暗闇
鈴木女子/消す
暗闇
強烈な不快感が彼女を襲った。まるで二日酔いを極限まで酷くしたような……。まぶたを開くと、そこは真っ暗な場所だった。
「ぁ……」
なんとか絞り出すことができたのはそんな掠れた声。もしかしたら何日も眠っていたのかもしれない。彼女はそういった知識に明るい方ではないが、体の感覚と、わずかな知識と知識で組み立てた直感でそれを悟った。
光のない場所で、彼女はわけがわからなくなる。
自分がここにいる理由。眠っていた理由。そして最後の記憶。
最後の記憶で彼女は、家にいた。そこから先が曖昧だ。おそらく、その時自分は何者かに襲われここに幽閉されたのだろう。
理解すると同時に、恐ろしくなった。
人はわからないことに恐怖すると言うが、自分の死を意識せず、鈍感なまま日常の平行線で迎える最期と、死を宣告され、直前までそのことを意識させられた最期とでは、後者が圧倒的に残酷な終わり方のはずだ。
死の予感を照らし出す暗闇で、彼女は声を張り上げた。
◇
主人公が「僕」と言う一人称を使う小説が、僕は苦手だった。「僕」とは本来、あまりいい意味ではない、自分をへりくだって使う一人称だ。好き好んで「僕」と言う主人公の気が知れなくて、だからそんな小説を読んでいると背中のところがむずむずしてくる。
書店にやって来て、手に取るのは「俺」や「私」などの一人称小説ばかりだ。もちろん僕の本棚に「僕」と言う一人称の小説はない。
一応、僕にもたくさんの小説を自由に読みたいという思いはある。「僕」が一人称の小説だって、本当は読んでみたい。だけど、こればっかりは僕にはどうしようもできなかった。気合いで解決するような問題じゃないのだ。「僕」。その単語が目に入ると、体が拒絶反応を示すから。
もっと、自由な読書生活を送りたいのに──。
僕がそんな思いの丈を語ってみると、今まで黙って聞いていた累がようやく口を開いた。
「それで?」
僕と累しかいない教室に、沈黙が訪れた。
累は実につまらなさそうな顔で僕を見つめていた。火傷しそうなくらいに冷たい視線だった。
「それだけだよ」
「あっそ」
ため息混じりの言葉。僕は、ゾッとするような寒さを覚える。
「どうしたんだよ愛川。今日は一段と冷たいじゃないか」
「どうしたもこうしたもねえよ、杉下。俺はそんな下らない話を聞くために放課後に呼び止められたのか?」
「そうだよ」
僕がそう言うと、累はなにも言わずに立ち上がった。
そして教室を出ていって、僕に「戸締まりよろしく」と言う。鍵は、僕の机の上にあった。
「ああ……」
面倒だが、戸締まりは最後に教室を出た人間が行うのがルールである。僕はそのルールに従い、すべての窓のクレセント錠を確認し、後方のドアを閉め、電気を消して教室を出た。そして引違戸錠の鍵を下ろし、人気のない廊下を歩いていった。
僕がいちいち累を引き留めたのには、もちろん理由がある。少しでも長い間、教室にいたいという思い──いや、家に帰りたくないという思いがそうさせたのだ。
僕はそのあと、いつも通っている書店で時間を潰した。時間を潰すため読んだ本のなかに、主人公が「僕」という一人称の本はもちろんなかった。
時間を潰すと、僕は家に直帰した。足取りは重く、夢のように不確かだ。
ペンギンみたいにちまちまと歩いていると、何者かに声をかけられた。
「杉下先輩。こんばんは」
徹だった。野球部のユニフォームを着て、胸一杯に氷の入った袋を担いでいる。そういえば、学校の製氷機が壊れていた。どうやらその期間だけ雑用を任されることになったようだ。
「やあ、徹くん。こんばんは」
僕が名前を呼ぶと、恭しく頭を下げた。可愛い後輩である。
「家に帰るところですか?」
「そうだよ」
答えると、徹はたちまち眉をひそめて悲しげな表情を作った。
「杉下先輩。今からでもうちに来ませんか?」
うちに来ませんか、とは、つまりうちに住みませんかということだ。彼が僕にそこまで言えるのは、徹が僕の従弟だからである。
杉下徹。それが彼のフルネーム。その彼が僕を「杉下先輩」と読んでいるのは、自分の名前が嫌いな僕を慮ってことのことだった。そうでなくとも僕という名前は変わっているから、気の置けない仲だって僕を下の名前で呼んだりしない。
唯一僕を下の名前で呼んだのが累だった。「下の名前では絶対に呼ばないでください」という変わった自己紹介で教室の空気を悪くしてしまった僕に、累はその名前を連呼した。おかげで僕は新学期早々教室でゲロをぶちまけた。
