3 サヨナラの約束

 お互いを抱きしめる腕をどちらからともなく解いて、二人で顔を見あわせた。

 

 真実さんが笑ってくれていることだけが、俺にとっては救いだった。

 

 胸は切り裂かれるように痛い。

 それはきっと彼女だって同じだろうに、笑顔を作ってくれるから、この辛い決断が正しかったんだと自分に言い聞かせることができる。

 

「行こうか?」

 

 コクリと頷いてくれる人に、いつもどおり左手をさし出す。

 ――おそらくもう今夜だけしか繋ぐことのない手を。

 

 昼間、簡単な地図を片手にわくわくしながらたどった堤防の道を、今度は二人で歩いた。

 二人っきりの小さな砂浜から出た途端、真実さんはいつものように――いやいつも以上に明るくなったように感じる。

 

「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」

 夜空を見上げたまま、指さしながら歩き続けるから、

「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」

 俺は笑いながら声をかける。

 

「大丈夫。海君がちゃんと手を引いててくれるから……!」

 まったくためらう余地もないほどの、確かな信頼が嬉しかった。

 

 繋いだ手にギュッと力をこめる。

「星に詳しいんだね……」 

「そんなことないよ……知ってるのは有名なのだけだよ……でも……本当にひさしぶりに見た……!」

 

 真実さんがいつも生活しているあの街には、確かにこんなに星が見える場所なんて存在しない。

 夜更けまでネオンが煌々と輝いているんだから、星の光なんて全て霞んでしまう。

 あの街で生まれ育った俺にとっては当たり前のことでも、真実さんにとってはひどく寂しいことだったんじゃないかと想像がつく。

 

「このままここに居たくなったんじゃないの……?」

 ふり返って尋ねてみたら、真実さんはちょっと困ったような顔をした。

「うーん……でも大学卒業までまだ一年半はあるから……その間はがんばらないとね……」

「そっか」

 

 何気ないフリして相槌を打ちながらも、俺はいろんな意味で寂しさを感じずにはいられなかった。

 

 一年半後――真実さんがあの街からいなくなってしまう頃に、俺はまだあの街にいるんだろうか。

 

 答えはきっとNOな気がする。

 

 だからこそ彼女から離れることを決めたのに、彼女があの街を出て故郷に帰ってしまうことさえ寂しく思うなんて、本末転倒だ。

 

(きっとここに帰ってきて、俺のことなんか忘れて、幸せになるんだろうな……)

 それを嫌だと思ってしまう自分が嫌で、軽く首を横に振る。

 

(自分からそうしてほしいって言ったのに……ほんとに俺って自分勝手……!)

 自分が死んだあとの真実さんの未来にまでやきもきしている自分が虚しい。

 

 心の中で小さくため息を吐く俺の耳に、その時思いがけない言葉が飛びこんできた。

「それに……あの街には海君がいるから、離れられない」

 

 ドキリと胸が鳴った。

「俺は……!」

 

「もう今夜までしか一緒にいられない」

 なんて言葉、自分の胸にまで痛くて口にすることができない。

 

 そんなどうしようもない俺に向かって真実さんが笑いかける。

「わかってる。でも……近くにいるんだって、そう思えるだけで……やっぱり嬉しいから……」

「…………!」

 

 泣きそうになる衝動を必死にこらえて、俺も笑顔を作った。

「真実さん……」

 

 呼べば笑い返してくれる。

 大切なものを見るような、優しいまなざしで俺のことを見つめてくれる。

 

 どうしてこんな人がいるんだろう。

 その人がどうして、俺の傍にいてくれたんだろう。

 考えれば考えるほど、喉の奥がぐっと熱くなってくる。

 

「ありがとう……」

 それ以外には、浮かぶ言葉も思いつく言葉もなくて、俺は思いのままにもう一度彼女に笑いかけた。

 

