第6話  Kamui and I are lonely

 池の中もやはり暗黒。


 トノトが『アイヌ』の体に染み込んでいく。皮膚から、毛穴から、口から、鼻から、耳から、目から。不快だが、ここにはカムの意を感じる。そのカムは攻撃意識の強い荒神アラガム。彼が最も望んだもの。

 溺れた犬のように暴れたりせず、膝を抱えて待つ。

 やがて光となってやってくる。これで三回目だから。

 そもそも何をせずとも浮かぶ。人間の体はそんな作りになっている。その間『アイヌ』は膝を抱えて丸くなる。

 体の芯に光が見える。その光はサキヨミ。自分にとって最も不要な自分。しかし、逃がしはしない。復讐は、相手がいなければ復讐にならない――そんな理屈をもって、ふたたび体に押し込める。

 カムイは一人に一つしか持てない。カムイ自身が他と共存を拒むから。しかし『アイヌ』には才能がある。複数のカムイを宿せる『うつわ』。この『器』にありったけのカムイを詰め込んでしまえば、何でもできる。

 海斗に、琴美に、イナミに、九零。先当たってイナミがいいだろう。九零は最後にしてやる。その間、苦しんで苦しんで、苦しめ――そんな荒んだ心に惹かれて寄り付いてくる光が一つ。

 蛍ほどの儚い光が、『アイヌ』の胸にやってきて、侵入する。

 『アイヌ』の顔が、みるみる活気付いてくる。その顔は災いをもたらす鬼が、無辜の民を見つけたような、残虐な笑み。


 ◆

 西条医院には穂名田咲とその両親、友人の陽、三人の警察官。

「いやっ!」

 咲が声を上げると、鉄板に水を垂らした音がして、全員がそちらを見る。

 彼女の視線上にあったコーヒーメーカーの水が沸騰、蒸発していく。

「あかんっ! みんな、逃げっ……ああっ!!」

 彼女の周囲にある氣を元に、炎が上がる。すべてを焼き尽くさんと焚ける炎。

 凄惨。

 火元は十二歳の少女に映るもの全て。

 害意などない、純粋無垢に泣き叫ぶ少女の能力で西条医院から火の手が上がる。

 


 ◆

 

 イナミの周囲に人魂のような火が浮かぶ。

 一つ、二つ……十の火の玉が暗闇を照らす。

 濁酒の池、イナミの姿もそれに照らされる。

 イズナが最大限の警告をだす。インパルスを利用して脳に直接訴える警告。イナミは池から三歩下がり、構える。

 水柱が上がり水飛沫が散る。一帯は酒の臭いで蔓延する。

「カムイは通常、一文字で現す……二つ以上を憶えることで、敬意の度合いが変わり力もつく」

 池からゆっくり這い出た『アイヌ』はまさしく異形。

 酒びたしの髪が床につくほど伸び、黒衣闘着もあいまって、黒い塊。

「射に綱と書いて『射綱イズナ』だったな。射る者と射られる者は綱で張ったように繋がっている。それを仲介し、手助けするカムの意……手強い。しかし、やりがいのある相手だよ」

 垂れた前髪の隙間から出た、紫の瞳。イナミを睨む。

「俺には三つのカムイがある……忌まわしいサキヨミと『カナキリ』――おっと、これは初耳だったか」

 独り言のように低い声で『アイヌ』が喋る。


「カナキリは九零がくれたんだ。俺が脅したんだよ。すると、このカムイをあげるからお嬢様を殺さないでぇ~だぜ? 笑えたぜぇっ?」

 黒い塊が声を上げて身をよじる。壊れた人形のように笑いながら。

「そうそう! そしてエンジャだ!! ただの炎じゃねぇ! に続く二つ目の文字! 何だと思う?」

 イナミは返事をせず、左拳を握り、右腕を前に出す構え――本命の二発目を必ず当てる構え――そもそも返事などできる余裕がない。

「蛇さ! 炎の蛇で『炎蛇エンジャ』だぜっ? 昔、火山の噴火をみたノミどもが、吹き上がる炎と蛇を一緒くたにして、それから蛇身カミがどうのこうのって昔話!! 知ってるよなぁ? 散々聞かせたモンなぁ? そのカムイを手に入れちまったっ!! あーあ、あはっ、あははは!!!!!」

