第七章 心の奥底の望み

1 守れなかった

 ひさしぶりに歩く真実さんの大学へと続く長い道のりは、もう夏色が濃かった。

 初めて出会った夜は長袖のシャツを着ていたことを思えば、まるで駆け足で、数ヶ月が過ぎてしまったかのようだ。

 しかし実際には、俺と彼女が出会ってから、まだ一ヶ月ちょっとしか経っていない。

 

(密度が濃いっていうか……もう何から何まで俺の予定は狂いっぱなしっていうか……)

 

 二ヶ月前。

 今日と同じように病院を退院したあの日には、まさか自分がこんなに誰かを好きになるなんて、思ってもいなかった。

 その想いに背を向けるどころか、できるだけの間、彼女の傍にいようと決断するなんて想像もしなかった。

 でも――。

 

(この想いはきっと俺の力になる。もっと長く生きたいと願って、これまでよりずっと努力する原動力になる。きっと……!)

 

 だから、うしろめたさを感じる必要はない。

 真っ直ぐに前を向いて、いつものように真実さんに会いに行こう。

 

『いったいどこに行ってたの?』なんて、不安に思わせる隙もないほどに、入院する前と全然変わらない自分を必死に装って――。

 

 昨晩まで点滴のチューブが繋がっていた腕を持ち上げてみる。

 無数の針の跡は、捲り上げたシャツの袖を下ろしてしまえば見えない。

 

 顔色が悪くはないかと、出かける前に念入りに鏡ものぞいた。

 少なくとも真実さんが知っている俺以上に、ひどいやつれようにはなっていないはずだ。

 ――たぶん。

 

 気温はかなり高かったが、歩いてみると気持ちのいい風が吹いていてよかった。

 

「退院したその日にどこに行くのよ!」

 と怒鳴るひとみちゃんに、 

「散歩!」

 と笑って言えるくらいに、天気がよくてよかった。

 

 何もかもが俺にとって好都合で、何よりひさしぶりに真実さんに会えることが嬉しくて、だから俺はすっかり失念していた。

 ――彼女が決して、安穏とした平和な日常の中にだけ、住んでいるわけじゃなかったってことを。

 

 俺がこの日退院したのだって、単なる偶然なんかじゃなく、ひょっとしたら目には見えない誰かが、ギリギリのところで間にあわせて――いや間にあわせないで――くれたのかもしれなかった。



 

 真実さんが朝大学に行く時間は、ほとんど変わることはないけど、帰る時間は曜日によってまちまちだ。

 

 月曜日は昼一で終わるから三時前とか。

 火曜日はもう一限あるから四時半までとか。

 しっかり暗記してしまっているところが、我ながら怖い。

 

(今日は早く終わる日!)

 

 正門前で待っているのが俺の中の決めごとなので、真実さんが門から出てくるのにまにあうように家を出る。

 しかし大学へと続く広い舗道を半分まで来たあたりで、遥か前方に予想外の影を見つけた。

 

(あれ……? ひょっとして……?)

 

 スラリと背の高い髪の長い女の人と、小柄な短い髪の女の人。

 ――あれはひょっとして貴子さんと真実さんじゃないだろうか。

 

(どうしたんだろう?)

 首を傾げたのは、いつもよりかなり早い時間に二人が大学から帰っているせい。

 そして真実さんらしき人物が、まるでもう一人の人物に支えられるようにフラフラと歩いているせい。

 

(真実さん……だよな……?)

 そう思いながら、それまでのんびりと歩いていた足を少し速める。

 

 近づくごとに、その人が俺があんなに会いたかった人――真実さんだと確信を持つ。

 でも――。

 

(どうして?)

 あんなに危なっかしい足取りなんだろう。

 貴子さんにすがるようにして歩いてるんだろう。

 最後に会った時にはころころとめまぐるしいくらいに変わっていた表情が、凍りついたみたいに変わらないんだろう。

 そして――。

 

(首に巻かれてる白い包帯は……何?)

