなことを言っていると承知しています。でも、もう決めたんです。どうせ、どちらにしろ動かせる可能性が少ないなら、できる範囲で動いてみようって。結果的に動くかどうかは一か八。だけど、この賭けは絶対に諦められない。勝たなければならないんです」

「私にはあなたの仰っている意味がわからないのですが」

「いいえ、あなたはわかっているはず。それに、あなたなら気付いているはずです。メイリィは知っていました。自分に特別な力がないことも、水初の儀の本当の意味も。彼女の傍に常に寄り添っているあなたが知らないはずがありません。メイリィがそのことに気付いていたことも、わかっていたはず。そうでしょう、ディクレットさん?」

「だから何だと言うのです」

 溜息と共に漏れたディクレットの言葉には、疲労が色濃く滲んでいた。

 痛む頭を押さえるように、ディクレットはこめかみに手をあてる。

「大神官様の決定はこの村では絶対です。水端みずはなの巫女と定められたメイリィ様を水初の儀から外す? そんなことができるわけないでしょう。大体、あなたが仰っているのは大神官様がお告げを読み間違ったと指摘するようなものですよ」

「そうです。私はメイリィが水端の巫女として水初の儀に出ても何の意味もないと思っています。尊い犠牲が出るだけで何の解決にもならない。メイリィが生贄になったからといって現状はまったく変わらない。だからこそ、私はこうして頼みに来たんです」

「頼まれても困ります。儀式はもう明日です。今さら取り止めなどできません」

「中止にしろとは言っていません。私はメイリィを外してくださいと言っているんです」

「どういうことですか?」

「メイリィの代わりに私が儀式に出ます」

 フィシュアの藍の瞳は真剣そのものだった。強い意志の宿った、揺らぎのない深色の瞳。一瞥し、フィシュアが口にしたその意味を理解したディクレットは寸の間、息を止める。

 それでも結局、ディクレットは視線を阻むように、顔を逸らした。

「話になりません」

 深い溜息と共にディクレットは言い放つ。フィシュアの横を通り過ぎ、奥の祭壇へ足早に歩き出した。

「待ってください!」

 ディクレットはフィシュアの呼びかけにゆっくりと振り返った。

「まだ何か?」

 ディクレットの表情からは、いい加減煩わしいと思っていることが、ありありと読み取れた。それでも邪険に扱いきれないのは、彼の性質であるのだろう。

 立ち止まってくれたことに安堵して、フィシュアは顎をひく。

 もともと一縷の望みをかけるとしたらディクレットしかいないと思ったから、神殿に来たのだ。ここで引き下がるわけにはいかなかった。

 自分の願いが、彼の願いでもあって欲しいと祈りながら、フィシュアは言葉を重ねる。

「……あなたも本当は、メイリィには水初の儀に出てほしくないと願っているのではないのですか?」

「大神官様の決定は絶対だと先ほど申し上げたはずです」

「答えになっていません。それは、あなたの本心ではないでしょう? だって、あなたはメイリィのことを大切に思っている。そうでなければ、メイリィが何を話しているかなんて口を見ただけで読み取れるはずがありません。読み取ろうと注意して、見ているからこそできることです。違いますか?」

 ディクレットは肩を竦めた。今度こそはっきりとフィシュアを睨んでくる。

「そうです。当り前でしょう。私はメイリィ様のことをずっと大切に思ってきました。メイリィ様と初めて出会ったあの日から、パドマ様と私であの子のことをずっと育ててきたのです。私たちにとってメイリィ様は娘も同然。大事に思わないはずがありません」

「それなら!」

「だからこそ部外者であるあなたに邪魔されると困るのです!」

 先程までの彼からは想像できないほど、ディクレットは声を荒げていた。自分でも気付いているのだろう。ディクレットは一度目を閉じると、今度は努めて声を落とし、淡々と語りだした。

「……わかりました。どうやら簡単には引き下がっていただけそうにない。だから、あなたにはきちんと事情を説明しておきましょう。ただし、ここで聞いたことは絶対にこの村の者には他言しないと誓ってください」

