第十三章 俺の生きたあかし

1 未来の邂逅

 砂浜に座りこんで、一人で海を見ていた。

 三方向を岩場に囲まれて、小さく切り取られたような小さな海。

 この光景には確か見覚えがある。

 

(そうだ……真実さんのお気に入りのあの場所だ……!)

 

 何枚も何枚も。

 絵にも描いたんだからまちがいない。

 

 彼女に俺の秘密を告げて、サヨナラを決めて、一緒に降るような星空を眺めたあの砂浜に、どうして俺は一人で座っているんだろう。

 

 首を傾げる。

 

 太陽はまだ高かった。

 照りつける陽射しも、夏の気配を色濃く残すかのように、あの日のそれとまったく変わらなかった。

 

 膝を抱えて座っている俺の背中に、ポンと何かが当たる。

 ふり返って見てみると、柔らかくて大きなボールだった。

 

 どうやら持ち主らしい小さな少年も、いつの間にか俺の真後ろに立っていて、一瞬ドキリとする。

 

「これ……君の?」

 ボールを取り上げて見せるとコックリと頷くから、投げてやる。

 

 大きく投げすぎて少年がつかみ損なったボールが、そのまままたコロコロと波打ち際まで転がっていきそうだったので、俺は慌ててあとを追った。

 

「ゴメン、ゴメン……ちょっと高かったね」

 

 今度は少年の小さな手にボールをしっかりと手渡ししてやりながら、ふと不思議なことに気がついた。

 

(……全然苦しくない……?)

 

 最近ではちょっと緊張したり、速い動きをしたりすれば、ドキドキと脈打ち始めていた俺のヤワな心臓が、まったくといっていいほど変化しない。

 すぐにあがってばかりだった息も全然乱れていなかった。

 

 不思議に思いながらも、ボールを受け取ったまま微動だにしない少年に笑顔を向ける。

「どこから来たの? 誰かと一緒?」

 

 少年は静かに首を横に振る。

 

 確かこの場所には「自分以外は誰も来ない」なんて真実さんが言ってなかっただろうか。

 

 実際、人通りの多い場所からはかなり離れているし、車が入ってこれるような砂浜でもなく、長い距離を黙々と歩かなければたどり着けない。

 

 そんなところだと言うのに、おそらくまだ小学校にも入学していないだろう少年が、一人で来たというのだろうか。

 保護者もなしで。

 

「家が近いの?」

 少年はまたも黙ったまま首を横に振った。

 

「そっか……」

 なんとなく、何を聞いても言葉で返事をしてくれることはないような気がして、俺は対処に困った。

 

 ふと、少年が大事そうに両手に抱えているボールに目を向ける。

「一緒に遊ぶ? ……ボールを投げっこしようか?」

 

 それまでどちらかといえば無表情に、俺の顔をじっと見つめていた少年がニッコリと笑った。

 笑うと大きな丸い目がほんの少しだけ下がり気味になって、とても可愛らしくなる。

 その笑顔にドキリとする。

 

(あれ……? この子どこかで会ったことあったっけ……?)

 

 見覚えがあるような気がする。

 でもいつどこでだかは思い出せない。

 

 首を傾げる俺に向かって、少年の放ったボールが飛んできた。

「あ、悪い!」

 

 指先で弾かれて飛んでいってしまったボールをすぐに追いかける。

 足元は砂浜だし、ただ走るだけで俺には重労働のはずなのに、不思議と体にはなんの変化もなかった。


 ボールを投げたり、転がしたり、わざと取り逃がして追いかけてみたり。

 楽しそうに笑う少年の様子を見ながら、どんなに調子に乗ってみても心臓も呼吸も全然苦しくならない。

 

(おかしいな?)

 と思いながらも、いつしかそんなことも忘れて、俺は夢中になってその子と遊んでいた。


 

 子供の頃、こんなふうに遊ぶ兄貴と父さんの様子を、俺は遠くからただ見守っていた。

 心の中では憧れながらも、それを口に出すことさえできず、ただ笑って見ていた。

 

 その時のちょっと切ない思いを思い出す。

 憧れていた光景を実際に自分で体験できて、嬉しい思いを抱えながらも、俺は苦笑する。

 

(でもこれじゃあ……俺が父親の立場だよな……)

 そう考えてから、改めてハッとした。

 

(そっか……! この子、俺の小さい頃に似てるんだ!)

