第六章 描きたいもの

1 放課後の美術室

「ねえ海里。なんか最近また、出かける時間が早くなってない?」

 

 朝、真実さんのところへ行こうと玄関の扉を開けた瞬間、家の門に寄りかかるようにして、俺を待っているひとみちゃんの姿が目に飛びこんできた。

 

「そんなことない……と思うけど?」

 苦し紛れの言い逃れに、ひとみちゃんは茶色い皮バンドの腕時計の文字盤を、俺の目の前に突き出す。

 小さな針が示す時間は――七時五分。

 

「いや……ちょっと早いね……」

 どうにか言い訳を捻り出そうとする俺の気配を察知したらしく、ひとみちゃんは、はあっと大きなため息を吐いて、先に話し始める。

 

「別に私がとやかく言うことじゃないんだけど……でも最近あまりにも顔色が悪すぎるから……週に一回、検査を受けるように、病院に申しこんどいたわよ」

 

「はい?」

 よく意味がわからなくて問い返した途端に、目を剥いて怒鳴られた。

 

「週に一回は病院に行って、みっちり検査を受けるのよ! そうじゃなきゃ、こんなふうにフラフラと外出するの禁止!」

 

(いったいいつからひとみちゃんは俺の主治医になったんだ? ……いや……この場合、担当看護師か……?)

 

 どうでもいいようなことを考えている俺に向かって、びしっと人差し指を突きつけ、

「まずは四日後だから! 忘れないでよねっ!」

 言いたいことだけ言うと、長い黒髪を翻して、さっさと自分の家に帰ってしまう。

 

 あとに残された俺は、その颯爽とした後ろ姿を呆然と見送りながら、だんだん笑いがこみ上げてきた。

 

(つまりは……最近俺の顔色が悪くて心配だから、定期的に病院に行って検査を受けるようにしろってこと……だよな?)

 

 だてに一緒に育ってきたわけではない。

 意地っ張りなひとみちゃんの、棘のある言葉の裏にある優しい気持ちを読み取る能力だったら、俺はきっと世界中の誰にも負けない。

 

「ありがとう! ひとみちゃん!」

 

 角を曲がって見えなくなろうとしている背中に、大声で呼びかけると、明らかに驚いてビクリとしたくせに、すぐに顎をあげて、わざわざ俺からぷいっと顔をそらしてそのまま行ってしまう。

 

 意地っ張りな彼女に、俺は心の中だけで深々と頭を下げた。

(ほんとに、ありがとう……)

 

 俺の体調にとって、それは今本当に、ありがたい心遣いだった。



 

 真実さんが愛梨さんの部屋に住むようになってからも、俺は毎日彼女に会いに行っている。

 

 真実さんは長いこと休んでいた大学に復学した。

 最初の日こそ、不安で不安でたまらない顔をしていて、送っていった俺まで緊張するぐらいだったが、今ではすっかり大学生活を満喫している。

 ――ように見える。

 

 送り迎えする間に聞かせてもらった話と、俺が見た様子から想像するに、愛梨さん以外にも真実さんが復学するのを待っていてくれた友人たちの存在が大きいようだ。

 

 俺は自分自身が、復学してはまた休学し、をくり返してきた学校生活だったから、真実さんの気持ちはよくわかる。

「やっと出てきたんだねー」と喜んでくれる存在がいてくれることは何よりも嬉しい。

 

 そんなことを考えながら、結局一ヶ月ちょっとしか学校に通っていない、俺自身の高校生活を考えた。

 

 生活区がそのまま学区だった小中校時代とは違って、高校では初めて会う連中がクラスのほとんどだったから、二ヶ月遅れの俺の入学を待っていてくれたクラスメートなんて、実はほとんどいなかったのかもしれない。

 ――ただ一人を除いては。

 

 そのたった一人。

 ――いつも俺のことを気遣ってくれているひとみちゃんは、せっかく通えるようになった高校を、俺が自分の意志で休んでいることを、本当はどんなふうに思ってるんだろう。

 

 ひょっとしたら内心腹立たしい気持ちを、必死に我慢してくれているのかもしれない。

 ――なんだかんだ言ったって、ひとみちゃんは優しいから。

 

(だから週に一回の検査ぐらい、ありがたく受けるよ…そうすることで助かるのは、結局他の誰でもない……俺自身なんだから……)

 

 真実さんを迎えに、今日も長い道のりを歩きながら、俺はそんなことを考えた。



 

 考えごとをしながら歩いていると、思いがけなく早く目的地に着くことがある。

 今日の俺はまさにそんな状態だった。

 

 黙々と歩いているうちに、いつの間にか愛梨さんのアパートの近くまで来ていた。

 真美さんのアパートへの道のりばかりか、ここへの道のりも、すっかり体に染みついてしまっている自分に苦笑する。

 

 道路を挟んだ壁に寄り掛かって、真実さんが出て来るのを待つ時間も、すっかり体に馴染んだ。

 

 すがすがしい朝の空気を吸いながら、遠くの空なんかを眺めてると、

(よし。今日も頑張ろう!)