 強く念押しされ、フィシュアは声なく頷いた。

 ディクレットはそれを確かめ、白壁へ目を移す。話すとは決めたもののディクレットの中にはまだ迷いがあるらしかった。

 言葉を探すように動いた彼の目線の先にあるのは、壁上部一面に彫られた見事な装飾の一つ。二対の魚の間に挟まれた一際大きな魚だった。

「私はメイリィ様を水神様に捧げる気などさらさらありません。あの子の犠牲の上に成り立つくらいなら、この村など滅びてしまった方がましです。元々パドマ様……前大神官様は、母親に殺されかけていたメイリィ様を助けるために、あの子を水端の巫女として定めたのです」

「母親に殺されかけた……?」

「ええ。産声すらあげなかった赤子を気味悪く思ったのでしょう。ちょうど母親が子を手に掛けようとしていたその時、居合わせたのがパドマ様と私だったのです。子が生まれたと聞いて神殿から祝いの言葉を伝えるために、家を訪ねたところでした。自分の産んだ子を、化け物だ、と言って半ば狂乱していた母親からパドマ様は赤子を取り上げ、神殿に保護しました。

 その子の声が出ないということはすぐに知れたのです。このままではこの子が奇異の目にさらされるだろうとパドマ様は考えました。私たちの村はあまりにも小さい。皆が寄り添って暮らしている分、一度、異質と認識されればあの子に居場所はありません。パドマ様はそれを恐れたのです。

 だからこそパドマ様は、声が出せないのは水神様に愛されている証拠だと告げ、まだ生まれたばかりの赤子を水端の巫女として指名したのです。そうすれば村人からつまはじきにあうこともない上、神殿で育てる理由ができます。

“水端の巫女”の名は、本来あの子を守るためにパドマ様がお定めになったもの。だからこそ、“水端の巫女”の名の下にあの子が犠牲になることだけはあってはならないのです」

「そのことを今の大神官様は……」

「もちろんご存知です。パドマ様はお亡くなりになる間際まで、あの子のことをお気にかけていらっしゃいました。現大神官様にもメイリィ様のことをきちんと事付けられたのです。

 しかしながらメイリィ様は身寄りのない身。雨が降らなくなり、水初の儀を執り行うことが決まった時、生贄の候補として真っ先に挙げられたのがメイリィ様でした。村人の誰からも娘は出さなくてすむ。それに、メイリィ様は水神様に愛されていると村中の誰もがそう固く信じているのです。反対が起こるはずもないだろうと。

 もちろん憤りを感じました。大神官様は間違っていると。パドマ様の意志はどうなるのだと。ですが、相手は仮にも大神官様です。何度も繰り返すようですが、この村では大神官様の決定は絶対です。一神官である私には口を出すことさえ許されません。どんなに大神官様の言葉が正しくないと思っていたとしても、宣託をしたのが大神官様である限り、逆らうことなどできないのです。

 水初の儀を止めることはできない。メイリィ様を水初の儀から外すことなどもってのほかです。事を起こせるとすれば儀式の最中しかない。だから、儀式中にメイリィ様を連れて村から逃げ出そうと考えているのです。要は村人にメイリィ様が水の宮に上がったと認めさせればいいのです。村の者は水神様の祠には近づけません。泉の周りで遠くから眺めるだけです。祠へ辿り着けばそこにいるのは神官と巫女のみ。時機を見れば逃げ出せないことはない。儀式が失敗したとあからさまに触れまわる者もいないでしょう。

 あなたが心配せずともはじめからそうするつもりでした。だからこそ、手を出さないでいただきたい。失敗することなどできないのです」

 機会は一度きりしかないのですから、とディクレットは言った。

 痛切な訴えに、フィシュアは表情を硬くする。

「それではほとんどあなた一人で、神官と巫女に対峙しなければならない。儀式の場にどれほどの人数がいるのか、私は知りません。それでも今日祠近くで見ただけで数十人いました。その中をかいくぐるのは難しいはず」

