3 明日の約束

 中学時代の俺は、どちらかといえばモテないほうではなかったと思う。

 人づてに聞いたり、面と向かって告白されたこともある。

 それら全てが嬉しくなかったといったら嘘になるかもしれない。

 でもそんな時、決まって真っ先に頭に浮かぶのは、いつも、

(困ったな)

 という思いだった。

 

 そんな自分が本当に嫌だった。

 

 相手の子に俺の病気を説明することや、同情されること。

 病気と向きあう気持ちを勝手に想像されること。

 それらをとても煩わしく感じた時期もあって、ずいぶん思いやりを欠いた対応もした。

 ひとみちゃんと俺の仲を誤解している子なんかには、わざとその誤解を解かないままにしておいたこともある。

 

 でも、それがどんなに失礼な態度だったとしても、その時は相手を傷つけたとしても、俺の先の見えている人生につきあわせるよりは、いいだろうと思ったのだ。

(どんなに『好きだ』って言われたって――俺自身がそう思ったって――それは結局終わってしまう。だって俺はそのうちいなくなるんだから。それは決して変わらない事実なんだから。だったら最初っから何も始まらないほうがいい……もし万が一、相手の子がずっと俺を忘れずにいてくれたとしても……それはその子にとっては不幸でしかない……)

 

 誰も不幸にしたくなかった。

 自分自身も未練なんて持ちたくなかった。

 

 だから俺は恋愛ごとには、あえて意識的に背中を向けて生きてきた。

 夜の町にフラッと遊びに出れば、その日短い時間だけ一緒に遊ぶ相手は、いくらだって見つかったし、そうでなくても別に困らなかった。

 

 本気の恋なんてする気もなかったし、自分がそんなものをすることなんて想像もつかなかった。

 なのに―。


「じゃあ、明日迎えにくるよ」

 彼女と約束して、アパートの前から歩き出した瞬間から、どうにも足が地に着かないのだ。

 見送ってくれる視線を痛いくらいに背中に感じながら、どうにか夜の街に一歩を踏み出したけれど、どこをどうやって家に帰り着いたのかも、覚えがなかった。

 たぶん標識を頼りに地道に大通りを歩いて、なんとか家まで帰って来たんだろうけど、まるで覚えていない。

 

 寒くもなく暑くもない真夜中の街を、無重力状態のようにフラフラと歩きながら、俺の頭の中では、長い髪や白い小さな横顔や、黒目がちの大きな目なんかが、くり返し思い出された。

 永遠のように彼女の面影だけがまわり続けていた。




「まったくどこ行ってたんだよー海里ー」

 予想どおり、兄貴はとっくに家に帰っていて、フラフラと玄関に入ってきた俺を、大袈裟なくらいに抱きしめて出迎えてくれた。

「やめろよ、気持ち悪い!」

 と、いつもの俺だったら力任せに腕をふり払うところで、兄貴ももちろんそんな反応を期待していたんだと思う。

 

 だけど、

「ああ、うん。ちょっと買いのもの」

 そう言って、右手に下げていたビニール袋をさし出した自分に、兄貴だけじゃなくて俺自身もビックリした。

 

(いつの間に買ったんだ、これ?)

 まったく覚えがない。

 

「なんだー、お兄ちゃんのためにわざわざ晩飯買ってきてくれたのかー!」

 感動して目頭を押さえるフリをしながら、兄貴がテーブルの上に並べたその袋の中身は、コンビニの弁当だった。

 

 ご丁寧に、俺の好物と兄貴の好物が揃っているところを見ると、確かに俺自身が買ってきたのにまちがいない。

(全然覚えてないぞ……)

 そんな自分に少し冷や汗を感じながら、俺は兄貴と一緒に、あまりにも遅い夕食のテーブルについた。

 リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計の針は、とっくに十二時をまわっている。

 

(約束した『明日』に、もうなっちゃってるじゃないか……)

 そう思っただけで、キリッと胸が痛んだ。

 彼女の長い髪から香った甘い香りが、不意に鼻の奥に甦る。

 思わず左胸を押さえて俯いた俺に、

「どうした? 大丈夫か?」

 すぐさま兄貴は問いかけた。

 

「大丈夫だよ。なんでもないよ……」

 短く淡々と返す俺を、兄貴は黙ったまま静かに見つめている。

 

 ほどよく甘やかしてくれ、ほどよく自由も与えてくれる。

 決して押しつけがましくはなく、だからといって必要な注意は怠らない。

 

 兄貴の俺に対する態度はいつも百点満点だ。

 五歳という年の差以上に、俺と兄貴との間には大きな差があるような気がしてならない。

 

 もし俺に病気というハンデがなかったとしたら、この差が縮まっていただろうか。

 はっきりいって自信がない。

 兄貴がもし自他共に認める重度のブラコンでなかったなら、俺はとっくにひねくれていたに違いないだろう。

 