 『アイヌ』の笑い声に共鳴するかのように、取り囲んでいた火の玉が焚け、地下社を照らす。

 イナミの、もしかしたら許してくれるかもしれないという淡い希望は、風前の灯。

 不気味な笑い声を発していた『アイヌ』は、夏風のような気まぐれをみせ、突然、張り詰めた空気を変えるように息をつく。

「ま、良い事ばかりじゃない。何っつった? 咲だったか? あの娘とシンクロしてよ……俺がエンジャに指令をだすと、あいつのエンジャも発動しちまう」

「咲ちゃんが? 何でさ!」

 イナミは問う。

『アイヌ』は肩をすくめる。我、存ぜぬと言いたげに。

「大方、俺の得たエンジャが親だからだろう。親の意思と直結したいい子――お世辞にも使い勝手が良いとはいえないな。頭に血の上った雑兵なんて盾にもならん」

 ああ、でも、と『アイヌ』は考えるように腕を組んで、独りごちる。

「訓練すればいいのか。俺の言うこと全部、的確に動くよう調教すれば……」

 ぶつぶつとこれからの計画を思いつくだけ呟き、否定し、改正していく。イナミは動くことが出来ない。また構えを解くこともできない。

 二人の距離は二メートルほど。イナミが先手を取ることは容易。それを加えてもイナミが勝つ要素は零に等しい。

 理由は単純。『アイヌ』の氣力に圧倒されていたから。

 達人がみせる隙の無い構えとは違う。当たっても倒すことができない確信。そうさせたのは膨大な外氣。悠々とそびえる山に拳を向けても崩せないように、イナミは無力感に苛まされる。


「私さ……ずっと考えていた」

 この場面に言葉を発することがどんなに怖いものか。

 強大すぎる相手の前で自己を主張することが、イナミにとってどれほどの恐怖か。

 それを克服する人間の勇気が、努力が、根性がどれほど美しく、純粋か。

「仕方ないもんな……殺されても、仕方ない。私、あんたの苦しみを知っていて何にも出来なかった。親父が姉貴を殴っても、あんたが母さんに殴られても庇いもしなかった」

 ゆっくりと構えを解いたイナミは、その表情を緩ませる。

 それは、照れ笑い。

 素直になろうと自分に言い聞かせての笑顔。そして言葉。

「ちょっと癪だったんだ。姉ちゃんより私のほうが先にあんたと出会ったのに、婚約とか勝手に決めちゃって。しかもあんた、それを一つ返事で承諾するんだもん……正直、ぶち壊したい気持ちはあった」

 『アイヌ』は髪をよりわけ、イナミをみて微笑む。

 それをみて、イナミは続ける。

「お互い、小学生だったけど、あの時はそれが全部だったから。で、色々あって社会に出て苦労して……それでもやっぱり、殺されるのを待っていたよ。でも今、私はただで殺されるのがいやになった。許してもらってから、殺されたいんだ」

「許す?」

「うん。『もういいよ。気が晴れた』って言って欲しい……私があんたを、好きって気持ちもわかってほしい」

 舐めるような視線で『アイヌ』はイナミを見る。

「イナミ。俺は結構お前を好いているぞ?」

 笑いをかみ殺したように『アイヌ』は言う。

「出るところは出ている、そのスタイルにそそられるし顔もいい。料理が下手なところに愛嬌がある」

 その声に偽りは無い。ただ、少しずつ下卑た心が表れていく。

「それより何より、お前の首が好きだよ……へし折ってしまいたい、けど、折ったら死ぬ。こんなもどかしさを感じるのはお前だけだ」

 世界が凍りつく。

 冷たい殺気。時間まで止めてしまうような瞳。

 ぱきぱきと『アイヌ』が指を動かすたびに、音がする。

「イナミ……もう焦らすのはやめてくれ」

 氷の上に氷を張るような、殺気の上乗せ。凍りついた世界がさらに冷たくなっていく。

 『アイヌ』は名を捨て、獣と化す。その咆哮は百獣の王。

「イ・ナ・ミぃぃ!!」

 名指しされた獲物は、緩ませていた表情を瞬時に、きつく引き締める。

「せめて、九零とイドを自由にしてやって」

「カ、カカッ……カカカカカ!!!!」

 そんな願いはもう届かない。獣は人間の言葉を知らないのだから。

 イナミは構え直す。許してもらうことを諦めず、許してもらうために戦う。

 

