募る思いは果てしなく

風/ビーズログ文庫

プロローグ 果てしない恋の始り





「別れてあげるよ」


 喫茶店で楽しく談笑していたところだった。

 なのにそんな言葉を口にされて、相沢尚あいざわなおはぽかんとした。


「あ、の……?」

「もう君を自由にしてあげる」

「えっと……私……」

「君は僕とは恋愛できない。僕はもう、それを認めるしかないと思った」


 やさしい声だった。思いやりにあふれた……

 尚はぐっと込み上げてくるものを必死に呑み込もうとした。

 きつく目を閉じ、それからゆっくり目を開いて相手を見つめる。


「……ごめんなさい」


 声が震えてしまう。

 心が騒めき、尚は震える唇をいったん閉じたが、どうしても伝えなければならない言葉がある。


「中田君、いままで……ありがとうございました」


 心を込めて深く頭を下げる。


「別れを切り出した相手にかける言葉じゃないね」


 中田はくすくす笑う。

 けれどその笑い声に、楽しい思いなど微塵も含まれてはいない。


「ただ……ひとつだけ言わせてほしい」


 切なそうな眼差しが尚に向けられる。

 正直、その目を見つめてはいられなかった。けれど、目を背けてはいけない。


「もう新たな恋愛はしない方がいい。だって君はすでに恋をしている。……僕はなんとしても君の心の中に入り込みたいと思った。でも……そんな隙間なんてどこにもなかった」


「……」


 やはり気づかれていた。

 このやさしい人に気づかれないように、心の奥底に押し込めていたつもりだったのに……


「女々しいな。愚痴がどんどん飛び出しそうになる。尚ちゃん、僕はそれでも君といられて幸せだったよ。でも……さよなら」


 中田は立ち上がり、レシートを手にして背を向けた。

 そして振り返ることなく行ってしまった。


 虚しさに囚われ、尚は椅子にもたれかかった。胸が疼く……


 最低だ……私。


 自分が救われたくて、彼に縋ったようなもの。

 そして、結局傷つけた……。


 あれは大学二年の時。

 中田に付き合ってほしいと交際を申し込まれた。

『あなたに恋愛感情はないから』と断った。

 けれど彼は、そのあとも諦めることなくアプローチしてくれた。


 とても真剣に、『僕は、きっと君に恋をさせてみせる』と言ってくれる彼は好ましかった。

 この人になら恋ができるかもしれないと思った。

 そして、付き合うことを承諾した。


 この半年間、デートを重ねた。

 楽しかった。

 なのに……ダメだった。


 彼を友人以上には思えなかった。


 彼のやさしさに甘え過ぎたんだ。

 私は、罰を受けるべきだ。


 ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちる。

 

 ふと、周囲の人の囁きが耳に届く。


「見て、あの人、振られたみたいよ」

「かわいそぉ~、あんなに泣いちゃって……」


 可哀想……? 同情される価値もないのに?


 尚は涙を拭き、立ち上がった。喫茶店を出て、電車に乗る。

 流れていく景色に空っぽの目を向け、尚は遠い過去を見つめた。




――花柄のワンピース、それを見つけた時、尚は『これは私のだ』と思った。


「お父さん、お母さん、お願いっ」


両手を合わせて必死におねだりする。


「高校生になったっていうのに。もう大人なんじゃなかったの?」


 母、諒子りょうこの言葉に、尚は顔をしかめた。


 確かに言いました。

 だって、高校の制服を着ている自分は、物凄ーく大人になった気がしたんだもの。


 でも、欲しいものは欲しい。

 まだまだ子供ね、と言われてもいいから、欲しい。


「お願いっ!」


 両手を思い切り合わせ、尚は頼み込む。


「まあ、いいんじゃないか。よく似合ってるしな」


 父、宗司そうじの寛容な言葉に、尚はパッと笑顔になった。


「お父さん、ありがとう!」

「もおっ、甘いわよ、あなた」 


 諒子はそう言いつつも、尚が試着した姿を見ると、態度を軟化させてくれた。

 尚は満面の笑みで両親にお礼を言い、買ってもらったワンピースを胸に抱えて家に帰った。


 友達と遊ぶと出掛けて行った弟の成道なりみちは、まだ戻っていないようだった。

 中学生になった成道は、とても気の合う友達ができたようで、ここ最近はその子とばかり遊んでいる。

 尚自身も、高校生になり芳野奈都子よしのなつこという子と仲良くなれた。


 成道に仲のいい友達ができたのはよかったと思うけど、少しはお父さんの将棋の相手もしてあげればいいのに……

 

