第65話 水端の巫女【8】

 鐘が鳴る。

 どこか空虚なその音は小さな村の中、隅々まで響き渡り、正午がやってきたことを告げた。

「この鐘って、やっぱり神殿で鳴ってるの?」

 ちょうど村全体が見渡せる小高い丘の上——メイリィのお気に入りだというその場所に二人はいた。

 雨が降らないせいか斜面に茂る草の一部は黄色く枯れている。だが、その中には厳しい条件にも負けず強かに咲いている野の花が確かにあった。

 メイリィと初めて出会った時、テトが受け取った薄桃の花もここから摘んできたのだと言う。

 メイリィはテトの問いに頷くと、草が生えていない剥き出しの地面へ向かった。

 すでにそこに書かれてあった文字を掌で消し、新たな文字を書き出す。

『神殿の一番てっぺんについているの。時間が来たら紐を引いて鐘を鳴らすんだよ』

 メイリィが村の中心にある純白の石造りの建物を指差す。

 周りよりも一際大きい神殿の屋上。その中で一際突き出た部分の屋根の下には確かに黒っぽい何かがぶら下がっているのが見えた。

「こんなに音が響くのに、小さいんだね」

『本当は大きいよ。テト、見たらびっくりするかも。鐘が鳴ったから、もうそろそろ帰らなくちゃいけない。だけど約束の時間まではまだあるから、ちょっとだけ早めに帰って一緒に見に行く?』

「いいの?」

 思いがけない提案に嬉しくて聞き返せば、メイリィがコクリと頷き微笑んだ。

 それを合図に二人は立ち上がった。まるで競争をするようにどちらともなく走り出す。そのまま二人は、村へと続くなだらかな丘の道を駆けおりた。



 メイリィと共に神殿へやって来たテトを見るなり、ディクレットは憮然とした表情で眉をひそめた。

 しかしメイリィが、鐘を見せてあげたい、と声の出ない口をパクパク動かすと、渋々ながらもテトが神殿に入ることを認めてくれた。

「うっわぁ!」

 歓声をあげるテトの隣で、メイリィは得意気に胸を張った。

 目の前に広がるのは壁一面真っ白に塗り固められた世界。

 だが純白であるからこそ、施された装飾の凹凸が豊かな陰影を生み出していた。壁の上の方に彫られている花や魚の飾りは同じものであるのに、光の当たり具合によってその表情をまったく異なるものに変えている。

 天井に等間隔に開けられた丸い天窓からは目に染みるほど晴れ渡った空の青が、白いだけの世界を彩っている。

 その真下には天窓から降り注ぐ陽の光が、やはり光の円を床へ描き出していた。

 テトは想像以上に広く、美しい神殿の内側をしばらく呆けたように眺めていたが、視界の端で手招きをしているメイリィの姿に本来の目的を思い出し、メイリィたちが待つ螺旋階段へ向かった。

 メイリィはテトが階段の下に来たのを確認すると、先導するように登りはじめた。その後をテト、ディクレットと続く。

 一段一段登るごとに白壁に囲まれた螺旋階段を照らす光の量が増してゆく。

 屋上へ辿り着いたのは、テトの息が上がりはじめた頃だった。

 屋上に出た瞬間、一面に広がった青空にくっきりと映える真白な鐘楼は、当たり前だが丘から見えたものと同じ形をしていた。そこには確かにテトが考えていたよりも大きい銅でできた鐘が吊り下がっている。

 ねっ、と振り向いて笑うメイリィにテトが頷く。

「あの紐は?」

 銅の鐘の天辺から両側にそれぞれ紐が一本ずつ地面までピンと張られている。左右の紐と地面とがちょうど三角形を描き出していた。

「左右の紐を二人で交互に引っ張って鐘を鳴らすのです」

「へぇ〜! メイリィが言ってたのってあの紐だったんだ。ねぇ、もう少し近寄ってもいい?」

「……いいですが、絶対に触れてはなりませんよ」

 わかってる、と言いながら、テトの足はすでに鐘の元に向かっていた。連なって駆け出したメイリィも、テトの隣に並ぶ。

 間近で見る鐘は迫力があった。

 テトが両腕を限界まで広げてみても、指の先まででは足りないほど大きかった。鐘の中を覗いて見ると、大人の頭と変わらぬほどの球がついている。

 これが村全体に響き渡るのかと思うとテトはなんだか不思議な気持ちになった。

 たった一つで村に時間を知らせ続けてきた鐘は、それを誇りとしているかのように堂々と鎮座している。

 テトは隣にいるメイリィに「すごいね」と素直に感想をつげた。メイリィはまるで自分が褒められているかのような誇らしげな顔をして頷く。

「あれは何?」

 鐘の向こう側——屋上の端にあたる場所で、幾重にも重なった薄地の白布が、風にさらされてヒラヒラと揺れている。

 メイリィは、はためく白布を不思議そうに見つめているテトへ、にっこりと笑みを向けると、自分を指差した。

「メイリィの?」

 メイリィはコクリと頷き、来て、とテトを手招きした。鐘の下をくぐって向こう側へ駆けて行ったメイリィにテトも続く。重い溜息が聞こえてきて振り返れば、ディグレットも高い背を折り曲げて鐘をくぐろうとしてるところだった。

 メイリィが立ち止まった場所には祭壇があった。祭壇の上に乗せられていたのは細やかな刺繍が丁寧に施された純白のドレスだ。刺繍で縫い取られた花の模様が陽に当たって浮き上がって見える。