 この最も難しい戦闘をする以外、救われる方法が見当たらない。

 濁酒を貯めていた池から、無数の光が音も無く飛び出す。すると地下であるはずなのに風が吹く。


 火の玉が消え、それ以上の灯りが空間を照らす。辺りに暗黒はない。一面、光の草原と化す。

 天に一つの大きな光。

 地には細かい光が視界の限り広がって、地平線までそれが続く。

 まるで金色の稲穂。世界は光り輝く秋の田園に思える。

 別世界。ここに人間はいない。

 居るのは獣と、カムイ使い。

「三つ揃えて、やっと神居カムイの最下層か! まだまだ伸びしろあるってよ!!」

 獣の咆哮が木霊して、ここの広さを十二分に伝える。

「やろうぜ! 存分に痛め、苦しめ、泣け、叫べ!! 九零もイドも、よーく見ろ!! !!!!」

 殺気がさらに上乗せされる。ここの光もそれに合わせて稲穂のように揺れていく。

 その恐怖をかき消すため、イナミは吼える。

「告られて舞い上がってんじゃねぇよ!! 童貞野郎!!!!」


 先手はどちらだったか。

 光の稲穂が揺れると、両者の拳が交わって互いの顔面にぶつかる。そこから衝撃が広がり、さらに金色の稲穂がざわめく。

 どちらも必殺の真打。全力を込めた一撃。

 両者の体は反発するように弾け飛ぶ。ややイナミの飛ぶ距離が長い。力は『アイヌ』に軍配が上がる。


「イズナ!!」

 イナミは空中で風に憑依させ、竜巻を作る。その規模は久島たちを撃退した局面の比ではない。『アイヌ』まで百メートルあろうかという距離までの、全てを風が切り刻む。

「なら、もう一丁、イズナ!!」

 『アイヌ』の周囲に氣が集まる。それは電気でいうプラス電荷。天に集まる氣はマイナス電荷。その二つの氣の塊から摩擦が生じ、落雷が何度も起きる。


 竜巻と落雷の連撃によって『アイヌ』は顔を歪めるものの、余裕。

「やるじゃねぇか! 神居カムイでの戦い方をわかってやがる!」

 それは『アイヌ』が教えたことではない。神居カムイには独自の風のカムイがあり、雷のカムイがある。全てのカムイが生まれた場所。彼とて初見。

 知るよしもない場所でイナミが全力を超えるのは、やはり才能。

 髪と服を切り刻まれ、落雷で身を焼かれても『アイヌ』は笑う。痛快とはこのことかと。

「さっそく使う!」

 全てを焼き尽くす炎の蛇が姿を現す。竜巻も雷も焼き尽くし、辺りの光も焼き尽くす。もし久島なら、これをの炎と呼ぶだろう。

 大蛇のようにくねりながらイナミの着地したところまで火が押し寄せる。


 イナミは空歩くうほで逃げる。本来なら間合いを詰めて『アイヌ』の懐に入りたい。

 しかし『アイヌ』の周囲にはとぐろを巻いた炎が、攻防一体の姿を成している。

 さながら火にくべられた巫のように、『アイヌ』は満足げに言う。

「いい感じじゃねぇか! 自由自在に動かせる!」

 虫を払うように『アイヌ』は手を振る。イナミに向かって四方から炎が押し寄せる。空歩を使い、素早く空中に退避しても、大氣を燃やしながら、導火線についた火のようにイナミを追跡する。

 だが、一回の空歩でイナミが進んだ距離は三十メートル。イナミにはそれが不思議。大男を倒したときの全力は今、半分以下で出せる。イズナも二回使ったが、全く影響が無い。もっと言えば最初の一撃のダメージも少ない。

