3 キミの傷と俺の痛み

 警察署に着くまでの間は、真実さんはよく笑っていたように思う。

 大学に戻るからと、バイト先にやめる承諾をもらいに行った時も。

 実は俺の兄貴と同じ年だなんてことを、自ら暴露してしまった時も。

 

 慌てたり。

 真っ赤になったり。

 怒ったり。

 拗ねたり。

 

 そんな動作や表情の一つ一つが可愛くって、俺はただ彼女を見ているだけで幸せだった。

 だから警察署の門をくぐった途端に、こわばってしまった表情を見るのは、ひどく辛かった。

 

 昨晩真実さんのアパートへと駆けつけてくれた刑事さんは、ちょうど外出中で、すぐに帰って来るからということで、そのまま俺たちは警察署内で待たされた。

 真実さんは担当刑事のデスクの近くに案内されたが、俺はそこまではついて行かず、部屋の壁際に置かれた長椅子で待っていることにした。

 

 あの男と真実さんとの、こみ入った話を聞きたくなかったのが、理由の半分。

 あとの半分は、立ったままでいるには、かなり肉体的に辛くなっていたからだ。

 ここに来る途中にも、実は発作が起きるんじゃないかとヒヤリとした場面があった。

 幸いしばらく立ち止まっていたら、胸の動悸も治まったし、真実さんもちょっと不審に思ったみたいだったけど、何も聞かずにいてくれた。

 

 しかしこうも短い間に、何度も具合が悪くなるというのは、あまり歓迎すべき事態ではない。

 

(仕方ない……なるべく安静にしている以外には、俺にできることはないんだから……!)

 椅子があったことを幸いに、俺はそこで座って、真実さんと刑事さんの話が終わるのを待つことにした。



 

 昨夜の刑事さんは、本当にすぐに出先から帰ってきた。

 どうやらあの男を、家に送り届けてきたところだったらしい。

 ということは、あの男はこの警察署で一夜を明かしたということだ。

(ふん……いい気味だ)

 

 自分自身は病院で一晩明かしたわけなのだが、それは棚に上げておいて、あの男が少し罰を受けたことに軽く溜飲を下げる。

 

 真実さんは俺には背中を向けて、その刑事さんとだいぶ長い時間話しこんでいた。

 どんな話をしているのか。

 ――聞きたくないというのが俺の本音だ。

 

 それなのに、少しぐらい距離があっても、周りが多少にぎやかでも、俺の耳は確実に真実さんの声を拾ってしまう。

 ――それはもう悲しいほどに。

 

「……はい。つきあって二年です……」

「……彼の部屋で一緒に暮らしていました……」

「……そうですね……そう思っていた時期もあります……」

 

 切れ切れに聞こえてくる真実さんの言葉に、両耳を塞いで、

「やめてくれ!」と叫びださないでいられたことが、正直、奇跡だと自分でも思った。

 

 気分が悪い。

 腹が立つなんて意味ではなく、本当に気分が悪過ぎる。

 見ていられなくなって真実さんの背中から目を背け、自分のスニーカーを睨みつけていた目が、ぼんやりと霞み始める。

 

(くそっ! ……ただの寝不足か……? それとも……?)

 

 大きく肩で息をくり返している俺に、

「はい。どうぞ」

 と誰かが紙コップを横からさし出してくれた。

 紺色の制服に身を包んだ女性の警官だった。

「キミ、顔色悪いよ……大丈夫?」

 

 さし出された紙コップを、

「ありがとうございます。大丈夫です」

 と受け取ろうとして、手が震えていることに気がつく。

 反対の手で手首を押さえるようにして、俺はその震えを必死に隠した。

 

「いろいろ思うところはあるだろうけど……キミだって大変だろうけど……彼女が大切だったら、どうか支えてあげてね……」

 俺ではなく真実さんのほうを見ながら、その若い女性の警官は、ぽつりぽつりとそんなことを言った。

 

「…………!」

 まるで自分の心を読まれていたかのようで、言葉が出てこない。

 

「傍にいてくれる人がいるっていうのは、きっと支えになるはずだから……ほら」

 促されて顔を上げてみると、真実さんがふり返ってこっちを見ていた。

 怯えたような不安そうな顔が、俺と目があった途端に、ぱっと少し明るくなる。

 

「すごくキミのことが好きみたいだね」

 囁くように俺に告げて、その人がいなくなってしまってからも、俺は真実さんから目を離すことができなかった。

 

(すごく好き……? 俺を? ……真実さんが?)