 ここんとこ、成道が全然将棋の相手をしてくれないって、お父さん凄く寂しがってるんだよね。

 私が相手をしてあげられればいいんだけど、興味がないからルールが覚えられなくて……。


「尚、もう一度試着して見せてちょうだいな。写メ撮って、お祖母ばあちゃんたちに送ってあげたいから」

「うん、わかった」


 祖父母に写真を送るだなんて、もう恥ずかしいお年頃なのだが……無理にねだって買ってもらった手前、嫌だとは言えない。

 まあ、お祖母ちゃんも喜んでくれるだろうし、祖父母孝行をするとしよう。

 自分の部屋でワンピースに着替え、写真も撮るということならと、髪型もおしゃれに決めた。

 階段をトントンと下りたところに、成道が「ただいまぁ」と帰ってくる。


「成道、お帰りなさい」


 いつもより、やさしく声をかけた。

 だっていまの私は、素敵なワンピースを着ているんだもの。


「あっ、尚。へーっ、そのワンピいいじゃん。よく似合ってるぜ」


 相手が弟であっても、褒めてもらえれば嬉しい。

 それにしても、成道は子どもの頃から私のことを呼び捨てにするのよね。

 私を姉と認識していないかのようだ。

 物心ついた頃からすでにふたりの背丈は逆転していたから、見下ろす尚は、妹の位置に据えられているのだろう。


「ありがとう」


 お礼を言った尚の視界に、ひとりの男の子の姿が飛び込んできた。

 思わず、「えっ?」と叫んでしまう。


「ああ、こいつ、俺の友達。葛城響かつらぎひびきってんだ」

「あ……初めまして。葛城響です」

「は、初めまして。いらっしゃい」


 それだけ言うのがやっとだった。

 尚は真っ赤になって逃げるように居間に駆けて行く。


「お母さん、成道がお友達を連れて来たわよ」


 報告すると、諒子は玄関に出迎えに行った。

 もしかしたら、あの子が居間にやって来るかもしれないと考え、尚は慌ててキッチンに飛び込んだ。


 だって、こんな真っ赤になった顔で、あの子と顔を合わせるのは恥ずかしい。

 心臓が異様にバクバクしてる。……私、どうしちゃったんだろう?


「尚、どうした?」


 対面式のキッチンにいる尚に、宗司が声をかけてきた。


「えっ? あ、ああ……な、成道のお友達に……の、飲み物でも淹れるなら、お、お手伝い、しようかなって……」


 しどろもどろになりながらも、なんとか言い訳を口にしたが、いまの自分の状態が恥ずかしくてならない。

 もおっ、私ってば、ほんとにどうしちゃったの⁉ いっそ、思い切り頭を叩いてやりたい。


「それは母さんがやるだろ。ほら、写真撮るから、こっちにおいで」


 宗司に呼ばれても、とても居間に出て行けない。

 その場でもじもじしていたら諒子が戻ってきた。


「あら、尚、こんなところでどうしたの?」

「な、成道の友達に飲み物を持って行くでしょ? 私、い、淹れてあげようかなって、思って」


 なるべく平静に見えるように口にするが、うまく言えているか、はなはだ不安だ。


「私がやるからいいわよ。うん? そのワンピースやっぱりあんたに似合うわね。お祖母ちゃん喜ぶわよ。ほら、お父さんに写真撮ってもらいなさい」

「な、成道たちは?」

「部屋に上がったわよ。……ああ、なんだ尚ってば、成道の友達が来たから照れ臭かったのね」


 言い当てられて、ドキリとする。


「写真を撮るところを見られるのが恥ずかしかったんでしょう?」


写真?


