第十章 星空の下の真実

1 キミの育った町

 小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、海岸沿いの堤防をずっと歩いた。

 大きく息を吸いこまなくても、香ってくる潮の匂いはかなりきつかった。

 

 俺が唯一知っている、あの海水浴場の「海」と、この「海」とは、全然違うもののように思える。

 

 そもそも、すぐ目の前に広がっているのに全然手が届かない。

 堤防の遥か下のほうに水面があるのだ。

 そこに浮かんでいる漁船で作業をしている人たちは、いったいどうやって下りているのかと考えていたら、堤防の所々に長い鉄製のはしごを見つけた。

 

(そっか……あれで下りて行くんだな……)

 何もかもが珍しかった。

 

(真実さんはここで育ったんだな……)

 そう思うと、入り組んだ狭い道路にも、斜面に段々に立ち並ぶ家々にも、彼女の気配が漂っているような気がする。

 

 二人で行った写真展で見たのと同じような、複雑に入り混じった色の海に、真実さんの横顔が重なる。

(早く会いたいな……)

 

 たった一週間離れていただけなのに、そう思ってしまう自分に苦笑しながら、のんびりと歩いていた足を、俺は早足に変えた。

 

 愛梨さんにもらったメモに書かれていたとおり、堤防の上をどこまでもずっと進んでいくと、海との境目にふいに小さな砂浜が現われた。

 大きな岩に囲まれた小さな小さな砂浜。

 

 そこに確かに膝を抱えて座りこんでる人影を見つけて、胸が鷲掴みにされたようだった。

(真実さんだ……!)

 

 白いワンピースとお揃いの白い帽子を被って、こちらに背を向けて海を見ている。

 空の蒼色と海の藍色の境界線に、純白な彼女がどこか寂しげに座っている様子は、ため息が出るほどに綺麗だった。

 

 砂浜を囲む黒っぽいゴツゴツとした大岩でさえ、完璧に計算され尽くした自然の采配のようで、迂闊に声をかけることなんてできない。

 

(こんなことならスケッチブック持ってくるんだった……)

 そんなふうに思いながら、俺は砂浜には下りず、堤防の上に腰を下ろした。

 

(いったい何を見てるんだろう……?)

 変わることのない海と空しか俺には見えないのに、真美さんは身動き一つせず、ずっと同じ方向を見ている。

 

(ひょっとして……何かを見ているわけじゃないのかも……)

 ただ大好きな場所に身を置いているだけで、実際に彼女が向きあっているのは、自分自身の心なのかもしれない。

 もしくは胸に抱える不安や疑問なのかも――。

 

(俺のせいで、悩ませてしまってる……?)

 

 きっとそうだろう。

 もうずいぶん前から、俺に対する真実さんの態度はおかしい。

 

 何か言いたいことがあるのに言えないような。

 聞きたいことがあるのに聞けないような。

 どこかしっくりとこない雰囲気を、俺だってずっと感じてる。

 

(ゴメンね……)

 だからといって、自分から語るつもりは毛頭ない俺は、申し訳ない気持ちを抱えたまま、どこか儚い彼女のうしろ姿を、なす術なくいつまでも見つめていた。



 

 いったいどれぐらいの時間が経ったんだろう。

 

 砂浜にゴロリと転がった真実さんがいつの間にか眠ってしまったのを、微笑ましく見ていた時から、かなり時間が過ぎてしまったことだけは確かだった。

 

 俺自身も堤防の壁に背中を預けたまま眠ってしまっていて、ふと気がついたら太陽の位置がずいぶん移動していた。

 

(こんなことやってたら、あっという間に夕方になっちゃうよな……!)

 

 せっかく一週間ぶりに会えたというのに、会った途端にもうサヨナラなんてことになるのが嫌で、俺はようやく真実さんのいる砂浜に向かって、堤防のはしごを下り始めた。

 

 そっと近づいていって驚かしたいから、できるだけ静かになんて気を遣う必要はない。

 真美さんは温かな砂の上で、すっかりぐっすり眠ってしまっている。

 

 靴の下で動く砂の感触を一歩一歩確かめるようにして歩きながら、俺はゆっくりと真実さんに近づいた。

 

 目を開くような気配はまったくなかった。

 長い睫毛はぴったりと閉じているし、胸の上で組まれた両手は、彼女の呼吸にあわせて規則正しく上下に動いている。

 

(こんなに無防備に眠っちゃって……俺以外の奴が来たら、どうするの……?)