 という気持ちが湧いてくる。

 

 でも他の何よりも俺の元気のみなもととなっているのは――俺を見つけた瞬間の真実さんの笑顔。

 それこそが俺を突き動かす原動力。

 

「海君!」

 ニッコリと笑って手を振る小柄な姿が、通りの向こうに現われた時から、俺の一日は本当の意味で始まる。

 

「おはよう」

「おはよう」

 

 どちらからともなく手を繋いで、一緒に歩き始めたところから、無機質な辺りの風景が目を焼くほどの鮮やかな色を放ち始める。

 

「それでね……その時ね……」

 笑顔で話し続ける真実さんの背後に、大きな入道雲と夏色の空を見た瞬間、自然と、

 

(そうだ……絵を描こう……)

 と思えた。

 

 気構えも無理もなく、自然とそう思えたことが、自分でも不思議だった。



 

「それで……? 思い立ったら吉日ってわけで、ここにいると……?」

 

 腰に両手を当てて、お決まりの仁王立ちのポーズを取りながら、大きな目を吊り上げて俺を睨みつけているひとみちゃんに向かって、俺はこっくりと頷く。

 

「そうだよ」

 

 途端、手近にあったスポンジ――たぶんひとみちゃんが水彩画を描く時に、筆についた余分な水分をふき取るための物――を投げつけられそうになった。

 

「ばっかじゃないの! 授業には出ないくせに、昼休みに美術室で絵を描くためだけに学校に来るって……いったい何様のつもりなのよ!」

 

 俺は額に人差し指を当てて、しばし考えこむフリをしてから、二カッと笑った。

「……俺様?」

 

 顔の横をかすめてスポンジが飛んでいった。

「うわっ! ほんとに当たっちゃうじゃん!」

 

「当てるつもりで投げてんのよ!」

 

「……いいじゃない。私たちだって、楽しい昼食の時間を削ってまでこんなところで画布と向きあってるもの好きばっかりなんだもの……ね?」

 あいかわらず柔らかな笑顔で、怒り狂うひとみちゃんにだって平気で意見を言えてしまうその人は偉大だ。

 

 いつ見ても自分より大きなキャンバスと格闘しているようにしか見えない小さな上級生。

 ――今日もほっぺたにオレンジ色の絵の具をつけてしまっている彼女は、女だてらに美術部部長をやってる今坂先輩。

 

「描きたいものが見つかったの? ……一生(ひとうみ)君……」

 二ヶ月近くも前の俺との他愛もないやり取りを、部長がまさか覚えてくれているとは思わなかったので、俺は内心、結構驚いていた。

 

「はい。そうです」

 

 部長は何も言わずただニッコリと微笑むと、また自分よりも大きなキャンバスとの戦いに戻っていく。

 何が描いてあるのか俺にはよくわからない、その色彩の重なりに目を向けていると、自然とうずうずしてくる。

 

(俺だって負けてらんない……!)

 本来の負けず嫌いな性格がむくむくと頭をもたげる。

 

 なんの話をしているのかわからないとばかりに首を傾げて、いぶかしげに俺たちを見ているひとみちゃんに向かって、俺は手をさし出した。

 

「ひとみちゃん。使ってない画材あったら、なんか貸して。急に来たから……俺なんにも持ってきてないんだよね」

 

 ぐわっと頭に角が生えてきそうな形相で、ひとみちゃんは叫んだ。

「だからいったい何様のつもりなのよ! あんたは!」

 

 投げつけられたスケッチブックを、彼女が俺に貸してくれた今日のとりあえずの部活道具として受け取って、俺はニヤリと笑った。

「……海里様?」

 

「海里!!」

 

「ハハハハッ」

 大きな声で笑いながら、怒るひとみちゃんに背を向けて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。

 まだ新しいスケッチブックを抱きかかえるようにして、真っ白なページに鉛筆を走らせ始める。

 

 窓に頭をもたれかけて見上げた空は、青く眩しかった。

 どんな形の雲を見つけても、悠々と飛んで行く鳥の姿を見ても、俺にはその向こうに彼女の――真実さんの笑顔が見える気がした。

 

 

「海君、なんだか最近嬉しそう」

 

 朝、並んで手を繋いで歩きながら、真実さんはふいにそんなことを言う。

 

 ポーカーフェイスが得意なつもりだったのに、彼女の前では俺はどれだけ感情がだだ漏れになってしまっているんだろう――自分がちょっぴり情けなくなる。

「そう。……わかる?」

 

「うん。わかる、わかる」

 コロコロと笑いながら、短い髪が揺れる。

 

 朝日のように輝く無邪気な笑顔に見惚れ、白い頬に無意識に手を伸ばしてしまいそうになってから、そんな自分に自分でドキリとした。

(今……何しようとした……俺?)