「あ、う、うん」


 母の誤解に乗っかれて、尚はほっとした。


 写真を撮るから恥ずかしい、というわけではなかった。

 なぜかあの子に対してだけ、物凄く恥ずかしいという感情が湧いてくるのだ。

 

 照れ臭い……なのかな? 自分でもよくわからない。

 私、ほんとにどうしちゃったんだろう? あの子の顔が頭から離れない……


 葛城響……名前も素敵だ。

 けど、成道と同級生だから、当然私より三つ年下なんだよね。

 

 そう考えたら、ちょっと熱が冷めた。


 やだ。あの子、まだ中学一年生なんだ。

 私ってば、ドキドキしちゃってバカみたい。

 

 尚は、響のことを頭から締め出し、居間に入っていった。


「おっ、似合うな。俺の娘は最高に可愛い」


 親馬鹿発動だ。

 なんて思いつつも、尚は父の前に出て、両手を広げて一回転してみせる。

 

 すると、キッチンから母が出てきた。

 諒子はジュースを載せたトレーを手にしている。


 私が持って行こうか? そう言いたかったが、そんな勇気はない。


「あら、やっぱりいいじゃないそれ。にしても、尚は私に似て美人よねぇ」


 そんなことを言いつつ、母は部屋から出て行く。

 閉じたドアを見つめ、尚は肩を落としたが、すぐに顔をしかめた。

 だから、あの子は私より三つも年下だってば!


 自分に呆れつつも、尚はずっと居間から動けなかった。

 もしかすると、響が居間に来るかもしれないとそわそわしてしまう……

 だが期待は外れ、彼が居間に来ることはなかった。

 

 私ってば、どうしてあの子のことをこんなにも気にしてるの?


 一回顔を合わせて、目を合わせて、それだけなのに……

 あんたおかしいわよ、尚。

 あの子は中学生、しかも一年生なのよ。


 何度自分を諭しても、心は言うことを聞いてくれない。

 苛立ちを感じていたその時、帰っていく響を見送った母が戻ってきた。

 尚は何気ない感じで立ち上がり、自分の部屋に駆け戻った。


 もう帰ってしまったかもしれないけれど……

 そう思う一方で、まだいるかもしれないという思いに急かされる。


 自分の部屋に入り、尚は窓に駆け寄った。

 レースのカーテン越しに響の姿を懸命に探す。


 あっ、いた!


 彼はまだ玄関先に居て、成道と話をしていた。

 自転車で来たようで、サドルにまたがっている。

 レースのカーテン越しに見る響はすらりと背が高くて、ひどく大人びて見えた。


 なんだか、私より年上みたい……


 その時、響がすっと上を向いた。

 目が合った気がして、尚は慌てて窓から飛びのく。


 心臓が壊れそうなほどドキドキした。

 両手で胸を押さえ、尚はずっとその場に立ち尽くしていた。


 その日から、響は頻繁に家にやってくるようになった。


 初対面の日の尚のドキドキは、ずっと続いている。

 いや、悪化の一途を辿っていた。


 そんな自分が嫌なのに、どうにもできない。


 ただ、響もなんとなく尚を気にしてくれている気がした。

 彼に目を向けると、ふたりの目がよく合うのだ。

 言葉はなかなか交わせなかったが、その眼差しだけで、尚は幸せを噛み締められた。


 成道と響が父の将棋の相手をするようになり、居間にいる間、尚は響の横顔が見える位置に座り、静かに本を読んだ。

 ポーズだけでは後ろめたいので、一生懸命文字を追う。

 けれど、中身はまるで頭に入って来なかった。


 本を読むかたわら、時折響を見つめる。

 それは、尚にとって至福の時間だった。

 