 胸を灼くようなその質問には、自ら答えを返す。

 

(誰にも見せたくない……触れさせたくない……俺にはそんなことを思う権利さえないのに……)

 それでも誰にも渡したくないと、思わずにいられない人に向かって手を伸ばしたら、固く閉じていた瞼がふいに開いた。

 

 驚いたように俺の顔を見つめ、何度も何度も瞬きをくり返す仕草の全てが、愛しくてたまらない。

 

「真実さん……迎えに来たよ」

 囁いた瞬間に、真実さんが俺に向かって腕を伸ばした。

 

 他の誰でもない、俺だけに、彼女がこの上なく幸せそうに笑って、自分の全てを委ねてしまうことが嬉しかった。

 

 華奢な体が折れてしまいそうなくらいに、力いっぱい真実さんを抱きしめながら、涙が浮かんできそうに嬉しかった。



 

「どう? 一日早く来てみました……」

 おどけたようにそう告げて、愛梨さんがここまで連れてきてくれた経緯を語る俺の言葉を、真実さんは頷きながら静かに聞いていた。

 

「そうか……愛梨か……」

 納得したようにうんうんと頷きながらも、その横顔はどこか晴れない。

 

(ひょっとして迷惑だったかな……?)

 ちょっと不安になってきたところに、

「海君……」

 と呼ばれて、ホッとする。

 その声はいつものように優しい雰囲気だった。

 

 返事はせずに視線だけを向けると、途端に真実さんの目が泳ぐ。

 心底何かに困っている様子がうかがえたが、それがなんなのかは俺にはまだわからなくて、そのまま彼女のほうから口を開いてくれるのを待った。

 

 真実さんはさんざん迷った末に、その言葉を口にした。

「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」

 

(ああ、なんだ……)

 思わずホッとする。

 予定より一日早く現われた俺に、真実さんは困ってるんだ。

 

(そりゃあ、そうだよな……実家に連れて帰るわけにはいかないだろうし……だからといって、『自分でどうにかして』なんて冷たいことを言うような真実さんじゃないし……)

 

 俺の処遇について迷ってくれていたんだと知ったら、心が軽くなった。

 ついついいつもの調子で、悪戯心が湧いてくる。

 

「真実さん、何で帰るつもりだった?」

 にっこり笑いかけると、真実さんはちょっと慌てた。

 

「えっと……たぶん新幹線かな……?」

 それはそうだろう。

 俺だって真実さんとわかれた一週間前はそのつもりだった。

 でも事情が変わったのだ。

 あの何事にもよく切れる頭脳を持った貴子さんのおかげで――。

 

 俺は笑い出してしまいたい気持ちを必死に抑えて、胸ポケットから、その大切なチケットを取り出した。

「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰って来なって、貴子さんがくれたんだけど……」

 

 そう言って、手渡した途端。

 真実さんの目がまん丸に見開いた。

 

(ああ……きっと貴子さんもこの顔が見たかったんだろうな……)

 そう思うと、俺だけが間近で見てしまったのは申し訳ない気もするが、思惑どおり真実さんが驚いてくれたんだから、貴子さんとしては、それだけでもう大成功なのだろう。

 

(今度会ったら、ちゃんと報告しなくちゃ……!)

 心の中で笑いながらそんなことを考えていた俺の耳に、真実さんのため息まじりの声が聞こえた。

 

「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」

 純粋に感心して、驚いている様子が可愛くて、ついつい顔が綻ぶ。

 

「真実さん、乗ったことあるの?」

 真実さんはブルブルと首を横に振った。

 何かを考えているように、手にしたチケットを裏返し、次の瞬間、ハッと息をのむ声が聞こえた。

 

 ふと見下ろしてみると、『一等洋室』と印字されている箇所を、穴のあくほど凝視している。

 

(ヤバイ!)

 

 真実さんが握りつぶそうとしたそのチケットを、俺は寸前のところで救出した。

 

 もう一度取り返されない位置まで、高く掲げながら、

「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備間にあいそう?」

 笑う俺の顔を、真実さんが真っ赤になりながら上目遣いに見上げる。

 

「海君! 乗るつもりなの!」

 

(……個室だってことに気がついたんだ! それでこんなに焦ってるんだ!)