 

 頭の中で何かがスパークして、俺は全力で走りだした。

 ほんの数時間前まで病院に入院していたはずの自分の体のことなんて、――もうまったく頭になかった。

 

「真実さん! 真実さん! どうしたの?」

 走りこんで抱き止めた彼女の体は、ぐったりと力がなかった。

 意識を失って崩れ落ちるところにギリギリでまにあったことに、俺の背中を冷たいものが流れ落ちる。

 

「遅いんだよ! 少年!」

 さっきから同じセリフを何度もくり返している貴子さんは、真実さんを抱き止めた俺の胸ぐらを力任せに掴んだ。

 いつも真実さんの傍にいて、どんなことからだって自分が守ってみせると自信満々のあの貴子さんが、真っ青な顔で震えている。

 

「貴子……さん……?」

 悔しそうに俺から目を逸らした貴子さんは、俺のシャツを掴んだ手も、力なく下ろした。

 

「ごめん。八つ当たりだった……」

 冷静さを絵に描いたような人だと常々思っていたのに、いったいどうしたのか。

 貴子さんの動揺はきっと、真実さんの今の状態と無関係なわけがない。

 

 腕の中の小さな人を見下ろしてみる。

 初めて会ったあの夜のように、可哀相なくらいに頬が腫れていた。

 他にも小さな引っかき傷のようなものがいくつかある。

 うっすらと血が滲んだ傷にそっと指先で触れて、俺はそのまま彼女の首に巻かれた包帯を撫でた。

 

 小さな顔は俺なんかよりよほど蒼白で、固く閉じた睫毛が濡れているのが、たまらなく俺の胸を灼いた。

 

「どうして……?」

 必死に感情を押し殺そうとしているのに、声が震える。

 どうしようなく湧き上がってくるある疑いに、感情が引きずられる。

 

「何が……あったんですか……?」

 ふうっと息を吐き出した貴子さんは、苦しげな声でポツリポツリと、今日大学で起こった出来事を俺に教えてくれた。

 

「大学で……岩瀬に捕まったんだ……真実は逃げようとしたし、私たちも助けようとしたんだけど……そうできないでいるうちに、首を……!」

 

 ゾクリとどうしようもなく背筋が粟だった。

 否応なく視線が引き寄せられるのは真実さんの首に巻かれた包帯。

 

(ダメだ。このままじゃ怒りで感情が焼き切れる! 憤りが激しすぎて、動悸から発作が起きてしまう……!)

 

 俺は貴子さんの言葉を最後まで待たずに、真実さんの体を両腕に抱き上げた。

 

「……おい? 少年……?」

 訝しげに呼びかける貴子さんのほうはもうふり返らず、真実さんを抱きかかえたまま、彼女のアパートに向かって歩きだす。

 

「帰りましょう。貴子さん」

 それだけ言うのがせいいっぱいだった。

 長い前髪の下で深く俯いた顔は誰にも見せられなかった。

 

 何度も何度も真実さんを傷つけるあの男と――それから自分自身に、腹が立ってたまらなかった。



 

 たとえば俺がもしその場にいたら、真実さんを守ることができていただろうか。

 ――答えはわからない。

 

 残念ながら俺の体は、人に自慢できるほど立派なものではない。

 でも真実さんが危険な目にあったら、それを止めに入るくらい、ほんの少しでも盾になるくらいはできたはずなんだ。

 それなのに――。

 

(俺は今日何をしてた……?)

 

 病院を出て、家に帰って、午後からのために午前中はちょっぴり体を休めて。

 それらは決して悪いことではない。

 悪いことであるはずがない。

 

 なのに、――真実さんを守れなかった!