 人より少し白すぎる肌とか、目鼻の感じとか、くせのある髪とか、俺がこれぐらいの頃によく似ている。

 

(笑うとちょっと下がっちゃう目までね……)

 そう気がつくとなんだか親近感がわいて、ますます少年と遊んでいるのが楽しくなった。

 

 体の調子が悪くならないのをいいことに、追いかけっこをしたり、砂の城を作ったり、水をかけあったり、時間が過ぎるのも忘れてたくさん遊んでから、俺は少年の頭をそっと撫でた。

 

「そろそろ帰らなきゃ、おうちの人が心配するよ」

 少年はこコックリと頷いてニコニコ笑う。

 

 その笑顔につられるように、俺も笑いながら、

「俺も、もう行かなきゃ」

 と自然と口から言葉が出てきた。

 

(どこに?)

 と自分に問いかける必要もなかった。

 

 さっきからずっと、遠い遠い海の向こうから呼ばれている気配を感じていた。

 ただ、すっかり俺に懐いて、まとわりついてきてくれる少年と別れるのが辛くて、気がつかないフリをしていた。

 

 でもそれももう限界だ。

 行かなければならないと、俺の中の何かが告げる。

 

「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」

 

 決して同じ方向には行けない少年の頭をもう一回撫でて、それでお別れしようと思っていたのに、彼はふいに両手で俺の手をつかんだ。

 

「ダメ……まだ行っちゃダメ!」

 

 初めて聞いた少年の声は、まだあどけなくて可愛らしいものだった。

 でもその中に、有無を言わせぬような強さを秘めている。

 

「約束したでしょ? ……だからまだ行っちゃダメ……!」

 

 涙を浮かべて俺をじっと見つめる黒目がちの大きな瞳が、ふいに一人の人を思い出させる。

 

 ――真実さん。

 

 彼女を思い出すと同時に、俺は彼女と交わした約束を思い出した。

 

『もう一度、会いに来るから』

 

 俺は確かに彼女とそう約束した。

 

(そうだ……まだ行けない……! 真実さんとの約束を守らなくちゃならない!)

 

 海の向こうから執拗に俺を呼ぶ声に背を向けた。

 

 俺を引き止めてくれた不思議な少年の顔を、のぞきこむようにして笑いかける。

「ありがとう」

 

 それはそれは嬉しそうに笑い返してくれた笑顔が、やっぱりどこか真実さんを思い出させた。

 

(俺と真実さんに似てるなんて……それってなんだか……)

 

 照れ臭いような思いで見つめる少年の顔が、次第にぼやけて見えなくなる。

 

 青い空も白い雲も、巨大な岩も砂浜も、全てがかすんで見えなくなって行く中、ひとみちゃんの悲鳴のような声が聞こえた。



 

「海里!」

 

 まるで泣いてるような声に急いで返事しようとするのに、それができなくて、口元に酸素マスクがあてがわれていることに気がつく。

 

 ほんのついさっきまでどんなに走ってもまったく苦しくなかった心臓が、静かに横になっているというのに締めつけられるように痛くて、どちらが現実なのかを身を持って知る。

 

(そっか……夢だったのか……)

 

 そう思った瞬間には、それがどんな内容のものだったのか、もう思い出せなかった。

 でもとても楽しくて、嬉しい思いをたくさん感じていたことだけは、なんとなく覚えていた。

 

(俺……助かったのかな……?)

 

 ひどく苦しい状況にいることには変わりないが、とりあえずまだ生きてはいるようだ。

 

 薄く目を開いた俺に気がついたひとみちゃんが、

「海里! 気がついたの?」

 すぐ近くで叫んでいる声が聞こえるから、俺は点滴のチューブが何本も繋がった左手を微かに持ち上げて返事をした。

 

 真実さんとずっと繋いでいると約束した左手――この手をまだ自分の意志で動かすことができて、それを自分の目で確かめることができて、本当によかった。

 

 ――真実さんをひどく傷つけるような最期を迎えずにすんでよかった。

 

 助けてくれた『誰か』に感謝を捧げたいくらいだった。

 

 そう――俺をこの世に引き止めてくれた『誰か』に。

 

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