「ううん。私こそありがとう」

 そのまま返されてしまったから慌ててもう一度言い返そうと思ったのに、

「いや、俺だよ……!」

「ううん、私が……!」

 言いあう言葉が偶然重なって、顔を見あわせて二人で大笑いした。

 

「これじゃ埒があかないよ……!」

「本当に!」

 

 嬉しそうに声を弾ませる笑顔が愛しい。

 自然と俺の近くに歩み寄ってきて、繋いでいないほうの手まで、しっかりと握りあった俺たちの手の上に重ねる仕草が愛しい。

 

「これで最後だ」

 なんて悲しい思いは今だけは忘れて、華奢な体を片腕でぎゅっと抱きしめた。

 

「海君……」

 彼女が俺につけてくれた、二人の間だけの俺の呼び名だって、明日からはもう誰にも呼ばれることはない。

 ――そう思うと、もっともっと優しい呼び声を聞いていたかった。

 

「海君……」

 呼びかけられる声にわざと返事をせず、ただ彼女の髪に頬をうずめる。

 

「海君……」

 何度も何度も、ついには真実さんが怒ってしまいそうなくらい、俺はただ、自分でもかなり気に入っていた俺の呼び名を呼ぶ彼女の声を、ずっと聞いていたかった。



 

 真実さんの家の近くにある港でタクシーを拾って、俺たちは隣町にあるというフェリーターミナルへ向かった。

 

「俺……真実さんの実家にも行っとこうかな……?」

 冗談半分の提案は、思ったとおり真実さんに大慌てで却下されてしまったので、そのままこの小さな港町をあとにする。

 

 たとえ知ってる人に会ったって、俺のことをしっかりと紹介してみせるなんて言ってたわりには、真実さんは実に挙動不審で、そんな彼女のためにも、タクシーで移動するのは正解だったと思えた。

 だけど――。

 

「今年の祭りは、いつにも増して賑わったけんのう」

「そうだったんや……」

「帰ってこんかったのか?」

「忙しかったけぇ」

 

 人の良さそうな運転手さんと、真実さんがバックミラー越しに交わしている言葉は、俺の耳には慣れない。

 そのうち俺のことなんかそっちのけで、ローカルな話題に花が咲き出して、一人、おいてきぼり感を感じずにはいられなかった。

 

(あーあ……せっかく最後の夜なのにな……)

 性懲りもなく独占欲ばかりが湧いてくる。

(せっかくなんだから……俺のほうを見ててよ……!)

 わざと怒らせるようなことを言ってこっちを向かせ、俺は多少強引に真実さんにキスした。

 

「海君!」

 狭いタクシーの中での突然のキスに、真実さんは飛び上がりそうにビックリしている。

 ついさっきまで彼女とローカルな話題で盛り上がっていた運転手さんも、慌てて両手でハンドルを握り直し、俺たちから目を逸らす。

 

 名前を呼ばれたことに対し(何?)と瞳だけで問いかけると、真実さんは(何じゃないでしょう!)とやっぱり視線だけで言い返して来た。

 

 そのちょっと怒った顔がたまらなく可愛かったので、もう一度キスしようとしたら、

「海君!」

 必死に俺の体を押し戻しながら叫ばれた。

 

(ダメだ……可愛くってたまらない!)

 両腕で抱きしめてしまいたい思いを、俺は笑うという行為にすりかえた。

 

 車の中にこだまするハハハハッという笑い声。

 真実さんがプイッと俺に背を向ける。

 

 窓の向こうを向いてしまった小さな背中は、かなりの怒りを募らせていたはずなのに、俺が「ゴメンゴメン」と声を上げるよりも早く、またこちらをふり返る。

 嬉しくって思わず、からかうような言い方をしてしまった。

 

「えっ? 真実さん、もう降参……?」

 あきらかに少しムッとした顔をしながらも、真実さんは呟いた。

 

「いいでしょ……別に……」

「もちろんいいよ!」

 