「ありがとう。でも、迷惑はかけられないよ。それに、こうなったのも全部自分のせいだから」
肩を竦めてみせる。
「杉下先輩のせいじゃありませんよ。俺がいなければ……」
と、そろそろ空気が重くなってきた。それに何度めの問答だろうか。さすがの僕も飽きた。
僕はずれてない眼鏡の位置を直す素振りをして、話を無理やり終わらせた。
「ま、いいじゃん。徹くんも、早く行かなくていいの? 先輩に怒られるんじゃない?」
「あ、そうでした! すいません。さようなら!」
器用に片手で氷を抱き上げて、徹は僕に手を振って走り去っていった。
僕は笑って見送っていたが、徹の姿が見えなくなると無表情に戻って家までの道のりを歩き始めた。
十分ほどで家についた。
玄関のドアを開けると、静かに家のなかに入った。「ただいま」と言うと怒られるからだ。一人前に「ただいま」なんか言いやがって、まるで家主のようじゃないか、と、確かそんな感じの理由だった。
帰宅すると、僕はまず家事に没頭する。それが僕の役目であり、また、その間は誰も僕の邪魔をしないから。僕はできる限り丁寧に、長く作業をする。
僕の両親は家族間に徹底的な上下関係を敷いている。親は絶対君主であり、僕は奴隷にも似た従者。毎日こき使われ、暇なときに殴る蹴る……。要するに僕は家事からストレス発散の手伝いまでなんでもこなす手頃なサンドバッグというわけだ。
心休まる瞬間なんて一時もない。寝ることもできない。寝ていたら、その間なにをされるかわかったもんじゃないからだ。なにより、主が起きているときに寝る従者なんてこの世に存在していいはずがない。
だから、僕にとって学校とは唯一心の休まる場所なのである。
◇
彼女の声はどこにも響かなかった。喉は、長らく使っていなかったのか弱々しい上、なぜか体に力が入らない。
出てきたのはせいぜい、「……ぁぁ…………あ……ぁ…………ぁ!」なんて掠れた声。助けを呼ぶにはあまりにも、弱すぎる。
暗闇は晴れなかった。代わりに、さらなる絶望が訪れた。
さきほどの彼女の声を聞き付け、犯人らしき人物の足音が近づいてきた。
足音が彼女の前で止まると、突然体に衝撃が走った。
小さく声を漏らして体は転がっていく。怒号が彼女に飛んできた。その声には聞き覚えがあった。
しかし、彼女の頭にあったのは犯人の正体ではなかった。犯人の目星なんて最初からついている。そんなことより真っ先に頭に浮かんできたのは、この暗闇のなかで、どうやって犯人は正確に自分を蹴りあげたのだろうという疑問だった。
◇
嫌な夢を見ていた気がする。
僕が勢いよく上体を起こすと、授業中だった。
「いいところで起きたな。杉下、この問題を解いてみろ」
妙に髪の毛が盛り上がっている教師が笑っていた。
黒板の真ん中から右寄りの箇所を示している。そこで見たこともないような数式が踊っていた。
「わかりません」
と正直に僕は答えた。
授業中に堂々と寝ているはずなのに、なぜか黒板の難しい問題をさらりと解いてみせて教師を悔しがらせる、なんてシチュエーションが本当にこの世に存在するのかはたして疑問である。
僕にはとても真似できない。
学校は寝床という認識で、帰宅しても勉強なんてしない僕の成績は当然ながら悪い。赤点の常連である。そのため、夏休みはよく補習で学校に呼び出されていた。まあ、一秒でも家にいたくない僕にとっては好都合だが。
僕があまりにも堂々とわからないと言うものだから、教師もクラスメイトも気をよくして笑った。教室が爆笑で包まれた。累も「ばーか」とでも言いたげな顔で笑っている。
僕はたいして気にも留めずノートに向かった。せっかく授業中に起きれたのだから、たまには真面目に勉強してみようという腹具合だ。その意図を察した教師は、その意気だと思って授業に向き直った。
放課後、僕は累に引き留められた。昨日僕がそうしたようにである。
「なあ、昨日この町で、萩原弘子って女が誘拐されたの知ってるか?」
もちろん、僕は知っていた。教室はその話題で持ちきりになっていたから嫌でも耳に入ってくるし、集団下校するようにとのお達しがこの学校でもあったはずだから。いちいち確認するのも馬鹿らしい話である。
「知ってるよ。放送で呼び掛けられたし、プリントも貰ったでしょ」
「そうだな。……なあ、杉下の実家は確か、シャーマンみたいな家系なんだろ?」