 力が湧いてくる。どんなに火が迫ってきても、すぐに逃げられる――限界を出してみようかという空歩を使う。

 その一歩の空歩。軽く百メートルを超える。

 封氣呪を外していないのに。体も、氣も自分のものではないような奇妙な感覚。

「それは神居カムイの効力だ――調子にのるな」

 イナミの背後から『アイヌ』が迫る。彼女の顔面めがけて、拳を振りかざしている――しかし見当違いの方向にイナミは右拳を繰り出す。何もない空中に。

 が、微かな手ごたえ。髪の毛に触れた感覚。

 背後の『アイヌ』は揺らいで消える。魅入みいれ。イナミの勘が冴える。

 声が聞こえたのは後方からだ、なら私を振り向かせてを残し、本体は死角に入りこんでくる。上か下か、左か右か――刹那に判断し、イナミが拳を突き出したのは左。すると髪に触れた感触。今、自分に追い風が来ていると直感し、自信となる。


「狐、曰く、化けるなり! 憑き物にして隠す者! 射る者に憑きし化け、形を操るつなと成る! そなた知るこなたに! 射んとす者に射綱イズナカムれ!」

 もし一面に広がる光の稲穂を土に譬えるなら、揺れている限り地震も起こせる――そんな博打。これが吉と出る。

 地震とは呼べないが稲穂たちの揺れが激しくなる。まるでイナミに陶酔し狂喜乱舞。稲穂が光をまき散らす。

 イナミにとってこの行為が攻撃より遥かに有効な一手。先ほどの自信が確信に変わる。

 神居カムイ


 しだいに音を立て、盛大に、激しく空間が揺れる。禁歌きんかを詠唱し、解き放たれたイズナに再度、憑依させたのは大氣。世界の構成要素。それに憑依させるなど、考えついても実行でき無い――人間界ならば。


 人間界における氣の概念ではなく、外氣、内氣、大氣の全てが直結している世界――人間界ならそれらは個々に違う密度と量を持って流動する。しかし神居カムイでは。どんなに走ってもガス欠をしない車に乗っている気分。氣力消費の概念は捨てても良い。

 

 イナミがその考えに至ったのはまず、九零の言葉。夢で聞いた、という言葉。そして『アイヌ』の発言を合わせて――イナミ、二十年の人生において初めて、喧嘩相手に最大の感謝を覚える。


 想い人と夢での会話、対戦者の挑発すら戦いのヒントとしてしまう。

 そこまで育ててくれたことに、イナミ、一礼。

 最早、イズナで操れないものは無い。

 まさに無敵。


「さすが小賢しい! これも指導の成果かぁ? はははは!!!!」

 落下する『アイヌ』の周囲に炎は無い。エンジャとてカムイ。氣が無ければ発火できないし空歩による浮遊も不可能。今や大氣はイナミの手中。

 神居カムイの大氣を全て支配したイナミは女王。悠然と宙に浮かび、眼下に這う『アイヌ』を見下す。勝敗は決定的。彼女には無数の攻撃手段が備わっている。『アイヌ』の武器は華奢な肉体に残された外内氣のみ。例えるなら戦艦空母に対して竹やりで戦うようなもの。


 これが普通の戦いならイナミの完全勝利。だが、イナミの戦いは相手を制する戦いと異なる。相手に判らせる戦い。自分の気持ちを知ってもらうための戦い。

 あまりに自己中心的な『暴力』でもなく、身を守るための『武術』でもなく、ただ相手に理解してもらう『告白』。


 イナミは静かに舞い降りる。金色の稲穂が主を迎えるように揺れる。

「満更でもなさそうなツラしやがって……いいよなぁ! 強ぇってことは!」

 そう叫ぶ『アイヌ』の氣は揺るがない。

 もしイナミがその気になれば神居カムイを再構築、人間界と同じに変換することも出来るし『アイヌ』を殺すことなど容易い。

 だができるはずも無い。想い人だから。


 それを見透かしているわけでも、虚勢でもなく、事実のみ『アイヌ』は言う。

「何でも思いどうりにしたくないか? 気に入らなけりゃ殺して、気に入ったやつだけ生かして……どっかの将軍が言ってただろ? 全部の人間を殺せば神になれるって! いいぜ? 殺せよ、弟子が神様になるところを見せてみろ!! ここで殺せりゃ人間界で敵はいねぇ!!」

