第35話 俺がサボったハードミッション

 冬場の日は翳るのが早い。俺がバスターミナルに戻るまでの家並みでも、紅柄格子はくすんだ色に変わっていた。その間に伸びる道の上を、背中越しの風が吹き過ぎる。遠い山脈から吹き下ろす風は、着ぶくれた服の下の肌を切り裂くかと思うほどに寒かった。

 バスターミナルに着くと、その真ん中にあるダルマストーブの熱がもわっと押し寄せてきた。暗い蛍光灯の下に、ストーブの中に燃える炎が微かに揺れている。その周りに集まって手をかざしているオッサンオバサンは、街から離れた家に帰るんだろう。その中に混じったうちの高校の制服は、たぶん模試かなんかを控えた受験生だ。

 もうそんな季節なんだと思ったところで、来年はわが身だと気付いた。

 ……俺は何をやってるんだろう。

 突然やってきた転校生と、他人の人生を賭けてこんなことをやっていていいんだろうかと不安になった。平穏無事に過ごしていたら、間違いなくこっちの人生を歩んでいたはずなのだ。

 ……いや、放っておいたら放っておいたで、俺はきっと後悔する。

 自分にこんな気持ちがあるのは意外だったが、その気になれば助けられる相手を、やっぱり見捨ててはおけなかった。皮肉な話だが、綾見沙羅とこんな勝負をすることがなかったら、この感情には気づかなかっただろう。

 俺は身体をすくめた人の群れに混じって、ダルマストーブの前でスマホの画面を眺めた。

 

 泥まみれだったはずのシャント・コウ……山藤耕哉は、いつの間にか着替えさせられて小ざっぱりした家の中にいた。

 座っている椅子をはじめとした家具調度は粗末だが、それらが置いてある部屋の中は、液晶画面越しにも掃除が行き届いている感じがする。あの泥でぬかるんだ道の上で荒くれ男たちに袋叩きにされていたときと、今ここにいるのを比べたら、天と地の開きがあるだろう。

 願ったり叶ったりというわけだが、ここまでコトが調子よく進むと、心配しなくてはならないことがある。

 ……また、沙羅が何か仕掛けてきたんじゃないだろうな。

 だが、ここに動かせるようなモブキャラはいない。

 胸の辺りがかなり窮屈そうな服を着せられたシャントの隣に、1人座っている。これは、さっき男たちに服を引き裂かれたリューナだ。

 他に出て来はしたが、それはこの2人の前の椅子に背筋を伸ばして胸張って腰かけた、テヒブとかいうオッサンだ。

 村の男たちのリンチからシャント…ネトゲ廃人の山藤を救った、小柄な割に腕っぷしが強いこの男は、どうやらこの家の主らしい。

 確かに、モブをつかってその現場にこのテヒブを連れてきたのは沙羅だ。シャント・コウ…山藤が自分で危機を脱したわけではない。仕掛けたわけじゃないにしても、こんなに都合のいいことが続くと、現実に帰りたくなくなるおそれがある。

 ……本人がそれでよけりゃいいってもんじゃないだろ。

 現実がいやになったら転生すればいいなんてことが当たり前になったら、この世界からどれだけの人間がいなくなるだろうか。冗談じゃない。俺の平凡な毎日は、世界の平穏あってこそのものだ。


 画面の中では、テヒブが目の前の少年に吹き出しのセリフで語りかけていた。

《では、シャント君》

 シャント……山藤は、テヒブの言葉にこくこくと頷いた。無理もない。この世界の人間の口から出る言葉で、理解できるのは自分の名前しかないのだ。

 そこのところは心得ているのか、テヒブの顔はリューナに向けられた。

《手伝って欲しいことがある》

 リューナは、笑顔で首を横に振った。

 腹に一物あるようにも見えるリアクションだったが、この世界では「はい」を意味するのだろうと思い直す。

 テヒブが椅子を立つと、リューナも後に続いた。いきなり部屋に取り残されそうになって慌てたのか、シャントも辺りをきょろきょろ見回しながらついて行く。

 部屋の外には階段があり、降りた先は台所になっている。

 テヒブは、その隅にあるホウキやはたきを手に取るとリューナに告げた。

《ただで置くつもりはない。その分は働いてもらう》

 シャント…山藤も、掃除道具を見たところで察しはついたらしい。テヒブの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ホウキをひったくるようにして手に取った。

 悪気はなかったのだろうが、テヒブは露骨に顔をしかめた。当然といえば当然だ。いかに世界が違うとはいえ、世話になった年長者には失礼以外の何物でもない。言葉が通じないというのはただの言い訳だ。

 テヒブはシャントの手からホウキをもぎ取ると、壁の釘にかけてあった雑巾を突き付ける。シャントがそれを怯えたように縮こまって受け取ると、さっき来た階段の上を指差して、不機嫌そうなくぐもった声で言った。

《椅子》

 きょとんとするシャントの手を、リューナが掴んだ。おろおろするのも構わず、2階へと引きずっていく。

 さっき座っていた椅子の前に引き出されたシャントは、呆然と立ち尽くすしかないようだった。おそらく、掃除を命じたテヒブは「まず椅子を拭け」と言いたかったのだろう。だが、その単語がシャント…山藤には分からない。

 俺にも無理だ。「椅子」を意味するらしい何かを言ったのは聞き取れたが、発音しろと言われてもそうそうできるものではない。英会話の授業でネイティブのAETに、アルファベットも発音記号もなしに聞いたままを繰り返せとやられたことがあるが、山藤がシャントとして異世界でやらされているのはそれと同じだ。

 手にした雑巾を持て余しているシャントが歯がゆいのか、リューナはその掃除道具をひったくると、自分で椅子の背もたれを拭き始めた。

 テヒブはその様子を察していたのだろう、階下から大声で呼ばわった。

《ベッド》

 これもよく聞き取れない。リューナは古い木製のベッドに駆け寄り、板や脚を磨いたりシーツを直したりした。 

 息つく間もなく、人使いの荒い声は矢継ぎ早に続いた。

《扉》 

 リューナはドアに飛びついて、さっきの雑巾で磨き立てる。

《窓》

 ガラスがあるわけではないから磨く必要もない。ホコリがたまっているかどうかもはっきりしない窓枠を拭く程度だ。

 てきぱき動くリューナに比べて、シャント…山藤はその場に突っ立ったまま身動きひとつしない。いや、できないのか……無理もない。単語帳をあらかじめ渡されているのならともかく、知らない言葉をまくしたてられて、あっちへ行けこっちへ行けと言われても応えようがない。

 だが、そんな言い訳をしてもいられなくなった。本来なら俺が課すべきミッションを、沙羅が連れてきたテヒブが代わりにやってくれたのだ。

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