 そう思ったら、もう嬉しくってたまらなかった。

 ――だってそれは、真実さんが俺を意識してしまっているしるしだから。

 

「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」

 当たり前のような顔で、平然と聞き返すと、真実さんは言葉に詰まる。

 

「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」

 焦る様子が、可愛くってたまらなくって、大好きな髪に手を伸ばして、そのままクシャッとかき混ぜた。

 

「心配しなくても大丈夫だよ……俺なら何もしないから!」 

「そうじゃなくて!」

 真っ赤になって、こぶしを握りしめる姿が――ダメだ。

 たまらない。

 

 俺はわざと笑顔をひっこめると、すっと真顔になって、改めて真実さんに問いかけた 

「じゃあ何?」

 もちろん真実さんが、何か答えることなどできるはずない。

 

 真っ赤な顔のまま俯いて、

「いいよ……それで帰る……」

 降参してしまった姿に、もう笑いが止まらなかった。

 

 深く面伏せてしまった頭をポンと叩いて、

「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」

 わざとそんなことを言ってみせると、真実さんは慌てて顔を跳ね上げた。

 

「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」

「そうだろうね」

 

 面白かった。

 突然現われた娘の恋人。

 そんな人間に、彼女の家族がどんな反応をするのかを想像してみるのは、確かに面白かった。

 

 でも面白いと思う反面、俺の心はどんどん冷めていく。

 決してそんな場面が現実のものになることはないんだと思うと、すーっと背筋が凍るほどに、心が冷めた。

 

(いつまでも真実さんと一緒にいるんなら、いつかはそんな日だって来るかもしれない……だけど……)

 

 そんな日は決してこない自分の現実を、唇を噛みしめてしっかりと見つめ直す。

 

 自分に残された時間が少ないことを知っている俺には、『いつかは』なんて夢見ること自体が、拷問のように苦しかった。

 

 他の人には当たり前のように与えられているのに、俺にだけは与えられない。

 ――そのあまりの不公平さを、まざまざと思い知らされる。

 

 黒々とした感情に自分の心が塗り潰されていきそうになっているのがわかるから、真実さんと見つめあっていることが苦しかった。

 

(嫌だ……! このままじゃ、絶対見せたくない顔を見せてしまう……!)

 苦しくてたまらない胸でそう思った瞬間、真実さんが俺から目を逸らした。

 

 ホッと安堵する気持ちと同時に、どうしようもない悲しみが俺を襲う。

 

 いつも、いつだって、真っ直ぐに見つめる俺の目からは決して視線を外さなかった真実さんが、目を逸らした。

 ――それはいったいどんなことを意味するんだろう。

 

(やっぱり……無理だね……どんなに取り繕ったって……もうこれ以上、俺たちの関係を続けることは無理だ……!)

 

 それはきっと真実さんを今以上に苦しめることになる。

 傷つけることになる。

 

 そうまでして、自分の想いを通したって、俺には嬉しいことなんか何もない。

 彼女の嬉しそうな笑顔を守ってあげられないんなら、俺が真実さんの傍にいる意味なんて何もない。

 

 ギュッとこぶしを握りこんだ瞬間、真実さんがもう一度俺の目を見つめた。

 迷いを脱ぎ捨てたかのような、真っ直ぐな視線だった。

 

 いつだって一人で悩んで、一人で傷ついて、一人で決心してしまう強い心に頭が下がる。

 最初っから、いつもいつも彼女に守られていたのは俺のほうなんだってことを、思い知らされる。

 

 俺に向かって伸ばされる真実さんの腕を、俺は縋るように掴んだ。

「真実さん……ゴメンね……」

 

 彼女の何もかもに感謝して、ただ抱きしめることしかできないのに、こんな俺にいつもいつも手をさし伸べてくれる人。

 俺にとってはかけがえのない、たった一人の人。 

 

 夢中で抱きしめた俺の腕に負けないくらいの強さで、真実さんも俺を抱きしめ返した。

「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」

 

 俺の全てを許してしまう彼女の言葉が、やっぱりありがたくて、どうしようもなく胸に痛かった。

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