「知らないよ。両親はとっくに勘当されてるから、詳しくは耳に入ってこないんだ」
というか、僕は実家のやっていることに興味がない。
生まれつき備わっている超自然的な能力を用い、様々な事件を解決する――だとかなんとか怪しい仕事をしているのが僕の実家だった。
本来なら長男である僕の父が実家を継ぐところだったが、結局時期当主に選ばれたのは僕の叔父にあたる人だった。それが原因か、僕の両親は頭がパアになって勘当された。
『おかしくなった』。その具体例が名前だ。
もともと両親は、僕に「裕太」という普通の名前をつける予定だったらしい。しかし、頭の壊れた両親は、僕の名前に呪いを込めた。そして僕は一生、この名前に苦しめられることになったのだ。
だから、僕は自分の名前が嫌いだった。そしてこの家のことも。
「たぶん、シャーマンとは違うんじゃないか? なんとも言えないけど」
僕は曖昧に答えた。
「シャーマンかどうかはどうでもいいんだ。杉下、お前に超能力があればそれで。なあ、杉下は念動力とか読心能力とか持ってないのか?」
「持ってるわけないだろ。馬鹿らしい」きっぱりと言ってやった。「そういうのは、徹くんの方が詳しいよ。いずれ家督を継ぐのは彼だし」
「徹はそんなに仲良くねえからなあ……」
「話が見えてこないな。愛川、つまりなにが言いたいんだ?」
「お前の能力で萩原弘子を捜せないかと思ってな」
「そんなことできるわけないだろ。第一、なんで愛川がその萩原弘子って人を探さなくちゃならないんだ?」
僕が訊くと、累が楽しそうに口の端を歪めた。
「友人づてで面白い話を聞いたんだ。まあ、お前になにか能力があれば手伝わせようと思ってたんだが……」
残念だ、と繋げようとしてやめる。
千里眼とか読心能力があれば楽に萩原弘子を捜せたんだがな……と、累は思った。
「なあ、本当になにも持ってないのか?」
「持ってないよ。物は直接触らないと動かない。遠くの景色は見えない。人の心なんて読めない」
累は、つまんねえのと心のなかで吐き捨てて、教室を出ていった。鍵は僕の机の上にあった。
最初は昨日と反対の構図だったが、最後は全く同じ構図になった。人を呼びつけておいてなんだと、僕は苛立ちながら戸締まりをして累を追いかけた。
◇
今、真っ暗なところにいる。光源はひとつもない。最後の記憶はかなり曖昧で、車のなかにいたことは覚えている。外から環境音がする。そこまで狭くないから、少なくともバスルームではない。助けて。
支離滅裂だった説明を要約すると、萩原弘子が最後に残した言葉はそんなところらしい。これは、萩原弘子の友人が昼間に受け取った電話で、萩原弘子本人が言ったことだ。連絡はそれっきりである。
警察が萩原弘子の自宅に駆け付けると、そこに萩原弘子が通話に使用した携帯電話があったそうだ。
被害者の言葉が本当なら、萩原弘子は太陽の光が届かない暗闇に拉致され、その場で友人に連絡したはずだ。それなのに、どうして携帯電話だけが自宅に残されていたのか謎だった。
ちなみに、どうして累がこのことを知れたのかというと、累の友人──吉沢義人という人物の姉が萩原弘子から電話を受け取った張本人だかららしい。
「で、教えてやったんだから、当然捜索には協力してくれるんだよな?」
たまたま通りかかった喫茶店でコーヒーを飲みながら、累は言った。
「それはもちろんだよ。でも、なんだってそんなに萩原弘子の行方が気になるんだ?」
「近くでこんなに面白い事件が起きてるんだぞ? ほっとけるか」
つまりは単なる興味本意らしい。悪趣味なやつだった。
「ところで、警察は今どうしてるの?」
「当然、萩原弘子の捜索さ。一切光の届かない場所──一見地下室を連想させるが、外の環境音が聞こえてきたということはそうじゃないらしい。バスルームじゃないと本人が言ったそうだから、それなりに広い場所で、地下ではなく光の一切届かない場所。そう絞って捜査してるようだ」
「ふーん」
参考にならなかった。警察はどうやら、全く見当違いな捜査をしているようだ。
「気のない返事だな」
「警察って使えないんだなって思ってさ」
僕が正直に答えると、累はムッとした。大きい態度が気に入らないらしい。
「まるで、自分は真実を知ってるって言い方だな」
「うん。大体わかったよ」
「そうか大体わかったのか……。そうだよなあ、普通わかるよな──ってマジか!? もうわかったのか!?」