 

 いつだってすぐに引き寄せられるくらいの距離にいる真実さんに、手を伸ばして、こっちを向かせて、そして――。

 

 ぎゅっと胸が痛んで思わず足を止めた。

 自然と真実さんも立ち止まることになって、不思議そうに俺の顔を見上げる。

「どうしたの……?」

 

 真っ直ぐにこちらを向く俺を信じきっているようなその瞳に、

「あなたがあんまり可愛くて、キスしそうになりました」

 とはまさか言えなくて、邪念を追い払うかのように大きく首を振る。

 

 返事の代わりに、彼女の手をさっきよりももう少しだけしっかりと握り直して、俺は歩き出した。

 

 突き当たりが大学の正門へと繋がっている広い舗道。

 朝一番の講義へと向かう学生の群れの中に、見覚えのある背中を見つける。

 

 真実さんの友人。

 頭の切れそうなスラリとした美人の貴子さんと、小さくて可愛らしい雰囲気の花菜さん。

 

 人ごみの中でも実に見つけやすい、好対照な二人のうしろ姿を、俺は真実さんに指し示した。

「ほら……貴子さんと花菜さん」

 

 少し首をひねったまま、俺に手を引かれて歩いていた真実さんが、ぱあっと笑顔になる。

「貴子! 花菜!」

 

 真実さんの呼びかけで彼女の友人たちが振り向くのと同時に、俺はいつもどおり、繋いでいた真実さんの手を放した。

「いってらっしゃい」

 

 笑顔で手を振ると、

「いってきます」

 真実さんも笑顔で頷く。

 

 立ち止まった俺を置き去りに駆けて行く背中を、いつもはちょっぴり寂しい気分で見送るのに、今日はなぜだかほんの少しホッとした。

 彼女の小さな手の感触がまだ残るてのひらを、ぎゅっと握りしめる。

 

「海君!」

 ふいに遠くから呼ばれて顔を上げてみると、真実さんが友人たちに囲まれながら、俺に向かって大きく手を振っていた。

 

 あんな満面の笑顔を俺に向けてくれる。

 それだけで天にも上るくらい幸せな気持ちなのに、――どうして俺はこんなによくばりなんだろう。

 

 それを願えるだけの未来もないのに、もっと彼女に触れたいと思ってしまった自分がうしろめたい。

 なんのためらいもなくそれを行動に移していたであろう存在のことが頭をかすめて、なおさら気持ちが落ちこんだ。

 

 あの男――岩瀬幸哉は、真実さんの部屋を滅茶苦茶に荒らしたあの夜から、彼女の周りに姿を現してはいない。

 村岡さんが警察の警告を携えて部屋を訪ねた時には、すでに行方をくらましていた。

 

 どこかに逃亡したのか。

 それとも潜伏しているのか。

 可能性は半々だと村岡さんは語ってくれたが、俺はきっと後者だろうと思っている。

 

 あの男は絶対に真実さんを諦めたりしない。

 もう一度近づくチャンスを、どこかに隠れて絶対に待っている。

 ――そんな気がする。

 

 だから俺は、本当はひと時だって真実さんの傍を離れたくはなかった。

 

 でも夜は愛梨さんがいてくれる。

 大学では貴子さんたちもみんな真実さんを守ってくれている。

 

 だから俺は大学への送り迎えだけを自分の役目として、ただ毎朝・毎夕、真実さんのところに通う。

 でも本心は、大学の中にまでついて行きたいくらいだった。

 

 俺は全然構わないし、きっと大学側にだってバレることはないだろう。

 でもそれではさすがに、まるで俺のほうが真実さんのストーカーだ。

 

 ぎりぎりの妥協点として、門から先を真実さんの友人たちにお任せしてはいるが、本音は辛い。

 朝と夕、歩いて二十分くらいの距離。

 一緒に歩くのだけが二人の時間。

 

(せっかく真実さんがもう一度大学に通えるようになったんだから……寂しいなんて思うのは俺の身勝手だ……)

 俺に背を向けて真実さんたちが歩き出したのを確認してから、俺も大学の門に背を向けた。

 

 この街で一番大きな大学。

 俺が通う高校でも一番進学する生徒が多い場所。

 だけど俺がこの門を潜って、中に入ることは――きっとない。

 

 そう思うと、また違った意味で胸が痛い。

 

「海君!」

 背後から、思いがけなくもう一度、俺を呼ぶ声がした。

 

 ふり返って見てみると、さっきよりもっと遠くなった場所から、真実さんがあいかわらず、ぶんぶんと大きく手を振っている。

 小さな体いっぱいで、まるで一生懸命に「自分はここにいる」と主張しているようなその姿に、思わず笑みが零れた。

 

(そんなに何回もふり返ってたら、遅刻しちゃうよ)

 彼女に負けないぐらいに大きく手を振りながら、満面の笑顔になってしまう。

 

(まだやってるのかって……貴子さんたちに呆れられちゃうよ)

 嬉しかった。

 俺に真っ直ぐに向けられる彼女の想いが嬉しかった。

 だから――

 

(そんな資格もないのに、もっともっとって彼女を望むのは、俺のわがまま以外のなんでもない……だからそんなことは望まない……!)

 苦しい衝動は胸の奥に封じこめ、足に力をこめて、俺はもう一度歩きだした。

 

(どうせいつかはいなくなるのに、悲しい思いを残すだけだ……! 今のままでいい……手を繋ぐぐらいでいい……)

 自分を戒めるかのように、強く胸に誓った。

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