 まるで恐れを知らない子供のように『アイヌ』は笑う。そんな『アイヌ』を見て、自分の非力をイナミは悔む。

 打つ手が無い。イナミが何を支配しようが、何を繰り出そうが『アイヌ』はわらって受け流す。ダメージはいくらでも与えられる。だが精神を揺さぶる一撃をイナミは知らない。


 自分の気持ち一つすら、満足に伝えられない拳を見る。火を操っても、雷を落としても、地面を抉っても、風を吹かせても『アイヌ』はそれを耐える。『アイヌ』は決めたことを必ずやり遂げる――イナミがそう考えるのは、弟子だから。


「ねぇ……ねぇ、私、どうすればいい?」

 イナミ、涙が溢れる。それを手で拭い『アイヌ』に歩み寄っていく姿は、とても世界の主ではない。ただの、べそをかいた女。

「殴っても、言っても聞いてくれないあんたに、これ以上、どうしたらいい?」

 肩をすくめて『アイヌ』はイナミに冷たく言い放つ。

「苦しんでくれ」

「わかってよ! 私をさ!」

「知ってるよ。お前はな、才能はあるくせに努力が嫌い。頭が回るくせ、勉強が嫌い……そんなガキを押し付けられてみろ。肩がこって仕方ねぇ」

 二人の距離が縮まっていく。

 イナミが『アイヌ』に、すがるように歩み寄っていく。

「俺は確かにお前を殺したいぜ? でもそれ以上に苦しむお前が好きなんだよ。毒ガスの実験してるみたいでな、どうやればもっと苦しむか、考えただけで鳥肌モンだ」

「許してよ……私は弱いから、もう、あんたと戦えないよ!!」

 金色の稲穂がぴたりと止む。

 静寂。

 イズナの支配が解かれたのはイナミの意志表示。


 少し『アイヌ』は、その身を震わせる。が動いたから。イナミの涙を流しながらの懇願で『アイヌ』の過去、師弟として過ごした時間を想起する。


 得も知れぬ不快感を覚え『アイヌ』の返答は――。


「じゃあ、俺の頭……撫でてくれるか?」

 イナミは頷く。涙を流しながら、ゆっくりと右手を『アイヌ』の頭にやる。自分の肩ぐらいの高さにある、髪の伸びきった小さな頭にゆっくりと触り、撫でる。

 その右手からの感触が、イナミから消える。

「ああ……思い出した」

 何故か『アイヌ』の手には身の丈もある野太刀が一振り。

 その凶刃にはイナミの血――。


「カナキリのカムイを使って苦しめる……その実験を忘れていた……どうだい? 骨身にしみるか? って骨まで切れた!! ひゃぁああはははは!!!!」

 


🔶

 失った右腕を止血するため左手を使う。イナミは右腕より、痛みより、何よりも『アイヌ』の憎しみの深さに涙する。

「いいね。その表情……ほら、こんなこともできるんだ」

 『アイヌ』が懐から取り出し、指で弾いた五百円硬貨。

 形を変え、イナミと同じ、全長百七十一センチの針になる。尖端は虫ピンほどの細さ。

「あえて説明してやるよ。カナキリは金属を自在に操れるカムイ……イズナの同系劣化版ってとこだ。たまたま持っていた財布の金具が刀になって、偶然持っていた五百円玉がこんな武器になるなんてよぅ!! お金の大切さがよ~くわかったぜぇ?」

 イナミは歯を食いしばる。


――お金はそんな使い方をするもんじゃない。

 そのお金は、私が稼いで

 『九零』が増やして

 バスの運転手の思いやりで帰ってきて

 きっと『イド』もそんなことを知っていて――沢山の人間の気持ちが交差した結果、ここにあるものなんだと言ってやりたい。


 それを言えないのは絶望から。腕を無くした瞬間に湧いた、ほんの少しの絶望から。

「これで目玉ぶっ刺して、引っこ抜いてやる」

 長い髪の毛で窺い知れない『アイヌ』の表情は、にやけているに違いないと勘ぐる。そんな『アイヌ』への憎しみに負けてたまるかと葛藤する。

 