 俺は彼女の手を取った。

 繋ぐことが当たり前になっている手。

 もう少しで、放さなければいけなくなる手。

 

 ――だからこそ今は、繋がずにはいられない。

 

 真実さんが俺の肩にそっと頭を乗せてくる。

 心地いい感触にこの上ない幸せを感じながら、俺もその上に自分の頭を重ねた。

 

 しばらく静かにそうしていた真実さんが、静かに呟く。

「海君とこうしてるとなんだか眠くなる……ドキドキもするんだけど、それよりもっと安心して……幸せすぎて……なんだか眠くなるんだよ……」

 

 実際に今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな声でそんなことを囁かれると、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。

 

「ああ、そうだね……それはそうかもしれないね……」

 小さな声で同意しながらも、悪戯心を刺激されて、ついつい余計な一言をくっつけずにはいられない。

 

「でもそれでも俺は、やっぱりドキドキのほうが大きいんだけどな……?」

 わざとため息を吐きながら、瞳に力をこめて、真実さんを真っ直ぐに見つめると、彼女は火がついたかのように赤くなった。

 

「もう……! 一生懸命、意識しないようにしてるんだから、そんなふうに言わないでよ……!」

 それはつまり――もうどうしようもなく俺を意識してしまっているということだろうか。

 

 すっかり安心し切って眠ってしまわれた過去を持つ身としては、そんなことをどうどうと宣言されるのは、嬉しい以外の何でもない。

 思わず声が弾む。

 

「どうして? 意識していいよ……意識してよ……?」

 わざと耳元で囁くと、真実さんは顔を上げて、

「海君!」

 抗議するように俺の名前を呼んだ。

 

 その唇に、さっさと自分の唇を重ねてしまう。

 真実さんの体から力が抜けきってしまう感触がした。

 

「……海君どうしたの? なんだか変だよ……? どこか壊れちゃった……?」

 困り顔で尋ねられるから、俺は小さな体をそっと胸の中に抱きこむ。

 

「うん。そうかも……」

 甘い香りのする大好きな髪に顔を埋めて、小さく呟く。

「もう手を繋ぐこともないって思ってたのに、真美さんが俺を望んでくれたから……俺が思ってたのと同じように、手をさし伸べてくれたから……もう制御不能になったかもしれない……ゴメン……こんなじゃダメ?」

 

 腕の中で、真実さんの体が一気に緊張したことがよくわかった。

 何も言葉を返すことができず、真っ赤になって黙りこむ姿が、ひどく愛しかった。

 

「責任取ってよね? 真実さん……」

 耳元に唇を寄せて、とてもとても声を潜めて囁くと、いよいよ困りきっている様子がよくわかる。

 

 ――そんな様子を喜んで見ているあたり、俺は本当に意地悪だ。

 底意地が悪い。

 

 自分で自分に苦笑せずにはいられなかった。

 

 


 フェリーのターミナルに着いて、真実さんが乗船手続きをしている間に、俺は兄貴に電話をかけた。

 

「帰りは絶対に迎えに行くので、連絡するように!」

 という約束どおり、明日の朝早くに着く旨を報告する。

 

 もちろん、フェリーに乗るなんてことは言えなかったので、近くの駅を指定したが、

「わかった。絶対に迎えに行くから、そこにいろ!」

 とあいかわらずもの凄い剣幕で、一方的に約束された。

 

(まったく……過保護だよなぁ……)

 内心苦笑しながら真実さんのところに帰ったら、様々な書類を前に真実さんが途方に暮れていた。

 

「ねえ海君……私に書かせたって、海君の欄にはなんにも書けないよ……?」

 困りきっている真実さんには悪いが、その言葉には思わず吹き出しそうになった。

 

 それはそうだろう。

 俺は彼女に自分のことを何ひとつ教えてはいないのだから――。

 

 氏名。

 住所。

 年齢。

 電話番号。

 何を聞かれても見事なまでに、彼女は本当の俺のことを知らない。

 