 このドレスの形は見たことがあった。メイリィにあわせたものだから丈は小さいが、まるでこの前見た花嫁が来ていた花嫁衣装のようだ。

 そう考えたテトの中にチカリと光るモノがあった。

 これってまさか、とテトは目の前に立つメイリィを見つめる。

水初みそめの儀の衣装……?」

 綺麗でしょう、とメイリィがはにかんで首をすくめる。

「うん……すごく綺麗」

「この衣装は水初の儀に向けて太陽の光と月の光に一週間晒しているのです。そうして衣装自体にも聖なる力を溜め、水端の巫女であるメイリィ様によりふさわしいものにしているのですよ」

 いつの間にか背後に立っていたディクレットが淡々と語った。

 テトは何も言えずに、祭壇にうやうやしく広げられているドレスに目を戻した。

 このドレスは本当にメイリィにとっては花嫁衣装なのだ。村の水神に嫁ぐためのドレス。

 聖なる力を溜めるまでもなく、ふわふわと風に揺れるこのドレスはきっとメイリィによく似合うだろう。

 けれど、メイリィがこのドレスに袖を通す時、それは同時にメイリィとの別れの時になる。

 そうして、そのままメイリィに会うことは二度と叶わなくなってしまう。母と同じように。

「あのね、メイリィ……」

 メイリィが首を傾げて微笑む。それを見た途端テトには言葉を続けることができなくなった。

 何でもない、とやっとのことで首を横に振るうと、テトは風に揺れ続ける小さな花嫁衣装をやりきれない気持ちで眺めた。



 村長の家に帰って来たテトは明らかに元気がなかった。

 また何かわからない字があって落ち込んでいるのかと思ったが、そうではないらしい。

 寝台に腰かけたまま、深く思いつめたように黙り込んでしまった。

 フィシュアはテトの前に膝をつくと、下からテトを覗きこんだ。

「どうしたの?」

 テトと目がかち合った刹那、その黒い瞳がわずかに揺れる。

「ねぇ、フィシュア……本当に、どうにもできない?」

 掠れた声で苦しげに呟かれたその言葉でフィシュアは全てを悟った。

 テトもまた考えてしまっていたのだ。どうすることもできないと知っていても、それを認めることはできない。何か方法はないのか、とずっと模索していたのだ。

 テトの問いにフィシュアは答えることができなかった。

 フィシュア自身、まだ答えは見つかっていない。

 だからこそなおさら“何とか考えてみるから安心して”という安易な気休めなど言えるはずもなかった。

「雨を降らせるのはどうかな? ほら、水がなくなっている場所以外の河にはたくさん水があったでしょう? そこから運んだ水で雨を降らせるの」

 テトの視線を受けたシェラートは、だが、難しい顔をして首を振った。

「確かに俺の力で、それはできないことではない。一時的には水初の儀を回避できるだろうな。けどテト、その方法だと消えたペルソワーム河の水はそのままだ。その状態なら一日も空かずに水初の儀は決行されるだろう」

「でも、一時的にでも中止になるなら、その間に魔人ジンの所に行けばいいじゃないか。それで、河の水を戻してもらうんだ」

「それもちょっと無理そうなのよ、テト。今日、水神の泉に行ってみたんだけどね、神官や巫女が大勢いて近寄れそうになかったの。恐らく少しの間中止になったくらいじゃ、あそこで準備している人たちは退かないと思うわ。完全に中止になった後、祭儀場の片付けまで全て終わった後じゃないと、ね」

「そっかぁ……」

 再び俯いてしまったテトの栗色の頭を、フィシュアは慰めるようにゆっくりと撫でた。

 あまりにも落ち込んでしまったテトの姿に、ごめんね、と謝りたくなってしまう。

 けれど、この言葉を口にすることはできない。

 テトの中では、まだ終わってはいないことなのだから。

 きっと、簡単には終わらせてはいけないことなのだ。

 大切な人との永遠の別れを知ってしまっている分、余計に諦められるような事柄ではないのだ。

 テトは、強い。

 腕を組んで必死に思案しはじめたテトにフィシュアは目を細めた。

 テトに比べて自分はどうだろう、と自分の情けなさを鑑みずにはいられなくなる。

“どうしようもない”という諦めの思いと、“何とかしたい”という二つの思いがせめぎあっている。

 テトが諦めずに一直線によい方法を模索しているのに対し、自分はそのどちらにも決められないでいた。

 テトがメイリィのことだけを思って考えているのに対し、自分はきっとそうではない。

 さっき泉でシェラートに言われた通りだった。

 メイリィに過去の自分を重ねてしまっている。

 私は逃れられなかった。だから、彼女だけは、と願ってしまうのだ。

 ただ、彼女が置かれた立場にも事情がある分、他人が安易に首を突っ込んで、掻き乱してはならないものだということも知っている。

 それもまたフィシュア自身同じだった。

 フィシュアは溜息を飲み込んで、その考えを振り払った。

 今はそんなことを考えている場合ではない。

 テトが難しいと知っていてもなお諦めないと言うのなら、少しでも力になりたいと思う。メイリィを助ける道があるのなら、自分も投げ出さずに考えなければと言い聞かせる。

 だけど、何度考えても行き着く結論は同じだった。自分たち三人だけで事を運ぶのは無理だ。

 誰か他に協力してくれる人がいたなら、と歯噛みする。

 ただ、協力者になってくれる人がこの村にいるとは考えにくかった。誰もが皆、水初の儀を、神官達が水端みずはなの巫女に下した決定を、信じて疑ってはいないからだ。

 フィシュアは顎に手を当てながら、窓の外に見える純白の神殿を睨んだ。

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