 しばらくの間隙。 


 そして、たどり着く。

 

 本当の敵。

 戦うべきはイナミ自身。

 この戦いはイナミの愛と憎しみ――それが、あの時に感じた悩みの正体。

 

 あの時。それは咲と陽、三人で会話していたころ。

 

 封印。

 

 あの時、封印していたのは未知の力でも記憶でもない。

 イナミが持つ『アイヌ』への殺意。イナミが、それこそ無意識レベルで持ってはならないと言い聞かせ、戦い続けてきた相手。

 

 イナミの無意識とは。


 生物としての本能、根源――イド。

 

 イド。

 

 異土。


 イナミの根源。


 人の根源。


 すなわち、有り体に表すなら――。


 ……イナミの思考はそこで停止する。。


 


 イナミは、まさしく私闘なのだ、いや、と理解す――。

 

 その場に座り込んで、イナミは見つめるのみ。

 乱れきった外内氣。もうイズナを呼び出すことはできない。

 ただ相手の姿を、相手に対する憎しみを、見つめる。

 口を開ければきっと、憎しみがでてくるから。

 体を動かせばきっと、傷つけるから。

 見つめることしかできない。


「よ~く見とけよ、失明する瞬間を……ぷっ、ははははは!!!!」


――イナミ、想いを眼差しに込める。


 針が突き刺さっても泣かない。

 ねぇ、一緒に生きちゃダメかな。

 きっと、それが私に出来る贖罪の一つだと思うのに。

 あの頃からずっとかわらない私。

 むしろ後ずさりしている私。

 あんたが私を殺してくれるのはいいよ。

 でも、許してもらいたんだ。

 あんたの、あの両親に向けた復讐なんて、たかが知れてる。

 それを、わかってる?

 あんたがどんなに小さいことを企んでいるのか。

 いかに小さい世界で生きているのか。

 思い知って欲しい。私の死体を見て。

 許してもらうのは、その後でもいい。

 たとえ肉体が無くなった後でもいい。

 でも私が死んだって、過去の苦しみはあんたにしか治せない。

 へーきだよ。殺されるのなんて簡単だもん。

 後悔はある。人を殺すより、もっと難しいことがあったとき……

 それを打ち破るのにあんたの力になってあげたかった。

 それを出来そうもない。

 ごめん。私は、結局あんたを傷つけるだけだった。

 ごめん。私は『アイヌ』が好きだけど、それよりもっと――



🔶

 遺言めいた想いは走馬燈のように刹那的。

 しかし針はイナミに届かず。

 針は眼前でぴたりと止められる。

 止めたのは『アイヌ』ではない。

 イドでもない。

 九零でもない。


「嫁入り前なのにあんまり傷をつけるんじゃないよ」

 息と言葉とマルボロのメンソールの煙。イナミの嫌いな煙草の匂い。

 膝をついたイナミと同じぐらいの背丈。くせ毛を面倒くさそうに束ねただけのポニーテール。半袖の黒衣闘着。少年のように引き締まった肉体。

「お前は太極者とやらになるんだろ。弱いものイジメしたくてなりたいのかい」

 指の力だけで、氣の含んだ武器をへし折り、さらにその欠片を握って粉にする怪力。

「お姉ちゃん……どうして」

 大里流海は妹の声に、面倒くさい、と返事。

 そして『アイヌ』に真打を一発。

 顔をひしゃげ、『アイヌ』は金色の世界を十メートルも吹っ飛ぶ。

 