 俺はニヤリと笑って言った。

「真実さんと一緒でいいよ……」

 

「そう……?」

 大きくため息を吐きながらも、彼女は俺が言ったとおりに、なんとか書類を文字で埋め始める。

 時折首を捻り、悪戦苦闘しながら、それでも真剣に向きあっている姿がいじらしかった。

 

(ゴメンね……)

 実際に声をかけてやればいいのに、俺は心の中でだけくり返す。

(困らせてばっかりで……ゴメン……)

 それでもこんな俺を許してしまう真実さんに、深い感謝を覚える。

 

 懸命に無理して、これまで俺を守りとおしてきてくれた彼女が、今本当にありがたい。

 

 全部書き終わって提出した真実さんが、ひどく不安そうな顔で俺の顔を見上げた。

「海君……船で移動なんてしてよかったのかな……?」

 

 一瞬、何のことを言われているのかわからなくて首を傾げた俺に、真実さんは必死で問いかける。

「海君、大丈夫なの……? 本当にいいのかな?」

 

 彼女が両手に握りしめている乗船チケットと、それに関する案内に目を落として、何を言わんとしてくれているのかがようやくわかった気がした。

 

 きっと但し書きかなんかで見た『乗船を見あわせていただくお客様』のことを言っているのだろう。

 そういう欄には大抵、『心疾患』と書いてあるはずだから――。

 

「ああ……」

 なるべく真実さんを安心させることができるように、俺はせいいっぱいの笑顔で答えた。

「大丈夫だよ。それで直接どうこうってことはない。結局俺の場合は、どこにいても何をしてても……いい時はいいし……ダメな時はダメになるだけだからさ……」

 

 明るく笑いながら、この上なくヘビーな話をしている自分は、どことなく滑稽ですらある。

 

「いつ『もしも』ってことになっても、とっくの昔に俺の家族は覚悟してるし、俺だって納得してる……あっ! でもちゃんと真実さんには迷惑かけないようにするから……!」

 

 上手くごまかせたと思ったのに、真実さんは俺の口上のまだ途中で、我慢できないとばかりに叫んだ。

「海君!」

 

 両腕を伸ばして、急に俺に抱きついてくる。

 こんな場所で真実さんのほうからこんな行為に出るとは予想もしていなかった俺は、かなり動揺した。

 

「ゴメン。海君もういいよ。ゴメンね……」

 涙声で訴えられたので、不覚にも俺まで涙が浮かびそうになった。

 

「俺こそゴメン……」

 ふうっと小さく息を吐いて、俺も真実さんの体を抱きしめる。

 

 無理していることだって、彼女にはお見とおしなんだったら、もう自然体でいこうと思った。

 残り少ない二人の時間。

 何もかも望めはしない俺にだって、それぐらいは許されるんじゃないだろうか――。

 

「私が守る。海君のことは、私が守るから……」

 決意をこめたような小さいけれど力強い声で、ふいに真実さんがそんなことを言うから、俺は面食らう。

 

 思わず彼女の顔をのぞきこんだ。

「真実さんが?」

 

 ちょっと上目遣いに俺の顔を見上げながら、彼女は俺の腕の中、確かに頷いた。

「そう……私が!」

 

 わかっているのだろうか。

 本当はもうずっと以前から、俺の心が、願いが、希望が、他ならぬ彼女によってずっとずっと守られてきたこと―――。

 

(きっとわかってないんだろうな……)

 

 だからこそこんなに真剣な顔で、またもう一度、

「守ってあげる……」

 と宣言してくれる。

 

 俺にとってはまるで天使のようなその微笑みに、俺もニッコリと笑い返した。

 

 今はまだ、手を伸ばせばすぐに触れることができる俺だけの天使に感謝して、

「へえ……楽しみだな……」

 ゆっくりと首を傾げて、また彼女にキスをした。

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