「うん」
相当驚いたようだ。累は漫画みたいな反応をした。
現実では初めて見る反応が面白くて、僕はつい笑ってしまう。
「やっぱり、超能力なのか?」
累の頭にあるのは、「千里眼」という能力。
「残念ながら、違うよ」
「どういうことなんだ? 教えてくれ」
いいだろう。僕は説明を始める。
「おそらくだけど、萩原弘子はもう死んでいると思う。死因はメタノールの摂取による急性アルコール中毒」
「急性アルコール中毒?」
そう、と僕は一拍置いて話を続けた。
「通常、酒にはエタノールっていう成分が含まれている。だけど、質の悪い安酒だとメタノールっていう成分が含まれたりすることがあるんだ」
僕が説明を続けても、累にはどうもピンと来ない。
「そもそも、エタノールとかメタノールってなんだよ?」
「どっちもアルコールだよ。エタノールでも急性アルコール中毒にはなる。だけど、エタノールはそこまで危険じゃない。危険なのはメタノール。こいつは誤って口に含むと最悪死んでしまうこともある猛毒なんだ。助かっても視神経がやられて失明するらしい」
「エタノールでも急性アルコール中毒になるんだろ? じゃあなんでメタノールの摂取ってわかるんだ」
「言ったろ、メタノールを摂取すると視神経がやられて失明することがあるって。彼女はたしか光源がひとつもない真っ暗な場所に幽閉されてたんだろ? でもおかしいじゃないか。携帯電話を使っていてどうして光源がひとつもないんだ? 携帯電話の明かりがあるはずなのに」
「あ」
累も気づいたようだ。
「つまり、彼女の目には携帯電話の画面が発する明かりが届かなかったんだ。彼女は手探りでどうにか電話帳を開いて、一番上にあるだろう『あ行』の誰かに電話をかけたのさ」
「なるほどな……」
今、真っ暗なところにいる。そう彼女は言った。だがそれはその場が暗かったのではない。彼女の目がなにも映さなかったのだ。
「それと、彼女は最後の記憶が曖昧とも言っていた。泥酔していた証拠だよ。車のなかにいたってことは、外で酒を飲んで、自宅まで車で送ってもらったんだろう。このあとは状況から推察した完全な想像だけど、運転手は萩原弘子を自宅まで送り、そのあと萩原弘子の自宅でまた飲み始めたんだと思う。彼女は一人眠ってしまった。そして運転手がコンビニにでも行ったときに、間が悪く萩原弘子は目覚めた。その時点で彼女は失明していた。恐怖から電話で友人に連絡し、その後息耐えた。戻ってきた運転手は、彼女が死んでいることに気が動転して、死体を処分してしまったんだと思う。とはいえ運転手も飲んでいたのならそう遠い場所ではないはずだよ。もしかしたらベランダから投げ捨てただけかもしれない。累が言ったように条件を絞って捜索をしているのなら、しばらくは見つからないかもしれないな。ほら、灯台もと暗し」
かなり長い台詞だったので、僕は疲れた。口内の唾がなくなって喉が渇く。普段はこんなに喋らないから、喉が退化している。
累はなにかを考え込む素振りをしていた。僕の推理を頭のなかで検証しているのだ。
「……愛川が萩原弘子を捜していた理由もわかるよ」
「あ?」
愛川が身を乗り出してきた。ずいぶんとわかりやすい反応をする男だ。
「吉沢義人だなんてわかりやすいねつ造しちゃって……なあ? あ行の愛川累くん」
「……」
「萩原弘子の友人……それはお前の姉だろ? ははん、さしずめ姉に泣きつかれたんだろう。友人が異常な状況にあって、混乱している姉を見ていられなかった」
「……そうだよ、吉沢義人ってのは嘘さ」
事実を指摘すると、累はあっさりと観念した。
「姉貴のために動いてますって正直に言うのが気恥ずかしくってさ……」
「ふーん。シスコン」
「……だから正直に言いたくなかったんだよ」
累は僕をキッと睨んだ。僕は累の視線をさらりとかわす。
「ところで、どうしてエタノールだとかメタノールだとかそんな普通なら知ってそうもないことを知ってるんだ? お前ただでさえ成績悪いキャラのくせに」
「あいつをどうやって殺してやろうかなーって普段から考えてるからだよ。将来のために今から知識を蓄えておかないとね」
「うわ……」
と累はドン引きしていた。
もちろん僕の言葉はでまかせである。僕に誰かを殺すつもりなんてないし、将来その気になることもないだろう。
僕にそんな知識があったのは、実際に萩原弘子と同じ体験をしたことがあるからだ。