「じゃあ……晩飯、食おうか?」

 しばらく間を置いてから、ニッコリと仕切り直す兄貴に、俺は素直に頷いた。

「うん」

「いただきまーす」

 陽気な声につられて、

「いただきます」

 思わず俺まで小さく笑ってしまう。

 

 どんな時でも、すぐ側で優しく見守ってくれている人がいるから、俺はこんな運命の中でだって笑って生きていられる。

(感謝を忘れちゃいけない……)

 今夜も再確認せずにはいられなかった。

 


 夜というよりは明け方のほうが近いような時間になって、俺はようやく自分のベッドに入ったが、眠れる気はしなかった。

(約束したんだから、早めに寝ないと)

 思いがけなくできてしまった明日の予定を気にして、眠りの世界に入ろうと努力するのだが、なかなかうまくいかない。

 

 どんなにごまかそうとしても、意識の奥に、もっと重苦しい感情を押しこんでいたことを、否応なく思い出した。

 しばらくの間――そう、彼女と出会ってからほんのしばらくの間は忘れていたが、こうして自分の部屋に帰って、ハンガーにかけられた制服を目にした途端に、俺の心はまた鉛のようにどっしりと沈みこんだ。

 

 父さんの書斎にあった石井先生の手紙が、意識の底にひっかかっている。

『容態は今までになく悪く』

『ひょっとしたら』

『覚悟を』

 数々の言葉は打ち消そうとしても、あとからあとから頭に浮かんでくる。

 

(ちきしょう……!)

 薄い肌布団を頭までスッポリと被って、体を丸めた。

 自分で自分の体を抱きしめるようにして膝に額をつけた。

(俺にはもう本当に時間がない……!)

 あらかじめ知ることができのは幸運だった――なんてのは、ただの詭弁だ。

 救いようのない自分の気持ちをごまかしているだけだ。

 

 だけどそうでもしないと、頭がおかしくなってしまいそうなのも本当だった。

 なんだかよくわからない感情に、自分の何もかもが押しつぶされてしまいそうだった。

 

 窓の外は数時間前よりはあきらかに静かになっており、机の上に置かれた目覚し時計のカチコチという音だけが、部屋中にやけに大きく響く。

 その音が何かを急き立てているように感じる。

 刻一刻と近づいてくる、終わりの瞬間の足音のように聞こえる。

(ま、待って! ……まだちょっと待ってくれ!)

 

 我知らず左胸をぎゅっと押さえて心の中で叫んだ瞬間、固く閉じた瞼の裏に、思いがけず彼女の笑顔が浮かんだ。

 

『じゃあ行こうか……一緒にピクニック』

 俺のバカバカしい提案に、笑って頷いてくれた顔が浮かんだ。

 

 突発的な発作に良く似た、けれどあきらかに違う痛みが、俺のヤワな心臓を襲う。

 泣きたいくらいの気持ちで、俺はひとり苦笑した。

 

(あーあ。なんにも未練なんかないつもりだったのになぁ……)

 絶望と希望が、喜びと悲しみが、絶妙に入り混じった感情の中、ただ儚げな笑顔だけが頭に浮かぶ。

 

(俺って本当に馬鹿だなぁ……)

 カチコチと時計の音が無機質に時を刻む。

 その音はもはや、単なる時計の音にしか聞こえなかった。

 

 自分の感情を自覚したことによって、胸につかえていたものがほんの少し取れた気がした。

 ようやくウトウトと、まどろみの気配が訪れ始める。

 俺はホッと息を吐きながら、もう一度彼女の面影を瞼の裏に思い浮かべ、優しい――この上なく優しい気持ちで眠りについた。



 

 この夜彼女と出会えたことは、俺にとっては本当に奇跡みたいな幸運で、あとになって何度思い出してみても、悔やむことではなく、ただ神に感謝せずにはいられなかった。

 

 一番どん底の気持ちの夜に、今までに持ったことのなかった感情をもたらしてくれた人。

 

 俺は彼女との出会いで救われたように感じたし、事実、あの夜から俺の人生は百八十度、方向を変えた。

 それを辛い現実からの逃避だったとは思いたくない。

 俺のどうしようもない悪あがきだったとも――。

 

 未来に希望を持つことを無駄だとしか思えない俺には、とうてい叶えられそうにはない遠い『将来の約束』なんかじゃなく、彼女と交わした、いたって現実的な『明日の約束』が嬉しかった。

 

『じゃあ、明日迎えに来るよ』

 小さな約束に、見惚れるほどの笑顔で頷いてくれた人に、どうしようもなく惹かれていた。

 

 その感情をもっと正確な言葉で言い表すことも、彼女に伝えることも、俺にはできない。

 限られた短い人生の中では、きっとやってはいけないことだと思っている。

 

 けれど生涯でたった一つ忘れられない大切な残像のように、彼女の笑顔は俺の心に焼きついていた。

 たまらなく焼きついていた。

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