 だが、ちょっと気になることもあった。

 それは、彼が時折見せる表情……


 寂しさなのか悲しみなのか……とにかくそういった感情を、響は心の奥底に抱え込んでいるように見えた。



 ふたりが初めて言葉を交わしたのは、梅雨に入った頃だった。


 その日は日曜日で、響がいつもやって来る時間になって、急に雨が降り出したのだ。

 それに気づいた尚が外に出てみると、自転車でこちらに向かってやってくる響の姿が見える。

 尚は慌てて家に駆け戻ると、タオルを手にしてまた外に出た。


 ちょうど、びしょ濡れになった響が到着したところだった。

 速まる鼓動を抑えつつ、尚は響にタオルを差し出す。


「こ、これ、使って」


 緊張しすぎて喉が渇き、声を出しづらい。

 我知らず大きく息を吸い込んだりして、そんな自分に気づくと恥ずかしくてならなかった。


「あ……ありがとう」


 もごもごと礼を言った響は、自転車を停めると、ぎくしゃくした歩みで尚の方にやってくる。


 その瞬間、息が止まりそうになった。


 初めて響と会話をしたという事実で、尚の胸はもういっぱいだ。

 自分が響に特別な思いを抱いていることはわかっていたけれど、尚はそれを認めたくはなかった。

 だって、高校生の自分が中学生の男の子に本気で恋をしているだなんて認めたくない。


 そうして秋になる頃、響はほぼ毎日、家でご飯を食べていくようになった。

 そのことに、当時の尚はなんの疑問も抱かなかった。

 ただ、響と一緒に食事できるのが嬉しかった。


 この頃には大分会話もできるようになっていたが、響は元々無口な子で、尚も彼のことを意識しすぎるあまり長く会話は続かない。

 それでも響がますます尚の特別になっていくにつれ、尚は響に恋をしている事実を認めるしかなくなっていた。


 一年が過ぎ二年が過ぎた頃、友達の奈都子が担任の教諭を好きになった。

 叶わぬ思いに胸を切なくさせている奈都子に共感し、尚も自分の思いを話した。

 奈都子は尚の好きな相手が中学生だと知っても、バカにしたりせず、それどころか『私より可能性があるよ、頑張れ』と励ましてくれた。


 それからはほとんど変わらぬ日々が続き、響はいつも近くにいたが、ふたりはずっと同じ距離を保っていた。

 父や成道と居間で将棋をする響の姿を、尚はずっと見ているだけだ。


 それでも、響はもしかしたら自分のことを好きなんじゃないかと、ふと目が合うたびにそう思ってしまう瞬間があって……


 けれどいつだって最後は、三つも年上の私を好きになってくれるわけがないという結論に至り、結局は切ないため息をつくのだった。


 尚が高校三年生になって、そろそろ初夏になろうかというある日、成道が居間に駆け込んできた。

 尚はソファに座って本を読んでいた。

 両親は法事に出かけていたので、成道とふたりだけである。


「尚、俺ちょっと文房具買いに行ってくる」

「わかったわ。あの……響君は、今日も来るの?」

「来る。三時くらいって言ってた。俺、それまでに戻るからさ。もし響が先に来たら、頼むな」

「う、うん」


 成道はすぐに出かけていった。

 ひとりになった尚は、そわそわしてしまう。

 もし響が早く来たら、ふたりきりだ。

 こんなことは初めてで、テンパってしまいそうになる。


 ああ、でも成道は、響君が来るまでには戻ってくるって言ってたものね。

 焦ることないわよね。


 ほんと、もう高校三年生になったのに……少しは落ち着け私!

 そう自分に言い聞かせた尚はソファに座り、また本を開いた。

 来年は大学受験だ。

 将来はインテリアコーディネーターになりたいと思っている。

 すでに専門の大学をいくつか探してあり、家から通える大学に進むつもりでいた。


 遠くの大学に入ってしまったら、響と会えなくなってしまう。


 奈都子は東京の大学に行くつもりらしい。

 恋をしていた教諭は結婚してしまい、彼女はいまだに失恋の痛手を抱えている。

 それもあって、早く卒業して家を出たいと思ったようだ。


 昨日も冗談交じりに、『尚も東京の大学にしなよ。あんたとアパートをシェアできたら家賃が安くなって助かるし』なんて言っていた。


 私も、もし響君に彼女ができたとしたら死にそうになっちゃうかも。

 冗談抜きで、息も満足にできなくなりそうだ。


 そんな日が、決して来ませんように。


 両手を合わせて必死に祈っていたら、家の呼び鈴が鳴った。


「えっ? だ、誰?」


 時間を確認したら、まだ二時前だ。

 尚は慌ててドアホンに駆け寄り、ボタンを押した。


 そこに映ったのは……


 嘘! ひっ、響君だ!


「は、はい」

「あの……俺」

「は、はい。響君、すぐにドアを開けます」


 テンパって、慌てて玄関に駆けていく。

 わ、私、この服で大丈夫? 変じゃない?