僕がまだ小さい頃、両親に無理やり安いワインを飲まされて一時的に失明したことがある。その間、彼女は両親に殴る蹴るなどの虐待を受けた。なにも見えない暗闇のなかで、だ……。今でも僕は、眼鏡をかけないとなにも見えないほどに視力が弱い。
だから彼女は、累から萩原弘子の話を聞いたとき、真っ先に誘拐事件とメタノールを繋げることができたのだ。
しかし、そんなことがあってなお、僕に両親のもとを離れるつもりはなかった。両親がおかしくなってしまったのは全部自分のせい。自分が、女に生まれてしまったのがいけないのだ。もしも僕が男に生まれていれば、僕の父は家を継いでいただろう。そうなれば、両親がおかしくなることもなかったはずだ。
「愛川」
「……なんだよ」
「もしも私が男に生まれていたら、どうなっていただろうか」
突然の僕の質問に、累は意図が掴めない。
「はあ? んだよそれ。要領を得ない質問だな。なんだ? お前が将来人を殺す予定があるのは、女に生まれたからか?」
「そうだよ」
僕はいい加減な嘘をついた。
「んー……。男だったら、お前の『シモベ』って名前もいくぶんか違和感がなかったろうな。女なのに『僕』って名前は変だ」
「だよね」
そもそも男だろうが女だろうが「僕」って名前は変だけど。それに男に生まれていれば私は裕太だった。と、僕はそう思った。
「もしかして、殺すのは徹か? たしか徹の父親がお前の実家の次期当主なんだろ? だったらその次の当主は徹だろ。運悪く女に生まれて、当主の座を奪われた恨みか」
「違うよ」
彼はなにも悪くないし、むしろそのことに心を痛めている。そんな彼を恨むなんて、彼女にはできない。
「じゃ、両親か。変な名前をつけられた恨みで……」
「めんどくさいな。お前なんかに教えるわけないだろ」
「つまんねえ」
「そんなことより、さっさと家に帰ってこのことをお姉さんに伝えてきなよ」
「ああ、そうだったな」
彼は立ち上がった。
「じゃあな、杉下。また明日」
累は軽く手をひらひらとさせて去っていった。
僕ただひとりがテーブルに残される。
………………。
僕はあのとき──目から光を失ったとき──生まれて初めて死を予感した。その恐怖は、今でも体にまとわりついている。彼女は暗闇に一時でも身を置けない。暗所恐怖症になってしまった。
それでもこうして生きているのは、本当に奇跡というしかない。本来ならあのとき、彼女は死んでいたはずなのだ。
そのことに少し、思うところがあった。
◇
そのあと、萩原弘子は死体になって発見された。
僕が睨んだ通り、死因は急性アルコール中毒で、死体は彼女の自宅近辺で見つかった。
犯人は飲み会で彼女を自宅まで送った男だった。少し外出している間に死んでいた萩原弘子を見て気が動転したのか、どういうわけか死体を処分してしまったらしい。ただいま死体遺棄の容疑で取り調べを受けている。
「お前すげえよ。探偵になった方がいい」
教室の窓から照らす夕日が、累の称賛を飾った。
「たまたまだよ。たぶん、急性アルコール中毒じゃなければこんなに推理が的確になることもなかった」
「急性アルコール中毒じゃなければ?」
しまった。今の僕の言葉は失言だった。
「もしかしてお前、同じように死にかけた経験でもあるのか?」
今度は、累が探偵になる番だった。僕の失言をきっかけに、累は彼女の事情を根掘り葉掘り訊いてきた。今度ばかりは僕にも隠し通せない。
「んだよそれ! 胸くそ悪ぃな……」
「お前みたいな顔面を生み出してしまった愛川の両親の方が胸くそ悪いよ」
累が勢いよく立ち上がった。
僕は今の発言に気を悪くしたのかと肩をビクつかせたが、そうじゃなかった。累は僕に背を向けて歩き出した。
「急にどこへ行くんだよ」
「お前の家に決まってるだろ」
「はぁ!? 私の家に? なんで?」
「一発ぶん殴らねぇと気がすまない」
累は右手で拳固を作って左手のひらに打ち込んでいた。
僕はこれまで、自分の家庭環境に他人が干渉するのを許したことがない。たとえ徹がなにを言おうとにべもなく断ってきた。
しかし、累の場合、僕がなにを言ったところで話を聞いてはくれなさそうだ。もしかしたら今日で、僕のすべてが激変するかもしれない。
環境の変化。僕は一瞬、不安になる。
しかし不思議と、累が一緒ならどんな暗闇も晴れるような気がした。
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