 ふっと微かに笑って、もう一度俺に背中を向けた小さな横顔が。

 華奢な体が。

 今にもいなくなってしまいそうな儚げな雰囲気が。

 ――ダメだ。胸に痛い。

 

 ぎゅっと両手で握りしめた紙コップに視線を落とすと、俺の手の震えは消えていた。

 吐きたくなるほどに悪かった気分も、すっかり治まっていた。



 

 夕日が空を真っ赤に染める中、真実さんと手を繋いで、彼女のアパートまでの道を帰った。

 

 刑事さんとの話が終わっても、彼女は俺に何も言わない。

 俺のほうも何を話していいのかわからないから、ただ黙ったまま彼女の手を引き歩く。

 

 長い沈黙が苦しくなって、

「真実さん」

 思わず呼びかけたけど、

「何?」

 返ってきた声があまりに小さくて頼りなげだったので、なんと言っていいのかわからなくなってしまった。

 

『彼女が大切だったら、支えてあげてね……』

 女性の警官に言われた言葉が胸に甦る。

 

(でも……どうやって……?)

 

 なんの力もない

 それどころか人並みの未来だって約束されていない

 俺みたいな人間が、いったいどうやって他の誰かを支えればいいって言うんだろう。

 ――全然わからない。

 

 黙ったままいくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えるうちに、真実さんのアパートが近づいてきた。

 それに伴って真実さんの歩く速度はどんどん遅くなり、そのうちピタリと止まってしまう。

 

 彼女にあわせて歩いていた俺の足も、自然と止まる。

 不安で不安でたまらない真実さんの気持ちが、手にとるようにわかる気がした。

 

「大丈夫だよ」

 ふいに俺の口は、自分の意志とは関係なく言葉を紡ぎだしていた。

 

 驚いたように顔を上げた真実さんが、俺の顔を見つめた瞬間、

「俺がついてるよ」

 自分でもびっくりしてしまうくらい優しい声が出た。

 

 いつもからかうようなことばかり

 そうかと思えば冷たいことばかり

 真実さんには言ってしまうのに、肝心な時にはこんなことも言える自分に、少しだけ感動する。

 

 でも真実さんは静かに首を横に振る。

 きっと俺のためを思って、巻きこみたくないとかそんなことを思って、優しく拒否しようとする。

 

 許さない。

 それは絶対に認めるわけにはいかない。

 

「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」

 

 心からの本音は自分の胸にも痛かった。

 でもそれだからこそ、けっして譲るわけにはいかない。

 

「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」

 俯いてしまった真実さんの気持ちを少しでも軽くしようと、俺はとっておきの秘策を披露する。

 

「大丈夫。殴りあいになったら、確かにぶが悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」

 そして胸ポケットから、その秘密兵器をもったいぶって取りだす。

 

 ごく普通の携帯電話。

 真実さんの瞳が真ん丸に見開かれる。

 

「えっ? ……携帯?」

 怯えた様子が払拭されたその表情を見ることができただけで、俺のその秘策はじゅうぶんに大成功だった。

 

「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」

 この上なく真剣な表情でそう言ってみせたら、ついに真実さんは小さく吹き出した。

「やだもう! 海君ったら!」

 

(やった! 笑った!)

 それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいんだろう。

 俺まで笑わずには、いられない。

 

「やっと笑ってくれた」

 大きな大きなため息と共に、俺はホッと安堵した。



 

 歩く速度を遅らせて、わざとゆっくりとたどり着いた真実さんの部屋の前に、あの男の姿はなかった。

 ホッとして見下ろすと、隣に立つ真実さんは俺を信頼しきった顔で見上げている。

 その無垢な表情には、どんなに自重しようと思っても、やっぱりむくむくと悪戯心が湧いてきてしまう。

 

「なんなら部屋の中までついて行こうか?」

 ニヤリと笑うと、真実さんは途端に首まで真っ赤になった。

 

「い、いいよ!」

 慌てて手を振る彼女に、すました顔で畳みかける。

 

「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」

 最後まで真顔で言い切ってやろうと思っていたのに、途中で思わず笑ってしまった。

 悔しくって前髪をかき上げる。

 

「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」

 真実さんは真っ赤な顔のままこぶしをふり上げて、クルリと俺に背を向けた。

 

「いいです! 一人で帰ります!」

 本当に一人で行かれてはたまらないと、俺は慌てて追いかける。

 

「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」

 謝ってみても待ってはくれない。

 

 玄関のドアへと手をかけた真実さんの動きが、次の瞬間、ピタリと止まった。

 ――真実さんの部屋のドアはギイッと音をたてて、なんの引っかかりもなくスムーズに内側に開いた。

 

(なんだって!)

 俺は急いで、彼女とドアの間に自分の体をねじこむ。

 

「真実さん!」

「やだっ!海君!」

 真実さんは俺の背中にしがみついた。

 

 ドクドクと彼女にも聞こえてしまいそうなくらい俺の心臓は鳴っているのに、せいいっぱい無理して、真実さんを安心させるため、なんでもなさそうな声を出す。

 

「大丈夫だよ」

 用心深く開いてみたドアの向こうに、人の気配はなかった。

 

 しかし中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていた。

 昨夜は綺麗に整頓されていた引き出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆるものが引っ張り出されているし、テーブルも椅子までもひっくり返っている。

 

「……どうして…………?」

 ヨロヨロと中に入っていった真実さんが、崩れ落ちるように床に膝をついて、そこに散らばっている衣類を片づけ始めた。

 

「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」

 弱々しい声に、俺には見られたくないものもあるんだろうと察して、俺は

「ああ」

 と頷きながら部屋から出ていく。

 

 その瞬間。

 入り口近くの紙の山の上に放置されていた一枚の写真が、目に飛びこんできた。

 

 真実さんの写真だった。

 傷だらけの体を丸めて、ベッドの上で眠っている写真。

 

 生々しい傷の痕と、裸にも近いような薄着にドキリとして慌てて目を背けてから、俺は改めてハッとした。

(……誰が撮った写真?)

 

 俺が見たこともないような真実さんの姿を、わざわざ誇示するように、おそらくは意図的に、ここに置いていったのは――。

 

(それは……誰?) 

 

 それはまちがいなく、この部屋を荒らした犯人だ。

 真美さんをこんなにも傷つけて、苦しめる――あの男だ。 

 

 怒りと憤りで体中の血液が逆流するかと思った。

 ドクンと大きく、俺の最大の弱点が体の中央で跳ね上がる。

 

(マズイ!)

 転がるように部屋の外に飛び出て、すぐに薬を口の中に放りこんで、そのままその場にしゃがみこんだ。

 

(頼む! 頼む!頼む! 今だけはお願いだ……ちょっと待ってくれ!)

 

 あんなに滅茶苦茶に荒らされた部屋に、あんなに傷ついた真実さんを、たった一人で置き去りになんてできない。

 

 俺のどうしようもない嫉妬だったら、いくらでも飲みこむから。

 いくらでも我慢するから。

 だから頼む。

 ――今は発作なんて起こさないでくれ。

 

 これまでの人生で、およそ俺の願いなど一度も叶えてくれたことのない『神様』に、俺は胸を押さえながら、必死に祈った。

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