 暴走する心臓を持て余しながら、尚は鍵を開けて響を招き入れた。


「ど、どうぞ。な、成道はいま、文房具を買いに行ってるけど、すぐ戻るから上がって待っててって……」

「あ……いや、なら……俺、もう一度、出直す……」


 響が出て行ってしまいそうになり、尚は思わず彼の腕を掴んだ。

 響が驚いて振り返る。


「あ、ごめんなさい」


 尚は慌てて手を放した。

 すでに顔は真っ赤だ。

 汗まで吹き出てきてしまい、尚は響から顔を逸らした。


「で、でも……待ってもらっといてって、言われたし……」

「そう……ですか? それじゃ……あの……」


 響がこちらに向き、上がるそぶりをする。

 尚はほっとし、スリッパを出した。


「あ……ありがとう」

「ど、どういたしまして。あの、居間でいいわよね?」


 成道の部屋に入ってしまったらもう顔を合わせられないと、咄嗟にそんなふうに言ってしまう。


「尚さんが……いいなら」

「もちろん、いいわ。……飲み物、出すわね」


 よし。ちゃんと会話できてる。

 それに年上らしく対応できてる。


 少しほっとし、尚は居間へと響を促すと、キッチンに入った。

 彼は、炭酸飲料はあまり好きじゃない。なので、オレンジジュースにしておいた。


「どうぞ」

「ありがとう」


 お礼を言い、響がグラスを手に取って飲む。

 尚も自分のグラスを手に取って飲んだ。


 オレンジジュースの味がよくわからない。

 どうやらかなり緊張してしまっているようだ。

 年上らしく振舞わないと。

 何か話題は……そ、そうだ。


「あの、響君は高校どこに決めたの?」

「まだ、少し悩んでて……。あの、尚さんは?」

「私は、地元の大学に……」


 インテリアコーディネーターを目指していることを言おうかと思ったが、もしなれなかったら恥ずかしいと考えてしまい、口にはできなかった。


「そうなんだ」


 響がほっとしたように見え、どきっとする。

 も、もしかして、地元の大学って言ったから?


 いやいや、違う違う。

 そんなわけない。

 もう私ってば、自分のいいように思い込むとか……恥ずかしすぎる。

 そう思いつつも尚の頭の中では、特別な眼差しを向けてくる響を思い浮かべてしまう。


 尚はグラスに視線を当てている響をそっと見つめた。


 もうすぐ高校生になるんだ。

 私は大学生……けど、ここ最近の響君は青年の雰囲気になってきていて、とても大人っぽく見える。

 声変りもして、その声が本当に魅力的なのだ。

 たまに見せる笑みにも心臓が壊れそうなほどバクバクしてしまう。


 彼の目も、鼻筋も唇も……そしてその手も……触れてみたい。


 響君の何もかもが、とんでもなく魅力的に見える……

 って私、おかしいのかな?


 その時、響が尚の方を向いた。

 ばちっと目が合ってしまい、尚は驚いて顔を伏せる。


 ううっ、気まずい。

 ずっと見つめていたのが、バレてないかな……


「あの……」

「な、何?」

「俺、その……やっぱり、出直します」


 そう言って、響が立ち上がる。


 えっ?


 よく見れば、響は彼らしくなく、もじもじとして落ち着かないでいる。


 嘘! まさか、響君に嫌われた?


「あ……」


 言葉が出ない。

 もう泣きそうだ。


「尚さん?」


 響が呼びかけてきたが、涙を堪えていた尚は返事ができなかった。


「尚さん? あの、どう……」

「な、なんでもないから。あの、私は部屋に行くから、響君はここにいて」


 尚は立ち上がって言い、ドアに駆けていこうとした。

 だがその手を響が掴んでくる。


 驚いて振り返ると、響はパッと手を放した。


「ご、ごめん。あの……」


 尚は謝ってくる響と目を合わせた。

 すると、どうしてか結びついた視線が逸らせなくなる。


 いつの間にか、ふたりの距離は狭まり、そして……

 軽く抱き合い唇を重ねていた。


 どうしてそんなことになったのか、まるで分からない。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

  いま、尚は響とキスをしている。

 

 お互いに相手を求め、ぎこちないキスは深まっていった。

 心が舞い上がり、尚は至福の中にいた。

 

 私の思いが通じたんだ。

 私、響君と両思いになれたんだ!


 その時だった。


 ドン! と、押された。


 尚が我に返った時、すでに響の姿はそこになく。

 

 遠くでバタバタと駆けて行く足音がし、玄関ドアが乱暴に閉まる音がした。


 呆然として立た尽くしていた尚の胸に、じわじわと恐怖が這い上ってくる。


 私……何をしてしまったの?


 年下の男の子にキスをして、突き飛ばされた……?

 膝がガクガクしてきて、その場に頽れる。

 

 嘘! 嘘‼ 嘘っ‼


 こんなの現実じゃない!

 こんなの夢よっ!

 そうでしょう? そうよね?


 後悔の涙が湧き上がり、尚は床に座り込んだまま泣きじゃくった。


 ――この日から、響は家に来なくなった。

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