「考えが甘いことは重々承知しています。しかし、あなたを儀式に出したところでどうなるというのです? メイリィ様を差し置くなど、まず村人が認めないでしょう。結局あなたでは儀式は行えず、ただ混乱を招くだけです。その後、引き合いに出されるのは、どうしたってメイリィ様です。そうなってしまえば神官たちの目もますます厳しくなる」

「ええ。確かに、あなたの言う通りだと思う。でも、私にも考えがあるの。ディクレットさん、あなたさえ協力してくれれば、こちらの方が成功する確率は上がるはず。私が水端の巫女の代わりとして水初の儀に出さえすれば」

「――お前、ふざけるなよ?」

 突然、響いた怒りを孕んだ声に、フィシュアは驚いて振り返った。

 神殿の入口にはシェラートがこちらを睨んで立っている。戸惑うフィシュアを見据えたまま、シェラートは歩み寄ってきた。

「シェラート!? どうしてここに?」

「メイリィから聞いた。フィシュアのことだからどうせ神殿だと思って来てみたら案の定だ。帰るぞ」 

 フィシュアとディクレットの元に辿り着くなり、シェラートはフィシュアの腕を引き掴んだ。

「え!? ちょっと待って! いっ、痛い! 痛いって!」

 シェラートの手に抗おうとしたものの、フィシュアにそれは叶わなかった。強く握り締められた腕は痛く、だからこそシェラートがどれほど怒っているのかが伝わってきた。

 踵を返し神殿の出口へと歩き出したシェラートに引きずられながら、それでもどうにか踏み留まろうとフィシュアは足を精一杯踏み締めた。掴むシェラートの腕を叩く。

「ねぇ! ちょっと待ってってば! 話を聞いてよ! 私が水初の儀に出さえすれば、いろいろ解決するのよ!」

 フィシュアの声が届いたのか、シェラートはようやく足を止めた。

 苛立たしそうな嘆息と共にフィシュアの方へと向き直ったシェラートは、ひどく冷ややかな顔をしていた。かち合った翡翠の双眸が細められる。

「フィシュア。お前、本気で言ってるのか?」

「こんなこと、本気じゃなかったら言わないわよ!」

「あのなぁ、フィシュアはメイリィじゃないんだ」

「わかってるわよ、そんなこと」

「わかってないから言ってるんだ! メイリィのことまでお前が痛みに感じる必要はない。助けられなくてもお前のせいじゃない。この村のことにフィシュアがかかわる必要はないんだ!」

「じゃあ、このまま知らない振りして放っておけって言うの!? 初めは私もそうしようと思ってた。どうしようもないことだって。だけど、やっぱりできなかった。だって、私はあの子を放っておけない。シェラートだってテトと一緒に方法を考えていたじゃない。助けられる可能性があるのなら、それを諦めたくない!」

「だからって、代わりにフィシュアが生贄になって死ぬって言うのか!? それなら、メイリィがなった場合となんら変わりはないだろう!?」

「違う。違うわよ! 私だってまだ死にたくないもの。やらなきゃならないことだってたくさんある。自分の命だって簡単に手放せるものじゃないし、諦めるつもりもない!」

 フィシュアの訴えに、シェラートは眉間の皺を深めた。フィシュアの言い分の真偽を測りかねているしているらしいシェラートの神妙な面持ちに、フィシュアは苦笑する。

「私は一言も自分が生贄になるとは言ったつもりはないわよ。メイリィの代わりに水初の儀に出ると言っただけ。だから、話を聞いてって、さっき言ったでしょう? 

 ディクレットさんも一度、私の話を聞いてから判断してください。これはメイリィを水初の儀に出さないためにどうすればいいかと考えた時に真っ先に頭に浮かんだ方法。けれど、神殿の中に協力者がいなければ最も成功する可能性が低い方法。でも、ディクレットさん、あなたが協力してくれるのなら、きっとうまくいくはず」

 フィシュアは、ディクレットに向かって言った。次いで自分の腕を掴んだまま耳を傾けてくれていた人物へ艶やかな笑みを投げかける。


「ねぇ、シェラート。前に少しくらいなら協力してやるって言ってくれたのは、まだ有効?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る