魔女と妖術師
書架塔まで道程
馬車が通りを駆ける。道端の小石に車輪が躓き隣に座っていた少女――ノア・クラレッドが跳ねた。ぴょんと飛んで、ふわりと着地。
しかしノアは自分が飛んでいたことも忘れて、ずっと窓の外を眺めていた。
「あれが自動車ですか……」
そう零した少女の目には力一杯に走る鉄の塊が映っていた。生命を脈動させて走る馬車と違って、それは無機質に大地を駆け抜ける。
「馬車の時代ももうすぐ終わるだろう。今度からはあれが人間の足になる」
馬糞で路面が汚れることもないだろうし――なんて言葉を俺は飲み込んだ。
「私、お馬も大好きですよ?」
小さな顔に笑みを浮かべてノアは言った。小首を傾げると長い睫がふりんと揺れる。
「俺も馬は好きさ。ただ馬との付き合い方が変わるって話だ。でも、人間が馬と絶交する訳じゃない」
それを聞くとノアは小さく笑ってまた窓の外を見た。
石畳の大きな道路に、馬車と自動車が併走している。その光景を俺はなんだか不思議なものに見えて、ノアと同じくまじまじと見つめてしまった。
「久しぶりです」
突然ノアが声を挙げた。独り言とは思えない声の大きさだったので、その言葉は自分に向けられているのだろうと察する。けれど何が久しぶりなのか分からない。
「一緒に出掛けるのがか?」と俺は言った。
「それもあります」
ノアは少し拗ねたように頬を膨らませてそっぽを向いた。しかしそれでは話が進まないと気付いた妹はちらりと俺を見て言う。
「マルゴット様にお会いすることがです」
マルゴット様――つまりマルゴット・マリー。ランスに天高く聳える書架塔の現主にして人々から魔女と気味悪がられる変わった少女のことだ。
そんな彼女に我が妹は尊敬の眼差しを称えている。
「マリーはノアが思っているほど出来た人間ではないぞ。部屋は散らかすし、風呂嫌いで清潔とは無縁。本を読むことに集中しすぎて飢えそうになっていることもあった間抜けだ」
俺はマリーの人物評をノアに言った。
ノアはそんな俺に余りにも辛辣ではありませんかと半目でねめつけた。
「一度助けて頂いているのですから、その様な失礼な態度を取ってはいけませんよ」
ノアは父さんみたいなことを言う。恩を受けたら仇で返すな。一生を掛けてそれに報いろ――そんな気の遠くなるような家のモットーを思い出す。それとこれとは話が違うか。
「悪口じゃないぞ。本当の話だ」と俺は言った。
けれど聞く耳持たず、ノアは俺の方を見てはくれなかった。
「マルゴット様が居なければ、間違いなくお兄様は死刑でしたよ?」
我が妹は物騒なことを口にする。しかしその言葉は誇大ではなかった。
俺は半年前の冬の季節にある名家の長子を殺した疑いを掛けられた。殺人事件の容疑者だ。勿論俺はそんなことしていないのだが、疑いを晴らすことが出来なかったのだ。そんな折にシーヴィスが連れてきた風変わりな銀髪の少女が、あれよという間に事件の謎を解き、俺は無実を証明できた。
マリーが居なければ俺は無実の罪で死刑になっていたかもしれない。
そう思えば、ノアのマリーに対する心証が明るいことは納得と言える。
「感謝を忘れたことは無い。だからこうして、偶に様子を見に行っているんだろう?」
片付けも出来ず、風呂にも入らず、飢えそうになる。マリーが一人で生きていけるとはとても思えなかった。だから偶に、面倒を見るようにしている。命の恩人が人知れずに死んでしまうのは寝覚めが悪いからだ。
その時、車窓からノアが身を乗り出した。
「危ないぞ!」と俺はノアを引きとめようとした。
「見えてきました!」
ノアが元気な声で叫んだ。
俺はノアを無理矢理、中に戻して、ふうと一息吐く。
古ぼけた石造りの大塔。この都市のどの建物よりも高く天に聳えるそれは、大地を見下ろしていた。
今は
●
塔の円周にはずらりと書架が並んでいる。床から天井一杯まで、過去から今にと続く叡智が集積されていた。叡智に匂いが付くとしたら、黴と埃の匂いだろう。
私は花束を片手に持って、ぐるりと一階を見渡した。
「やあ、リカルド君」
やせこけた老齢の男が気安く俺に話しかけてきた。俺は彼に一礼する。
「どうも、リードさん。マリーの部屋の鍵、借りられますか?」
老齢の男はリードと言う。マリーに雇われたこの書架塔の守衛だ。年老いた彼に守衛が務まるのか疑問であるが、奪うものなど何もないこの書架塔では十分なのかもしれない。
彼はこの書架塔の鍵束の管理も行っていた。
「ああ、構わないよ。私の雇い主はぐぅたらだからね。尻でも叩いてやってくれ」
そう言ってリード氏は私に鍵を一つ投げて渡した。
雇い主に対して不遜な発言であるが、マリーは気にしない。寧ろその態度を買っているところがある。
「彼女は初めて見る顔だけれど、君が前話していた妹さんかい?」
リード氏が俺に尋ねると、ノアは一歩前に出てお辞儀をする。スカートの裾を持って背筋を真っ直ぐ腰を落とした。
「私はノア・クラレッドと申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
「これは丁寧にどうも。でも、私は高貴の生まれではないから、その振る舞いは不適当だね」
そう言ってリード氏は愉快そうに笑う。
ノアは何か不味いことをしてしまったのかもと困ったように俺を見た。
「からかわないで上げて下さい」
「それは申し訳ない。別に機嫌を損ねたわけじゃないよ。私の名前はリード。雇い主であるマルゴット・マリー氏に仕えるこの塔の守衛だ。雇い主からは使い魔と呼ばれている」
「使い魔、ですか……?」とノアは首を傾げてまじまじとリード氏を見た。
その様子を見て、リード氏は腹を抱えて、また笑った。
「リードさん……」と俺は半笑いを浮かべてノアの手を引いた。
●
俺とノアは上まで続く螺旋階段を昇っていた。この建物にエレベーターなど無く、上へ行くには自分の足を使うしかない。地面すれすれのスカートを履いているノアは歩きにくそうにしていた。
「私、あの人苦手です」
ノアが拗ねた子供の様に口を尖らせた。
恐らくリード氏のことを言っているのだろう。彼は人をからかうことが大好きだから、初めて会う人は顔を顰めることの方が多い。俺も最初はそうだった。
「悪い人じゃない。悪人だったらマリーは雇わない」
「そうですけれど……」
そう言ってノアは風船の様に頬を膨らませて、萎ませる。
悪い人じゃないが変人には違いない。
なんせあのマルゴット・マリーが雇った人間だ。一筋縄ではいかない。
それはマリーも同じだった。
ノアは期待に胸を膨らませてはいる。その理想を現実が打ち壊してしまうことが自明に思えて先が思いやられそうだった。
話をしているうちにようやくマリーの居る階まで辿り着いた。高さ九十メートルの建物の上から三階が彼女の私室だ。階段の先を扉が塞ぐ。
それを借りた鍵で開いた。
そしてノックを三度。しかし中から返事はない。
俺は気にせずに扉を開け放ち、その中へと足を踏み入れた。
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