 唖然とするイナミの傍らに、寄り添ってくるもう一つの影。

 イナミがそちらに目を向けると、姉より小さな女性が一人。やはり半袖の黒衣闘着。その腕には先ほど切り落とされたイナミの右腕。

「大丈夫、治しますから」

「玉緒さん……どうして? ここ、神居カムイなのに……」

 玉緒アキラはイナミの右腕をあてがい、自分のカムイを呼び出す。

「ちょっと待ってて……霊掌レイシヨ、右、五の型、再」

 玉緒の右手から光の玉がゆっくりと昇る。それを切断されたイナミの右腕に押し当てる。傷口の細胞が広がり、神経、血管、筋肉、骨を再生していく。

 攻撃と治癒の二つをこなす世にも珍しいカムイ使い、玉緒アキラ――男の天才が『アイヌ』なら、女は玉緒といわれるほどの実力者。流海からも一目置かれる女。

「流海さん、イナミさんは大丈夫ですよ」

 玉緒の言う『大丈夫』とは、元通りに治せるということと、これ以上、戦いをさせないという二つの意思表示。

「お前もここまでたどり着いたか! ルミぃぃ!!」

 『アイヌ』の憤怒に対しても一服。煙を吐き出す許婚、流海。

 それが『アイヌ』の怒りを買い、怒気が爆風のように散る。

「変ったのは見た目と技だけ……またイナミを泣かせやがって。お前さぁ……」

 悠々と我が家の庭を闊歩よう流海は振る舞うが、その目はきつく、鋭い。

 例えるなら研ぎ澄まされた日本刀。そんな眼差しで、

「殺すぞ」

 言い捨てるや『アイヌ』に飛び掛る。



「逃げろ! あんたじゃ相手にならない!」

 イナミの声は『アイヌ』向けられたもの。

 現在、無刀大里流操氣術頭首代行という看板をもつ流海。その実力は過去の比ではなく『アイヌ』は子供のようにあしらわれる。

 そんな家の事情など知らないイナミ。だが感じられた姉の氣は『アイヌ』よりも巨大で堅い、まるでダイヤモンドの山。凝縮された至高の宝石を彷彿させる。

 現に『アイヌ』の使う二つのカムイは、流海の体に触れると消えていく。寄せ付けない、というよりカムイが逃げていくよう。

 これが防御の真髄。カムイによる攻撃を無効化――だが流海はカムイによる攻撃をしない。徒手空拳のみ。


 必然的に両者は肉弾戦へ――。


「親父と喧嘩して生きてる女だぞ! 久島とか私なんか話にならない!」

「イナミさん、動かないで」

 玉緒は右手でイナミの腕の治療をし、左手でイナミの肩を押さえる。

「馬鹿、そんな見え見えのフェイント……ちがう、そっちは魅入! 後ろ、後ろ向け! 空歩で逃げろ!」

 徐々にイナミの気乗りが変わる。見て取れるほどに。

 危険な状態だと玉緒は判断する。軽い体を、イナミの背に乗せ、左腕をイナミの首に回し地面に押し付ける。

 乱暴ではあるが、重傷を負ったイナミを野放しにできない。

「放して! あいつ、殺されちゃう!」

 事件現場でよくある光景。親しい者に危害が及ぶと、自分のことのように不安に駆られる人のさが

「大丈夫です。流海さんは安易に人をあやめたりしません。私たちは――」

 落ち着かせようとした矢先、イナミの瞳に写ったのは、流海の一撃が『アイヌ』の芯を捕らえた痛烈な場面。イナミは、過去を追想する。

 

 身を挺して守ってくれた九零の姿を思い出し、感情が――。

「イズナ! 姉貴を止めろ!!」

 空間すら支配できるイズナを人間に憑依させられない道理はない。人間界なら氣力の量で決まる憑依対象の度合いは、神居カムイでは当てはまらない。

 管狐くだきつねの使い方としてはごくごく一般的。だがカムイ使いとしてはやってはならない禁じ手。乗っ取られた人間は人間でなくなる――イナミの奴隷と成り下がる。

「ごめんなさい! 左、五の型、封!」

 玉緒が左腕に力を入れる。頚動脈を圧迫し、さらにカムイによってイナミの意識を断ち切ろうとする。


 薄れ行く視界にイナミが見たのは。


 金色の地で血を吐き散らす『アイヌ』と、怪物のように激昂し暴れる姉の姿。


 イナミの親族が、イナミの想い人を痛めつける光景。


 昔見た光景とほぼ同じ。


 手出しできず、決着を見届けることもできず、やがて――。


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