 ――その思いが、どうしようもなく俺を苛立たせ、落ちこませる。

 

 彼女のために何ができるのか。

 もっと真剣に考えればよかった。

 

 時間がきっと解決してくれるなんてやさしいセリフ。

 真実さんだけに任せておいて、俺はもっと血眼になってあの男を追えばよかった。

 

 用心のためになんて自分の体ばっかり労わらずに、彼女から目を離さなければよかった。

 ずっと、ずっと傍にいればよかった。

 

 こめかみが引きつるほどに奥歯を噛みしめて、ベッドで眠る真実さんの傍らに座りこみ俯いた俺に、貴子さんが呼びかける。

 

「真実はあんたをずっと待ってたよ……どこに行ってたのかなんて野暮なことは聞かない……でも本気でこの子の傍にいてくれるのか、無理なのか……こんな時で悪いけど本心を聞きたい……!」

 

「…………!」

 俺は顔を跳ね上げた。

 

 貴子さんが眼鏡の奥の鋭い瞳を、いつもよりかはいくぶん和らげて、俺に向けていた。

 

「なんで真実ばっかりこんなひどい目にあわなきゃならないんだ? もっと幸せになってほしいって心から思うよ……! 真実が好きなのはあんただ……あんたは真実を幸せにできるのか……それとも無理なのか……これ以上この子が傷つく前に、はっきりさせろ……! 無理だって言うんなら、もう真実の前に現われるな!」

 

「俺は……!」

 何も言えない。

 言えるはずがなかった。

 

 どれだけ真実さんを想っているのかとか、どれだけ彼女が好きなのかとか、もしそんな気持ちだけをはかるんだとしたら、誰にも負けない自信がある。

 

 会いたい。

 傍にいたい。

 触れたい。

 抱きしめたい。

 

 守ってやりたい。

 笑顔が見たい。

 幸せにしたい。

 ずっとずっと一緒にいたい。

 

 溢れんばかりの想いなら、絶対誰にも負けない。

 

(でも俺には……!)

 

 未来がない。

 彼女と共に歩く将来を夢見るだけの時間がない。

 どんなに望んでも、どんなに願っても、決してそれだけは手に入らないことがもう決まってしまっている。

 だから――。

 

「俺は……!」

 それ以上は続けることのできない言葉を、何度もくり返すしかなかった。

 

 こんなに真剣な貴子さんに嘘はつきたくないから、できもしないことをできるとは言えない。

 でもそうできるものなら本当はそうしたいのにと、心が叫んでいるから、真実さんを諦めるような言葉は言えない。

 

 ――俺には絶対言えない。

 

「俺は……!」

 てのひらに爪が食いこむほどにギュッときつくこぶしを握りしめて、俯くことしかできない俺の名を、ふいに真実さんが呼んだ。

 

「海君……」

 慌ててベッドの上で横になっている彼女の顔をのぞきこむ。

「真実さん……?」

 

 目が覚めている様子はなかった。

 少し苦しそうではあるが、比較的規則正しい寝息をたてている。

 俺が返事をした途端、苦しげに少し寄せられていた眉根が緩んで、あどけなく綻んだ寝顔が胸に痛かった。

 

(真実さん……! 真実さん……!)

 

 この寝顔を守るためだったら、どんなことだってやる。

 やりたい。

 なのに俺にはどうして時間がないんだ。

 

 涙が浮かんできそうな思いで、唇を噛みしめる。

 そんな顔を誰にも見られたくなくて、再び俯いたんだったのに、頭上から貴子さんの声がした。

 

「わかった……よっぽどの事情があるんだってことと、それでもあんたが真実の傍にいたいって思ってるってことはよくわかった……!」

 

 俺の本心をかなり正確に言い当てられて、ドキリと心臓が跳ねる。

 それでも顔を上げて、貴子さんの顔を見ることはできない――今はちょっとできない。

 

「約束してくれ……真実をこれ以上傷つけないって……どうすれば真実が幸せになれるのか、あんただってちゃんと考えている……そうなんだろ?」

 

 俺が頷いたのと、ベッドの上の真実さんが身動きしたのがちょうど同時だった。

 

「真実!」

 俺と貴子さんが見守る中、真実さんがゆっくりと瞼を開けた。

 

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