第18話 例会の後で……

 ガヤガヤと騒がしい居酒屋の一角で、私は啓一くんと並んで座っていて、向かいの席には吉見先生が座っている。隣のテーブルには大学院の教授と院生たちがいて、ビール片手におしゃべりをしている。

 そう。例会が終わってから、私たちは「飲みにけーしょん」に来ているのだ。

 場所は、駅からほど近い居酒屋。前から気にはなっていたけど、結局入ったことのないお店だった。


 乾杯を始めて、すでに1時間が経ち、お酒の勢いもあって普段聞けないようなことも教授から聞けた。


 教授が学生だったころの話。大学闘争時代で、先生もその活動をしてボイコットとかしていたけど、とある熱心な先生がわざわざ課題を送ってくれて、通信教育のような形をとってくれたこと。大学闘争でやり合ったにもかかわらず、今でもその恩師には頭が上がらないこと。


 過去のとある先生は、恩師の説が批判されていてどうにも分が悪い。説の内容がどうのと言う前に、義憤に駆られて恩師の援護をしようと筆を執ったらしい。よく読んでみると、どうにも水掛け論ぐらいには持って行けそうだと、論文を書いて論陣をはったというお話。


 その他、地元の教育委員会と一緒に、どこぞの旧家に史料の悉皆しっかい調査に行った苦労話など。しかもそこの史料を解読してよく調べてみたら、所蔵者にとって都合の悪いことが判明してしまったこと。

 どうやら後から教育委員会と所蔵者とがもめてしまっているらしいこと。


 別の旧家からは、一括して地域の博物館に資料が寄贈され、その調査にも参加した話。一つ一つを封筒に入れて仮番号を付し、ボランティアの人を集めて台帳を作成したこともあったそうだ。

 そこの博物館では、年報をサイト上に公開していて、日々判明しつつあるその資料群の解説をしているとか……。


 一つ先生からのアドバイスとして、これからも研究者としての道を歩むのであれば、誰かの説を批判する論文を書いて論文誌に掲載された時には、抜き刷りなりを相手に贈呈した方が良いとのこと。

 直接対面して渡してもいいけれど、相手に敬意を持って書いた批判であれば、むしろ感謝されるそうだ。


 弁証法で、テーゼに対するアンチテーゼがあって、その対立から止揚するジンテーゼを導き出すように、研究の深化につながる批判論文は貴重だし、それは同じテーマを研究する仲間が増えることを意味するんだよとのこと。


 研究発表をして、何も意見がない時ほど寂しいことはなく、質問できる機会があったら、色々と質問した方がよろこばれるよとのこと。


 講義ではほとんど聞けないような体験談の数々は、すごく面白かった。

 啓一くんも目を丸くしたり、一緒に笑ったり、はたまた質問したりと楽しそうに過ごしている。


 ちょうど話が途切れ、ぽっかりと空白の時間が流れた時、吉見先生が、

「ところで、今日の発表は良かったね。他の先生も、まだ学部生なのによく勉強してるねっていってたよ」

とお褒めの言葉を下さった。

 私は恐縮しながらも、

「いえいえ。実は……、啓一くんが色々と協力してくれて、そのお陰です」

と啓一くんを持ち上げると、啓一くんはうれしそうにしながらも、

「いやいや。俺は適当なことを言っただけで、基本的に京子が自分で頑張ったんですよ」

と先生にいう。


 私たちのやり取りを聞いていた吉見先生はうなづいて、

「私の家内は、同じ大学の同じ専攻でね。研究の題材こそ違ったけれど、専攻していた時代は一緒で、ほぼすべての講義を一緒に受けていたよ。けれどまあ、学生時分は盛んにぶつかり合った。……でもね。やり合っているうちに、その、好きになっちゃってね。あはは」

 そう言いながら、先生はビールを一口飲む。

「なんだか君たち二人を見ていたら思い出しちゃったよ」


 その言葉に、私の顔がかあぁっと真っ赤になる。

「せ、せせ、先生。そのう。私たち別にそういう関係じゃ……」というが、啓一くんは真剣な表情で、

「なるほど。わかる気がします」という。


 えええー! それって。それって、……どういうこと?


 混乱する私に、啓一くんがウインクして、

「まあ、俺たちはそういう関係じゃないですけどね。まだ」

という。なぜか「まだ」を強調している気がするけど、――それって期待してもいいのかな?


 それから間もなく、吉見先生が「じゃあ、そろそろお開きにしますか」といい、打ち上げは解散となった。

 隣のテーブルの先生が、「発表良かったよ。またいつでも例会においでね」と誘って下さり、院生のみなさんも「よろしくね」と言ってくれた。


 お店の外に出ると、時間は夜の8時で、まだまだ賑やかな雰囲気だった。

 家路を急ぐ人たち、お店に入ってちょっと一杯とする人たち。もうすっかり酔っ払っている人もいる。

 みなさんに挨拶をして、啓一くんと一緒に駅に向かった。


――――。

 西武線に揺られていると、啓一くんが、

「この後、ちょっと時間いいか?」

「もちろん。いいよ。幸いに明日は何もないし」

「そっか。じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」

「うん」


 私の降りる駅で一緒に降りた啓一くんは、「あっちだ」とすいすいっと迷うことなく私を連れて行く。

「ねえ。どこに?」

「――ここだ」

 そこは駅に接続している歩行者デッキの一角で、シンプルな時計塔のオブジェがライトアップされていた。

 啓一くんはそのそばのベンチの一つに座った。その隣に座ると缶コーヒーを手渡される。

「いつの間に」というと、「もう冷えるからな」と何でもないことのようにいう。


 缶コーヒーの蓋を開け、ちびりちびりと飲みながら、啓一くんが話を切り出すのを待っていると、

「前に話したっけ? 俺の家は両親とも忙しかったって」

「うん。聞いたよ。家に帰ってもほとんど一人だったって」

「その割には、一人っ子だから、父さんも母さんも俺に期待しててね……。放っておいたくせに勝手なもんだ」

「……ふうん」と返事をする私に、啓一くんが缶コーヒーを脇に置いて一通の手紙を取り出した。

 これって、もしかして、前に図書館で読んでいた手紙?

 啓一くんはその手紙を広げながら、

「これ、何だと思う?」と私にきくが、黙って首を横に振ると、

「お見合いしろってさ」

「え?」

 その言葉に胸が急激に苦しくなって、思わず右手で胸元を押さえた。

 ……でも、まだ大学三年生よ?


「悪いけど、俺の父さんと母さんの仕事は言いたくない。……たぶん、そのうち教えることになると思うけど」

「うん」

「去年ぐらいからお見合いなんて言い出して、俺は電話もメールも無視してたら、今度は手紙だ」

 私はおそるおそる、

「啓一くんは、お見合いは嫌なの? 相手の人は?」とたずねる。

 お願い、声が震えていることには気がつかないで。


 啓一くんは、「はっ」と言うとしばらく黙り込んで、立ち上がった。

 私に背中を向けて、空を見上げている。私もつられて空を見上げると、空には三日月が寂しげに浮かんでいた。

 なんだか啓一くんの背中がとても寒そうに見える。

 啓一くんは私に背中を向けたままで、

「俺は、父さんや母さんみたいな家族は嫌なんだ」

 そういって振り向いて、私の前にしゃがみ込んで缶コーヒーを奪って脇に置くと、そのまま私の手を取る。

 胸の鼓動がさっきから激しくドキドキと音を立てている。


 じいっと私の顔を見つめる啓一くん。どこか必死そうな表情。何か大切なことを私に伝えようとしている。


「俺は――。お前が好きだ。京子。俺と付き合ってくれないか」


 私の欲しかった言葉。啓一くんのことを意識しはじめてから、もしかしてって、ずっと期待していた言葉。

 目がにじんでくる。私は何度もうなづいて、

「うん。うん。……私も啓一くんが好きだよ。でも本当に私でいいの?」

と言うと、ぐいっと手を引っ張られて、いつのまにか立ち上がった啓一くんに抱きすくめられた。

「ばかっ。俺は京子がいいんだ」


 啓一くんのぬくもり、啓一くんのにおい、啓一くんの吐息、啓一くんの、……すべてに包まれている。


 ぐいっと顔を上げさせられて、目の前に啓一くんの顔が近づいてくる。私はそっと目を閉じる。

 私の唇に、啓一くんの唇が重なる。ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもった。

 重ねあうだけのキス。だけど、その甘美な香りとぬくもりに、私の心はたちまちに蕩ける。――啓一くん。愛してる。


 長い長いキス。ようやく唇を離すと、啓一くんの頬が緩んで、その目から涙が一筋こぼれていた。

「啓一くん……」とつぶやくと、啓一くんの指が私の目元をぬぐう。

 あれれ? もしかして、私も涙を?

 私も指でそっと啓一くんの涙をぬぐう。そして、

「好きよ。愛してる」と囁くように告げた。


 ずっとずっと求め続けてきた恋。中学、高校と誰とも付き合うことができなかったけれど、それは今日のためだったのかもしれない。


 啓一くん。――大好きよ。


 時計台の前で、私たちは再びキスを交わした。

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